弐―『汞の嘲笑』
①
「手伝うよ。あんたに包丁握らせると、僕の方が怖いんだ」
奏彌が暖簾を押して土間に足を踏み入れると、そこには台所に立つ鼎の後姿。浴衣の上に割烹着を纏い、長い赤毛を後頭部に纏めている。
「遅いじゃないか。寝坊かい?」
「……夢を見た。火の海の中で妙なガキに説教食らう、いつものやつだ」
「はあ、またそれか」奏彌の返答に、鼎は溜息を一つ。「両親の遺体が十字架に掛けられてるとかいう、あの。過去は忘れろ、そう言えるものでもないのが難儀だね」
「安心しな、忘れる筈もないよ」
嗤う。今の奏彌が彼足り得るのは、かつての地獄があったが故に。
鼎の隣に立つと、鍋から立ち昇る湯気が冷えた鼻先を温める。出汁の香りがしないのは、鼎が忘れているからなのか。或いは、その概念さえ知らないのか。
「おい、もっと慎重にやったほうが……」
鼎の手には包丁。目線を奏彌に向けつつも、彼は大根を刻む手を止めようとしない。小刻みで軽快なリズムは、しかし奏彌に警報のサイレンを聞いた際のような不安感を与える。
「大丈夫だって。もう十年やってるんだから、流石に慣れ……あ」
ぐちゃり。奇妙な音が一つして、嫌な予感が奏彌を襲う。
奏彌が恐る恐る視線を鼎の手元に向けると、しかして予想は的中する。彼の左手の人差し指――その先端の一寸ばかりが、袈裟斬りにされた巻藁が如く、ざっくりと切り落とされていた。
「あーあ、またやらかした……」
肩を落とす鼎。怪我を自力で治せる為だろう。流血に対する耐性が染み付いてしまっている。
そしてそれは、奏彌もまた同様だった。溢れ出る血に呆れた表情を浮かべ、懐から札を取り出して鼎の指先に掲げる。
「妙なところで不器用だよな、あんた。包丁使っていい人間じゃない。人を雇うなり、嫁さん迎えて作ってもらうなりしたらどうなんだ?」
鼎は答えない。指先が再生する中、後ろめたさでも隠すように、奏彌から目を逸らす。
「あんた、割と美形の部類に入ると思うんだが。まだ四十にもならない身なのに、見合い話の一つもないのか?」
「……たまに来るよ。ぜんぶ断ってるけど」
奏彌が何故かとと尋ねると、鼎は「…………内緒」と、酷く後ろめたそうな声を返した。
鼎は独身だが、しかし不妊とか、或いは女嫌いであるとか、そういった訳ではないらしい。
彼の中の何か高潔な意志だけが、彼を独身足らしめている。
「あんたが世継ぎを産まないから、僕が要らぬ疑いを掛けられてるってのに……」
「僕の息子は奏彌、君がいるだろう」
「拾った野良犬に情を掛けるのは結構だが、それを我が子と勘違いされては困る。僕はあんたの力が欲しくてここにいるんだ」
「そうか……いや、そうは言ってもなあ……」
鼎は未練がましい声を漏らす。奏彌はその真意を見抜けないが、さして鼎の内面に興味がある訳でもなかったので、別段どうということもなかった。
◇
市谷から歩いておよそ一時間。奏彌は昨日禊と別れた場所にやってきた。
建物を覆っていた蔓は全て除去されてしまっていた。死人が生き返ることはないが、それでも一定の日常が戻りつつある。
時刻は午後四時半。家路を急ぐ人の群れに巻き込まれてしまった奏彌だったが、本当に禊はいるのだろうか――といった懸念は杞憂に過ぎなかった。
禊の姿は大層目立つ。艶のある白髪は言うまでもなく、橙の瞳と鈍色の服装も、暗い色調の衣類に溢れた街に在っては十分な異彩を放っている。
「いた……おーい!」
そして、彼女の声量もそれに拍車をかける。刀剣を収める細長い布袋を背負った禊は、奏彌を見つけるなり、大声で手を振りながら彼の元へ駆け寄ってきた。
「今日からよろしく、奏彌!」
奏彌を見上げて右手を差し出す禊。何か考えるところがあったのだろう。昨日の暗い表情はどこかへ消え去ってしまっていた。
灯り始めた街灯、ショーウィンドウの蛍光灯。通り過ぎてゆく自動車のヘッドライト。そのどれよりも、彼女の顔は輝いて見える。
「月城さんから聞いてる。『局』が捜索に噛んでいるらしいな」
「知ってるんだ……それなら早いね。二人目の『ミズガネ』っぽい奴が確認できたらしいの」
ミズガネ。水銀の別名。名前というより、称号や個体の識別名のようだ。
「探すところまではやってもらって、あとは一人で……のつもりだったんだけど。わたしの我儘で人が死ぬくらいなら、君に手伝ってもらったほうがいいかなって」
平日の夕方。活気に満ちた都会の喧騒を、二人はどこか余所者のように歩く。
煙管を咥えて荷車を引く男がいる。路面電車にしがみつき、ああでもないこうでもないと笑う学生服たちがいる。バスやトラックの鈍いエンジン音がこれでもかと鳴り響き、それにも増して人の声が飛び交っている。
彼らの殆どは、何の力も持たない只のヒト。平常の世界の住人だ。
そして昨日の奏彌が守れなかったのは、他でもない。彼らと同じ存在だったのだ。
それをまざまざと見せつけられた奏彌は、そこに当てつけのような何かを感じる。さりとて怒りをどこかにぶつける訳にもいかず、禊が見えない方の拳をきつく握り締めるだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます