灼熱令嬢と永遠の果実

凉兼晶

序幕―『境界に立つ者』

 昭和八年二月下旬の東京市内は、およそ季節外れな雷雨に見舞われていた。

 降り注ぐ風雨は怒り狂う龍神の如く。弾丸さながらに窓を打ち付け、木々を激しく靡かせる。

 鳴り響く雷鳴は荒れ狂う雷神の如く。刹那の閃光の後、ヒトからあらゆる光を奪い去る。

 時刻は十六時過ぎ。これからが書き入れ時であろうはずの歓楽街も、今日はすっかり早めの店仕舞いを済ませてしまった。

 そんな中。人ひとりいないはずの泥濘の裏路地から、雨音に混じって奇妙な音がする。

 ぐちゅ、ぶち、肉を潰すような音。それを追って路地を覗き込めばそこには、およそこの世のものとは思えぬ異形の群れがいた。

 数はおよそ十余り、背丈はヒトより一回り小さい程度。のっぺりとした漆黒の肌、体中に不規則に浮かんだ瞼の存在しない眼球。不自然に大きな口からは薄汚れた牙を覗かせ、四肢の形状や数は統一されていない。

 黄ばんだ歯列の隙間にはヒトの毛髪。彼らは泥水を被ることも躊躇せず、足元に転がる一つの肉塊を一心不乱に貪っていた。

「どうだ、美味いか」

 ふと路地の入口から、若い男の声がした。

 食事の邪魔をする不埒な輩は一体何者だろう。無数の瞳が一斉にそちらへ向けられる。

 するとそこに立っていたのは、暗き荒天の中に在っても尚黒き、一人の少年であった。

「答えろよ。その汚ねえ口で殺した人間は美味いか、と訊いているんだ」

 御影奏彌ミカゲ ソウヤは異形に向かって問い掛ける。

 憎悪と蔑みがこれでもかと滲んだ声だ。彼の拳はきつく締め付けられ、掌に爪が食い込んで血が滲んでいる。

 御影奏彌。境界人。異形にとっての、黒衣の死神。

 超常と平常の境界に立ち、世界に蔓延る数多の怪異から、人間社会を守護する者。

 ヒトの身でヒトならざる力を振るう、『境界人』の一人。

「キキ……ケ……ア……?」

 異形たちは答えない。何を尋ねられているのかてんで判らぬといった様子で首を傾げる。

 その反応を前にして、奏彌は安堵にも似た溜息を吐く。

「そうだよな。一度でも理解を求めた僕が馬鹿だった」

 奏彌は黒い上着の懐から、一枚の札を取り出す。それは紙幣大の和紙であり、表面には墨で複雑な文様が描かれている。それを指の間に挟んで一言、

白渇虎爪ハッカツコソウ――『十紘迦斬ジッコウカザン』」

 すると札が仄青く光り、蒼白の雷を帯びた一振りの直剣に変化した。

 剣は異形に向かって飛んでゆき、状況を理解しきれない異形に襲い掛かる。

 それはまるで、剣そのものに意志があるかの如く。異形は次々に切り裂かれ、刀身から放たれる雷に焼かれて斃れてゆく。

 異形も無策という訳ではない。近場の逃げ道を確認して逃走を図る。

 奏彌は新たに札を取り出し、異形たちに冷淡な視線を放つ。

「遅い。黒玄甲盾コクゲンコウジュン――『六華天壇リッカテンダン』」

 札が白い光と共に消滅する。すると異形たちの行く手を遮るようにして、黒い六角形の障壁が出現した。

 突然現れた壁に頭から衝突してゆく異形の群れ。障壁は路地を袋小路に変えてしまった。

 一部の個体が、牙や爪を突き立てて壁を破ろうと試みる。しかしその表面には掠り傷一つ与えられず、それらは全て徒労に終わってしまう。

 そこに奏彌の剣が追撃を掛ける。雨音を遮って風切り音が立て続けに鳴り響き、撒き散らされる鮮血が足元を朱く染めてゆく。

 次々に屠られ、物言わぬ肉塊と化してゆく異形たち。しかし残された者の中には、これを一方的な虐殺で終わらせるつもりのない個体も存在した。

 窮すれば鼠すら牙を剥くのだ。異形の一匹が奏彌に向き直り、突然大きく顎を開く。

「キィィィィィィィィ!!」

 甲高い咆哮と共に、口腔から光一つない黒がどっと溢れ出す。それはヒトの両腕が如く形を成し、瞬時に奏彌を包み込んでみせた。

 そこからおよそ十秒弱、抵抗はない。異形は安堵し、強張った身体の力を抜く。彼の背後に控える多くの仲間もまた同様に、強張った全身を緩めて天敵の死を喜ぶが……

 ――すらりと一筋の光が走る。それとどちらが早かっただろうか? 黒い腕が内側から切り刻まれ、瞬き一つする暇もなく霧散してしまった。

「舐めるな。その程度、僕が予想していないとでも思ったか」

 その内から現れたのは、大一人がすっぽり収まる程度の『卵』。その表面は、先程の障壁と同様の黒を湛えている。

 卵の殻がどろりと溶解すると、内部から、ひどく苛立った顔の奏彌が現れた。彼は後ずさる異形に侮蔑の目を向け、軽く舌打ちをして言う。

「楽には死なせてやらん。抵抗してくれた礼だ」

 奏彌は最後の仕上げに掛かる。傍らに転がっていた剣がふわりと浮き上がり、幾多の残像を生みながら回転を始めた。

 符術――『鬼籠キロウ』。ヒトが編み出した超常のひとつ。

 世界の四方を司る神の力を札に降ろして使役する、奏彌を境界人足らしめる力。

 そのうちの一つ、白虎の名を冠した剣――『白渇虎爪』。それが回転鋸のように襲い掛かれば、飛び散る血液と微細な肉片、そして耳をつんざく断末魔の嵐。異形はたちまち無数の肉片に切り裂かれてゆき、最後の一匹が息絶えるまで、さほどの時間は掛からなかった。

「キ、キ……ギエエエッ……!」

 甲高い絶叫が一つ、異形の最後の一匹が水溜りに倒れ込む。両断された胴体から紫の体液がどくどくと零れ、側の泥水と混ざり合う。

「また、止められなかった」

 異形を処理し終えたはずの奏弥は、しかし一層表情を曇らせる。徐に死骸の山に近付くと、手頃な一匹の頭を踏み付けた。

「本気を出すまでもない。取るに足らない、雑魚の群れだった……」

 足を上げ、再び死骸を踏み付ける。血液が飛び散り、履き潰した革靴が紫に染まる。

 足元の泥水に映る奏彌の顔は、波紋で醜く歪んでいた。

「どうしてくれるんだよ。お前らが死んだところで、食われた連中は戻ってこないんだ!」

 覆水盆に返らず。飛び出た弾丸が銃口に戻らず、塀から落ちた卵が二度と元には戻らぬように、一度喪われた命もまた、二度と生き返ることはない。

 餌となった警官の死体はひどく損壊し、どのような顔をしていたのかすら伺い知れない。

 異形にとっては、単なる餌に過ぎなかったかもしれないが。

 そんな彼にも、世界に二つとない、彼自身の人生があったのだ。

「一時間でも早く、僕がここにいたなら……」

 鬼の形相で死骸を踏み付ける奏彌の脳裏に、いつかの記憶が蘇る。

 彼の胸の奥底に、消えない憎悪の炎を灯した日。

 己以外の全てを奪われた、決して忘れ得ぬ日の記憶だ。

「こんなことには……ならなかったのに!」

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