第7話

 幼馴染二人が、急遽古谷家へと向かう事になった。

 興信所の仕事の報告書を押し付けられる立場の篠原和泉しのはらいずみは、やれやれと思いつつ見送るつもりだったのだが、上司に早退を申し出て戻って来た市原凪いちはらなぎは、当然のごとく自分の腕をつかみ、促した。

「何呑気に座ってるのよ。早く行きましょ」

「あ? オレもか?」

「今年一番の、修羅場回避のために、その頭脳を存分に使ってくれ」

 高野晴彦たかのはるひこにも真顔で言われ、帰り支度を始めた。

 急かされてはいないが、軽い口調の中に緊迫が滲んでいる。

 文句を言い合う時間も惜しい事態だと、長い付き合いの経験で察したのだ。

 手早く報告書をまとめて上着を羽織ると、出口で待つ二人と共に古谷家へと向かった。

 古谷家は、代々仏教寺だ。

 本堂と住まいの和室も大きく、来るたびに圧倒されているのだが、今日はその隣のそれより小さな作りの家への訪問だ。

 昔は離れとして、今は寺の敷地外の土地として、次代の住職が住まう家で、どうやらそこに、招かざる客を迎え入れるつもりだと、情報が入ったらしい。

「誰が、そんなはた迷惑なことを?」

 中肉中背で体つきが父親に似てきた晴彦の説明を受け、形のいい眉を寄せた長身の和泉の問いに、小柄な少女めいた凪が軽く答えた。

「小父様よ、小父様。寺院の中の住居に招くわけにはいかないからと、古谷君の家の方におびき寄せるんですって」

 凪の父親が、急遽そこに向かってはいるが、間に合わないかも知れないからと、母親の方に繋ぎが入り、息子とその幼馴染を向かわせる手はずになったらしい。

「足止め、ってことか?」

「よく分からないのよ。私たちで、足止めなんかできると思う?」

 自分と晴彦にはできないが、凪には何とかできそうな気もする。

 幼馴染二人が唸る傍で、凪は続けた。

「古谷君の所に、金田君が行ったらしいから、何とかなるかもしれないけど……足止めの期待を、している風じゃなかったんだよね」

 母親の、少し心配するような顔を思い出す。

 あれは、自分たちの安否ではなく、別な物の安否を気遣っているように見えた。

「?」

 そう感想を漏らす幼馴染に、二人は顔を見合わせる。

 こうして三人で顔を突き合わせても、何も分からない。

 事情を分かっているであろう、古谷志門ふるやしもんから聞き出そう。

 そう思って訪ねた古谷家で出迎えてくれたのは、この家に住む古谷若夫婦と、最近夫人との間に子供ができたと報告してきた、金田健一かねだけんいちだった。

 二十代後半、ようやく和服が板についてきた志門は、人のいい顔に戸惑いを乗せて、三人の同窓生を迎えた。

「お三方揃って、どういった御用向きで?」

「どういったって、聞いてないのか? 若が、こっちの家の中庭に、招かざる客を招く予定だって?」

 後ろに控えていた志門の妻のしずかが、目を丸くした。

「え? どうしてそれを?」

 この中で一番大柄な健一も、器用に体を縮めつつも不思議そうに尋ねる。

「あれ? オレは、速瀬から聞いて直行したんですけど、先輩方は?」

「お母さん経由よ。高野さんから緊急の連絡で、知ったの」

「成程」

 頷く志門も、出迎えた他の二人も、何処か落ち着き払ったままだ。

 玄関先に立つ三人を中に招き入れつつ、志門が言う。

「招かれざる方は、もう招かれています」

「へっ。お前、そんなに吞気にしてても、いいのかっ?」

「来てしまったものは、仕方がないでしょう?」

 思わず声を張り上げた和泉をうるさそうに一瞥して、静が言う。

「大体、我々が頭数揃えたところで、足止めなんかできませんよ」

 それなのだ。

 何故、明らかに出来ないことのために、ここに向かわせたのか。

 客間に通された三人は、布団をしまったこたつ机の上に広げられている紙を見た。

「? 地図?」

「古谷家が所有する、土地の地図です」

 所有と言っても、古谷家自体が現在では脈々と増え続けており、本家だけの所有ではない。

 古谷家の当主の血筋が、所帯を持つときに分与された後によそに売りに出されたりして、本家の手から離れた土地も沢山あるが、それでも見る限りは広い。

 今は新築工事中の山の屋敷も含め、現在の所有地に印がついているのだが、それが何の解決になるのか、客の三人には分らなかった。

「いえね、速瀬も本当は、ここに来る予定でいたんですけど、雅さんに捕まっちゃったらしくて、それどころじゃないんですよ」

「そうすると、一番難しい問題は、後回しにすることになるんですけど、市原先輩が来たのなら、それも解決ですね」

 健一と静が、仲良く言い募るのだが、話が見えない。

「一体、何の話だ?」

「処理の話です」

 素直な問いには、正直な答えが短く返った。

 接客のため、茶飲み道具一式を乗せた盆を掲げた志門が、手早く三人の前に湯呑を置く。

「……処、理?」

「はい。うちの番虫達は、捕獲にしか使っておりませんので、普通ならば警察に突き出して終わりなのですが……」

 何でだろう、恐ろしく嫌な予感が、今になって湧き出てきたのだが。

 和泉が不穏な考えを振り払えずにいる中、志門は人の好い笑顔のまま続けた。

「ですが、若は恐らく、八つ当たりでお客様を怯えさせたうえで、最悪ですと手を下すのではと思われるのです」

「八つ当たり?」

 若という敬称で知られるセイは、この春から高校で学ぶために、古谷家に入った。

 その数か月前、急遽養子先を決める選考会が数回行われたのだが、それは書類選考で出来るだけふるい落とした後だったと聞いている。

 それでも、書類選考を通過した家も多くあり、最終的にくじ引きで決まったものの、その前は大変だったそうだ。

 早い段階で脱落した篠原家と松本家は、建物の建付けの問題や、過去の話などをネタに足を取られ、泣く泣く辞退したと聞いた。

 粗探しが出来る家々を切り離した家々は、今度は側近たちに様々な利点を訴えかけ、それが審査をする側も悩む要因となり、結局くじ引きでの選抜という形になったのだ。

 そんな厳しい審査を得て選ばれた古谷家は、いささか過ぎるほどの保護を試みていた。

 その一つが、志門の言葉にあった「番虫」だ。

 「番犬」の、虫版だ。

「偶に、金銭目的で寺に忍び込む方もおられまして、そんな方に若のお休みを邪魔されたくありませんので、ただしさんと相談して、より大きな形の式を作ってみました」

 大きいと言っても、人間一人を捕まえられるくらいの力になるくらいの大きさだ。

「ですが、余りに強力な子では、捕まえるだけではなく、捕食してしまいそうだったので、種類にも気を配って、今の形になったのです」

 凪が、青ざめて動かなくなった。

 今はその気配はないから、近くにはいないのだろうが、家の中もうろついていそうなそれに、今更ながら恐怖を覚えているらしい。

「その子たちも、セイの近くに待機させているんです。早く侵入者たちを捕らえられれば、その分八つ当たりもましになるんじゃないかと」

「一応、ステッキも一本、お渡しておきましたし。ですが、万全とは言い難いのです」

 代わる代わる言い募る古谷若夫妻に頷き、健一も難しい顔で言った。

「少しでも、宥めたうえで足止められる人をと思って、石川いしかわ家のほまれさんと連絡を取ることも考えたんですけど……」

「駄目だろう、それは。うさちゃん、最近ここに入り浸りだろ?」

 一週間前から、夜は泊まりに来ていると聞いている晴彦が難しい顔で返すと、健一もその表情のまま頷く。

「そうなんです。うさちゃん、潰されちまいます」

「そう簡単に、潰れる大きさでもないが、兎の中では、だからなあ」

 誉という石川家の式神が、どのくらいの大きさの獣かは知らないが、会わせない方がいいと、何となく思っている。

 だがそうすると矢張り、凪の父親か側近の方々がやってくるのを、待つしかない。

「そういう事です。ですが、間に合わない可能性が、高いのです。今は、招かれざる方々も用心して、忍び込もうとしている最中ですが、事件の状況からして、気の短い方が統率しているようで、若との鉢合わせするのも、時間の問題です」

 とある三人の弟子たちとして知られる三人は、これから起こる修羅場を半ば諦めているようだ。

 それは、話をこちらに持ってきた凪の母も、同じのようだ。

 では、一体何のために、自分たちはここに集められたのだろう?

 顔を見合わせる幼馴染たちだが、和泉の顔色だけが少し青ざめていた。

「……古谷、お前、一体何を、悩んでいたんだ?」

「おや? もう、分かったんじゃないかと、思うんですが?」

 意地悪な口調の敬語を発するのは、志門の妻の方だ。

 念願の相手と無事に結ばれたと言うのに、ただの友人相手にも嫉妬するこの女は、ここぞと言う時の嫌がらせには、目ざとい。

「……」

 だが、それに乗る気はない和泉は、静かに言った。

「分かったと思うが、こちらから口にしたくない。万が一違ったら……予想した自分が、恐ろしいから」

 正直、聞かずに帰りたい。

 そんな幼馴染の様子に何かを感じ、二人は息をのんで古谷家時期当主の答えを待つ。

「お察しの通りです。私が悩んでいるのは……」

 静かに告げたその言葉は、息をのんでの覚悟だけでは足りない破壊力だった。

「招かれざるお客様方の、遺体の処理方法です」

 初耳の二人の思考が、一瞬固まった。

「ち、ちょっとおおっ? あなた、お坊さんでしょっ?」

「何、当たり前みたく、悩んでんだよっっ。やらない方向で悩んでくれよっっ」

 矢張り、こういう事か。

 頭を抱え込む和泉の傍の二人の叫びが、何処からかの悲鳴と重なった。


 今回の動きを見て、どうも中の下以下の、素人に毛が生えた程度の奴だと判断したのだが、毛すら生えていなかったようだ。

「しかも、すごい悲鳴だな。忍んできておいて、これはない」

 無感情に感想を述べるセイが座る縁側の横で、白い塊が座ってその光景を見つめていた。

「ハエトリグモ、か。今回は、女郎じゃないんだな」

「糸を出させれば、捕らえられるけど、人を捕まえられる大きさにしたら、色々と危ないので、適度な大きさのこの蜘蛛に、芸を覚えさせて放牧してるんです」

 飛びついて獲物を捕まえることが多いハエトリグモを、縄を扱えるようにして放牧していると言う説明は、ここに寝泊まりし始めた時に聞いていたが、実物は初めて見た。

 白い塊は感心したように長い耳を揺らし、感想を漏らした。

「器用だな」

 その前で繰り広げられているのは、侵入者たちの捕獲だ。

 バスケットボール大の黒い塊が、悲鳴を上げて立ち尽くす男や、がむしゃらに抵抗する男たちに次々と飛びつき、縄で身動きを封じていく様は、感心するに値する光景だった。

「まあ、ハエトリグモでよかったみたいだ。この大きさでもあんな悲鳴を上げられたら、近所迷惑だ。あれ以上大きなジョロウグモや、アシダカグモだったら、どれだけ安眠妨害されるか……」

