「そろそろ着くよ、ほら……」

 更に十分ほど歩いたとき、ふと禊が足を止めて言った。

 彼女の指差す先には規制線。防護服を纏った十人ばかりの作業員と、それを監督するように声を上げる背広の男。警官も数人混じっており、物々しい雰囲気を醸し出している。

 作業員が路面に札を貼り付けると、それを起点に生じた半透明の壁が道を塞ぐ。怪異を封じ込める結界の一種だ。奇妙な技術と作業員の奇抜な格好は、彼らが『局』の所属であることを明示している。

 警官の一人が奏彌たちに気付いた。彼は二人に少し待てと手で合図を送り、背広の男に駆け寄って尋ねる。

「課長、橘が来ました。きちんと汀家の養子を連れてます」

「来たな。先程鬼籠の『匂い』がしたが……野良の怪異と一戦交えてきたか」

 月城朔。どこか機械的な声と共に振り返ったその男は、ほとんど燃え滓のような紙巻きを咥えていた。

「禊が荼毘に付してくれた。少しは回収も楽だと思うから、諸々頼む。さて、今夜の獲物はどんな奴だ?」

 ――それが発覚したのは先週の某日。特高の一人が新聞に掲載された記事を見て、得も言えぬ違和感を覚えたことに端を発する。

 曰く、どんな病も治してしまう奇跡の名医がいる。騒ぎを避けてその名を隠し、看板も掲げず営業しているが、我が社は独自にその情報を得ることに成功した。

 奇跡の秘訣は、医者が処方する万能の薬にある。本来完治に数か月は必要な外傷を一晩で鎮めるどころか、服用すれば、不治で知られる結核さえもたちどころに消えてしまう――と言うではないか。

「眉唾な……そんなものがあれば、今頃世界はとんでもないことになってるだろ」

「現場が優秀で俺も助かる。その日の俺に報告が来て、こちらから人員を送り込んだ」

「……して、結果は?」

「酷いものだ。何人か検査したが、その全員が、程度は違えど水銀中毒に陥っていた」

「ミズガネ……ああ、なるほどな。ドが付くくらい直球だ、隠しようがない」

「ん? どういうこと?」

 はっと気付く奏彌の横で、禊が小さく首を傾げる。二人をそれぞれ見比べた月城は、奏彌に満足気な頷きを見せ、禊には落胆の溜息を吐いて見せる。

「御影は気付いたか。教養の差が出たな」

「……何が言いたいの」

 月城はむっとした顔の禊をあしらい、奏彌に向かって「説明してやれ」と告げる。

「汞、文字通り水銀の別名だ。水銀を含む辰砂が仙薬とされたように、不死との繋がりも浅からぬものがある。こういうことだろ?」

「親として、鼎は最低限の教育はしたものと見える」

「……そうなの」

「敵方に察知される可能性を考慮して、民間人の避難は実施していない。とはいえ舞台は整えてやった。あとは貴様ら次第だ」

「あんたは手伝ってくれないのか? 折角ここにいるのに」

「生憎忙しい。喫緊の案件に追われる身であるから、顔だけは出してやった」

「そりゃ残念だ……『ヴェルダンの悪夢』の仕事ぶりを拝見……」

「――もう一度その名で呼んでみろ。二度と貴様には仕事を回してやらんぞ」

 凄まじい形相で奏彌を睨みつつ、月城は懐に手を伸ばす。そこから一枚の紙切れを取り出し、何やら殴り書きして奏彌に渡した。

 紙面には住所。ここへ行けということのようだ。

「当然敵方も構えているだろうから、くれぐれも油断はするなよ……尤も化物憎しで動く貴様のことだから、万に一つもあり得ん話だとは思うが」

「よくわかってるじゃないか。行くぞ、禊」「あ、うん……」

 奏彌は道を塞ぐ結界の前に歩み寄る。側にいた作業員に軽く会釈をすると、一方通行の結界をすり抜けて規制線を越え、封鎖された区画に足を踏み入れた。

 道の左右には、青白く冷たい光を放つ街灯が並ぶ。住民が外の違和感に気付くことはない。『局』の展開する結界は、彼らの認識を狂わせる効果も持っているのだ。

「ねえ、さっきの悪夢がどうとかって……何のこと?」

「僕の親と二人、先の大戦で欧州に送られたんだ。そこで色々あったらしくてな……」

 疎らに灯る家々の光は、何も知らない哀れな者達の営みそのもの。そこに嘗ての己を重ね合わせながら、奏彌は再び歩き出す。

 嗚呼、今夜は何人死ぬだろう。夜はまだ、始まったばかりだ。

 〇

 闇夜に包まれた街の中、二色の光芒が宙を駆ける。

「やれ――『十紘迦斬』!」

 初めに蒼白の雷。弾丸の如く飛翔する剣は、敵の身体を縫うようにして貫く。

「焦がせッ!」

 そして次に、煌々と燃え盛る橙の三日月。それは敵の集団を十把一絡げに焼き焦がし、白骨の山を作り出す。

 二人が相対する敵は、全身の皮膚に赤い結晶を浮かべた化物たち。四肢の筋肉が異常に発達し、しかし生活感のある衣類を身に纏っている。彼らは理性を失った獣のような咆哮を上げながら二人に迫る。

「畜生、また来た。キリがないな!」

 倒しても倒しても、どこからともなく新手の集団が姿を表す。

 彼らの状態は様々だ。ほとんどヒトと変わらない姿をしている者がいたと思えば、その隣には、完全にヒトとしての姿を失っている者もいる。

 汞の毒牙に掛かった者だろう。その赤い結晶―恐らく辰砂―が、それを如実に物語る。

 奏彌に迫り来る出刃包丁。乱雑に、しかし確実に彼の首筋へ狙いを定めている。比較的『軽傷』な者達には道具を扱う技能が残っており、包丁や鉈など簡易な刃物で武装していた。

「遅い――『六華天壇』!」

 札に手を伸ばし、障壁を展開して刃を弾き返す。敵の武器が二人を害することはない。奏彌には障壁が存在し、禊はそもそも近付く前に焼き殺してしまうからだ。

 しかし、負けないことと勝てないことは並立し得る。奏彌が対峙する敵集団はおよそ四十体、一本の剣では到底処理が追い付かない。彼は眉を顰め、懐に手を伸ばす。

「スロットルを上げるぞ――『戦剣陣渦』!」

 奏彌の正面に二十本の剣が浮遊し、戦列のような陣形を作り出す。腕を振り下ろすと、彼らは隊形を維持したまま一斉に突撃を開始した。

 一定の間隔を空けて迫る剣の壁。その制圧力は高く、敵は次々に剣に斃れてゆく。

「わたしも……ちょっと本気!」

 禊も一つ力の段階を切り替えたものと見える。巨大な火柱と化した刃を乱雑に振り回すと、切先から幾重にも放たれる炎の斬撃が化物たちを呑み込んでゆく。

 敵の大半は大人だが、奏弥はそこに混じった子供の姿を視認する。

「……悪いな、助けてやれなくて」

 だからといって、奏彌が加減することはない。頭上から降り注ぐ剣の雨に苛まれ、小さな化物は幾つかの肉塊に解体される。

 奏彌の斃した敵から流れる血液が土を朱く染め、禊の燃やした敵の骨がそこに彩を添える。

 二人の周囲には、さながら屍山血河が如き光景が広がっていた。

 ――事の始まりは、封鎖区画に侵入してから十分ほど歩いた時のこと。

 歓楽街のネオンは遙か後方、頭上には重苦しい曇天の空が広がる。生温かい風が吹き抜け、周囲はどこか異界じみた気配に満ちている。そんな中にぽつぽつと並ぶ青白い街灯だけが、ここが確かに人の領域であると主張する。

 風に乗って枯葉が舞う。道端の草が頭を垂れ、ツンとした刺激臭が鼻腔を刺す。

 本来ならば、それも異常の一つとして意識しなければならない筈なのだが。

 しかしこの時の奏彌の意識は、全く異なるモノに支配されてしまっていた。

 ――『みんながみんな、そうありたくてあるんじゃない』

 ――『それだけは、忘れないであげてほしいな』

 そう言って微笑んだ禊の声が、幾度も頭蓋に反響して消えてくれない。忘れようと意識するほどに、一層激しく増幅されて奏彌を苛む。

 困惑しているのだ。自分でも明瞭に判る程に。

 胸の奥深くで激しく渦巻く、この得体の知れない感情は何なのだ?

「止まって。奏彌」

 その時。奏彌の懊悩を断ち切るように、足を止めた禊が口を開く。

「っ……どうした?」

 禊は奏彌の問い掛けに答えない。無言で袋から刀を取り出すと、徐に鞘から刃を抜く。

「なあ禊、急にどうしたんだ」「……何か変じゃない?」

 禊の掌から炎が生まれ、柄を伝って刀身を覆う。

 奏彌には見えない存在と、既に禊は戦う気でいるのだ。

「変……確かに妙な胸騒ぎはするが。お前は何を感じた?」

「――感じるもなにも。さっきから、誰もいないよ?」

 かさかさ、ひゅーひゅー。耳を澄ませば、吹き荒れる風と枯葉の音。

 そして二人に聞こえる音は、それが全てだった。

 民家から聞こえるはずの子供の声も。窓から漏れる電球の光も、釜から漏れる炊飯の香りも。

 本来あるはずの人間の営みが、ここには何一つ存在しなかった。

「ない。本当に誰もいない……これか、違和感の正体は……!」

 奏彌ははっとする。寝ぼけ眼に冷や水を掛けられたかのようだ。

 一体いつからだ? 平日の夜だと言うのに、斯様なことがある筈がない。慌てて前方に剣を侍らせ、左右に一枚ずつ障壁を構えて周囲を見回す。

「気付いてなかったんだ。何も言わないから、こういうものだと思ってた……」

 まるで幽霊都市。人間だけが忽然と消えてしまったかの如き、異様な世界が広がっている。

 異変はそれに留まらない。突然街灯が激しく明滅し、ばちんと音を立てて光が消える。

 一筋の月光も、一粒の星明りも届かない曇天の下。加えて周囲の民家も真っ暗なのだから、二人は完全な闇の中に包まれてしまう。

 互いに背を預けた二人は各自の武器を構える。奏彌の剣を覆う雷と、禊の刀が纏う炎。白と橙、二つの光が周囲を照らし出したその時……

「ひっ……!」

 禊が掠れた悲鳴を上げて奏彌にもたれ掛かる。

「落ち着け何があった……なっ⁉」

 釣られて振り返った奏彌も、その視界に映る光景を前に驚愕した。

 二色の光に照らされたのは、裸足で四つん這いになった一体のバケモノ。全身に赤い結晶を浮かべ、グズグズに崩壊した組織から体液が滴る。筋肉は著しく肥大化し、しかし顎は力なく開いたまま。粘度の高い涎を垂らし、濁って焦点の合わない両眼で二人を見つめる。

 そして。ソレは二人に思考の暇を与えることなく、掠れた絶叫を上げながら襲い掛かった。

「焦がせッ!」

 即座に禊が動いた。彼女が刀を振り降ろすと、切先から三日月状の炎が放たれる。橙色の炎は化物を両断し、路上に一筋の黒い焦げを生み出した。

「これ、まさか」

 炎上する化物の死骸を見下ろし、眉を顰めて禊が呟く。

「……ああ。たぶん僕も、お前と同じことを考えてる」

「だね。まあ、どっちにしても……」

 禊が周囲を睨み付ける。それまでの静寂が嘘のように、夥しい数の足音が鳴り響く。

 前から、後ろから、左右の脇道から、民家の窓から。数えるのも億劫になる程の化物たちが、二人を包囲するように姿を表す。

 無人の住宅街に、民家からも姿を表した化物。事ここに至っては戦うしかない。素通りできる状況ではないことは明白だ。

「ああ。このまま無傷で返してくれる、行儀のいい連中でないことだけは確かだな」

 ――そして今に至る。

「これで……終わりだッ!」

 最後の一体が首を撥ねられ、再び一帯に沈黙が戻った。激しい戦闘に発展したにも関わらず、やはり人の気配は感じない。一帯の住人は、漏れなく変異させられてしまったのだろうか。

