弐―『汞の嘲笑』

「手伝うよ。あんたに包丁握らせると、僕の方が怖いんだ」

 奏彌が暖簾を押して土間に足を踏み入れると、そこには台所に立つ鼎の後姿。浴衣の上に割烹着を纏い、長い赤毛を後頭部に纏めている。

「遅いじゃないか。寝坊かい?」

「……夢を見た。火の海の中で妙なガキに説教食らう、いつものやつだ」

「はあ、またそれか」奏彌の返答に、鼎は溜息を一つ。「両親の遺体が十字架に掛けられてるとかいう、あの。過去は忘れろ、そう言えるものでもないのが難儀だね」

「安心しな、忘れる筈もないよ」

 嗤う。今の奏彌が彼足り得るのは、かつての地獄があったが故に。

 鼎の隣に立つと、鍋から立ち昇る湯気が冷えた鼻先を温める。出汁の香りがしないのは、鼎が忘れているからなのか。或いは、その概念さえ知らないのか。

「おい、もっと慎重にやったほうが……」

 鼎の手には包丁。目線を奏彌に向けつつも、彼は大根を刻む手を止めようとしない。小刻みで軽快なリズムは、しかし奏彌に警報のサイレンを聞いた際のような不安感を与える。

「大丈夫だって。もう十年やってるんだから、流石に慣れ……あ」

 ぐちゃり。奇妙な音が一つして、嫌な予感が奏彌を襲う。

 奏彌が恐る恐る視線を鼎の手元に向けると、しかして予想は的中する。彼の左手の人差し指――その先端の一寸ばかりが、袈裟斬りにされた巻藁が如く、ざっくりと切り落とされていた。

「あーあ、またやらかした……」

 肩を落とす鼎。怪我を自力で治せる為だろう。流血に対する耐性が染み付いてしまっている。

 そしてそれは、奏彌もまた同様だった。溢れ出る血に呆れた表情を浮かべ、懐から札を取り出して鼎の指先に掲げる。

「妙なところで不器用だよな、あんた。包丁使っていい人間じゃない。人を雇うなり、嫁さん迎えて作ってもらうなりしたらどうなんだ?」

 鼎は答えない。指先が再生する中、後ろめたさでも隠すように、奏彌から目を逸らす。

「あんた、割と美形の部類に入ると思うんだが。まだ四十にもならない身なのに、見合い話の一つもないのか?」

「……たまに来るよ。ぜんぶ断ってるけど」

 奏彌が何故かとと尋ねると、鼎は「…………内緒」と、酷く後ろめたそうな声を返した。

 鼎は独身だが、しかし不妊とか、或いは女嫌いであるとか、そういった訳ではないらしい。

 彼の中の何か高潔な意志だけが、彼を独身足らしめている。

「あんたが世継ぎを産まないから、僕が要らぬ疑いを掛けられてるってのに……」

「僕の息子は奏彌、君がいるだろう」

「拾った野良犬に情を掛けるのは結構だが、それを我が子と勘違いされては困る。僕はあんたの力が欲しくてここにいるんだ」

「そうか……いや、そうは言ってもなあ……」

 鼎は未練がましい声を漏らす。奏彌はその真意を見抜けないが、さして鼎の内面に興味がある訳でもなかったので、別段どうということもなかった。

 ◇

 市谷から歩いておよそ一時間。奏彌は昨日禊と別れた場所にやってきた。

 建物を覆っていた蔓は全て除去されてしまっていた。死人が生き返ることはないが、それでも一定の日常が戻りつつある。

 時刻は午後四時半。家路を急ぐ人の群れに巻き込まれてしまった奏彌だったが、本当に禊はいるのだろうか――といった懸念は杞憂に過ぎなかった。

 禊の姿は大層目立つ。艶のある白髪は言うまでもなく、橙の瞳と鈍色の服装も、暗い色調の衣類に溢れた街に在っては十分な異彩を放っている。

「いた……おーい!」

 そして、彼女の声量もそれに拍車をかける。刀剣を収める細長い布袋を背負った禊は、奏彌を見つけるなり、大声で手を振りながら彼の元へ駆け寄ってきた。

「今日からよろしく、奏彌!」

 奏彌を見上げて右手を差し出す禊。何か考えるところがあったのだろう。昨日の暗い表情はどこかへ消え去ってしまっていた。

 灯り始めた街灯、ショーウィンドウの蛍光灯。通り過ぎてゆく自動車のヘッドライト。そのどれよりも、彼女の顔は輝いて見える。

「月城さんから聞いてる。『局』が捜索に噛んでいるらしいな」

「知ってるんだ……それなら早いね。二人目の『ミズガネ』っぽい奴が確認できたらしいの」

 ミズガネ。水銀の別名。名前というより、称号や個体の識別名のようだ。

「探すところまではやってもらって、あとは一人で……のつもりだったんだけど。わたしの我儘で人が死ぬくらいなら、君に手伝ってもらったほうがいいかなって」

 平日の夕方。活気に満ちた都会の喧騒を、二人はどこか余所者のように歩く。

 煙管を咥えて荷車を引く男がいる。路面電車にしがみつき、ああでもないこうでもないと笑う学生服たちがいる。バスやトラックの鈍いエンジン音がこれでもかと鳴り響き、それにも増して人の声が飛び交っている。

 彼らの殆どは、何の力も持たない只のヒト。平常の世界の住人だ。

 そして昨日の奏彌が守れなかったのは、他でもない。彼らと同じ存在だったのだ。

 それをまざまざと見せつけられた奏彌は、そこに当てつけのような何かを感じる。さりとて怒りをどこかにぶつける訳にもいかず、禊が見えない方の拳をきつく握り締めるだけだった。

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