「よし。新手は……来ないな」

 奏彌は苦々しく周囲を見回す。肉も骨も、夥しい化物の残骸が視界を埋め尽くす。昂った呼吸を鎮めようと鼻で息を吸い込めば、鼻腔が噎せ返るような腐敗臭で満たされる。先程感じた刺激臭は、これらの化物が放つものだったようだ。

「面白いね、君のチカラ。昨日は急いでたから、あんまり見てる余裕なかったけど」

 振り返った禊は平然とした顔。白磁のような肌には汗ひとつ浮かんでいない。

「ヒトが神様を、ほんの一端とはいえこの世に降ろす。本来であれば身が持たないが、使い捨ての札を身代わりにすることで、術として成立させてるんだ」

「へぇ……でも神様っぽくないね。剣とか盾とか、武器だけ?」

「いや、それで正しい。神をヒトの作った概念……ここでは剣や盾に見立てて、規模スケールを縮めて使うんだ」

 時に人間は、本質の異なるものを同一視することがある。舞踊における扇が、ある時は剣、またある時は鏡、更には風雨のような自然現象まで、非常に多様な概念を演じるように。それは超常の世界でも変わらず、むしろ常識を超越した世界でこそ真価を発揮する。

「直接ヒトの身体に神様を降ろすやり方もあるらしいんだが……使ったが最後、死ぬらしい」

 白虎の爪を剣に見立て、玄武の亀甲を盾に見立て、青龍の息吹を薬に見立てる。神の力をヒトの世界に落とし込む、超常と平常を媒介する境界人らしい技術ではあると奏彌は考える。

「へえ……それで、どうしよう? 一旦戻ったほうがいい?」

 余りに多くの死人が出た。このような事態を前にしては、一時撤退して判断を仰ぐのも手であろう。

 だが、それは却って敵に時間を与えることになるだろう。仮に『汞』が文字通りの水銀ならば、封鎖をすり抜けて逃げ遂せる手など幾らでもあるのだから。

「いや、このまま行くぞ。その隙に逃げられては敵わん……っと」

 物言わぬ肉塊と化した化物を踏み付けぬように、奏彌は慎重に歩く。

 触れることで呪詛の類が移る可能性もあったが、それよりも。

 この化物は、十年前の奏彌と同じ存在。哀れな超常の被害者だ。彼らと己を重ね合わせた時、間違っても奏彌は、これらの死体を踏み付け、蹴り飛ばして進む気には到底なれなかった。

 禊が奏彌の倒した敵の死骸に向き直ると、刀を抜いて足元に突き立てる。

「……少し待ってて。この人たちも、ちゃんと燃やしてあげたい」

 刀身が橙の炎に覆われる。その切先が路上に触れると炎が広がり、まだ肉の残る敵―奏彌の剣によって貫かれた者たち―の躯を包み込んでゆく。

「そう。ここにはもう、誰もいないんだ」「……何の話だ?」

 白い髪は炎を反射して輝き、白い肌もうっすらと橙に染め上げられる。彼女の意味深な独り言を聞いた奏彌は尋ねるが、禊は何も答えない。小さく首を振って歩き出す。

「行こう。向こうもきっと、わたしたちに気付いただろうから」

 炎が消える。後に残るのは冷え切った闇と、冷たく肌を刺す寒風だけだ。

 禊の向かう先には、住宅街の中に毅然と聳え立つ洋館が一軒。

 禊の表情は固い。いつしか雲は晴れ、燦々と輝く月が二人を照らしていた。

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