「悲鳴を上げる前に、捕食されてるだろう。もしくは、完全にショック死してる」

 ハエトリグモでこの大きさなら、ジョロウグモやアシダカグモなら、相当の大きさだ。

 頷いた白兎の横で、セイは溜息を吐いた。

「……太鼓判が、無駄になりました」

「そうでもないだろう。これから存分に、いたぶってやれ。全員、生死は問わない」

 兎を振り返った顔は、笑みを浮かべていた。

「本当に?」

「ああ。だから、その顔はこっちに向けるな。オレには毒だ」

「普段は笑えと言うくせに、我儘な」

「我儘ついでに、処理方法は自分で考えろ。経験値の薄い若者たちに、押し付けるなよ」

 先程から古谷家の客間で、緊迫した相談が繰り広げられているのを聞いていた兎は、ついでとばかりに付け加えたが、セイはあっさりと頷いた。

「そっちは、エンが受け持ちます。準備も整っているはず」

「ほう」

 それは朗報で、すぐに本物の客たちやここの主たちにも教えてやりたいが、何やら引っかかった。

「準備?」

「さっき首尾を報告したら、安藤和実役の人に、小麦粉と卵の買い出しを頼んでたから、万全です。後はこいつらを、新鮮なまま生死を問わずに捕まえれば、丸投げできる」

「……おい」

 思わず、低い声が漏れた。

 おかしいとは思っていた。

 セイが手にしているのは、今の所は志門に手渡されたステッキ一本だ。

 だが、縁側の若者の足元に、何処からかき集めてきたのか分からない凶器の山が転がっている。

 年季の入った薙刀や斧も見受けられ、これは明らかにおかしい。

 市原葵が、蓮と連れ立ってやってくるらしいと耳にしたものの、大袈裟だなと思っていただけだったが、確かにこれは遣り過ぎだ。

「セイ、いくらなんでも、全員にそれは……そこの、竹田何某は、存分にいたぶってもいいが、恐らくは他の奴らは、今夜雇われただけで、罪は不法侵入位だ」

「世の見せしめという事で」

「言いたいことは分かるが、本当に初犯の様だぞ? 不慣れ感が、半端ない」

 言い合っている間に、蜘蛛たちは侵入者たちを縛り上げ、壁を背にして座らせる作業を終えていた。

「だから、的として使って死ななかったら警察に丸投げ、死んだら全員、黒幕に差し入れということで」

 天国と地獄だ。

「うまく際際を狙えるようなら、気が済むんだけど……どうだろう」

 言いながら立ち上がったセイは、凶器の山の中から一つ、投器を拾い上げた。

「……おい」

「最初に、主犯から行こう」

 初っ端から、飛ばしている。

 しかも選んだのは、刃ぶりの大きな斧だ。

 外れたら、両隣の初犯の侵入者のどちらかに、確実に当たる。

 見据えられた男は悲鳴をかみ殺し睨み、両隣は泣き出しているが、若者はどこ吹く風だ。

「いたぶる気、ないだろう、お前」

「そりゃあ私は、いたぶるより、一撃で息の根を止める方が、すっきりするので」

「……そうか」

 仕方ないなと、兎は思う。

 生死は問わないと言ったのは自分だし、この一週間余り、ろくに休めない状態にした挙句、昨夜は一睡もできない事態にしてしまったのも、計画の杜撰さが原因だ。

 本当は、主犯と黒幕以外は警察に引き渡して機嫌を取り、代わりにその後の動きに目をつむってもらおうと思っていたのだが、仕方がない。

「……現行犯として、捕まえてもらう事にするか」

 溜息を吐いて呟いた時、セイが主犯の男を見つめながら、軽く斧を振り回した。

 止めることに体力を使う必要は、もうない。

 勢いをつけて標的に狙いを定めた時、それはやって来た。

「うわわあああああっ、行きすぎちまったあっっ」

 低く響く男の声が、大地を揺るがしながら駆け巡り、振動を立てて落ちてきた。

 中庭に突如響いた振動で、セイの動きが止まる。

 その目が見る前で、大きな男が身を起こした。

「飛び越えてどうすんだよ、慌て過ぎだ」

 塀の方から、呆れた男の声が言った。

 間に合ったか。

 内心安堵した兎の耳に、こちらは上手に地面に降り立った黒髪の若者が、庭の中を見回して言った。

「間一髪、だったみてえだな」

 呆気に取られて、新しい侵入者の二人を交互に見ていたセイが我に返り、舌打ちした。

「何だあんたら。何でここにいるんだっ?」

 珍しく声を荒げる高校生の前で、市原葵は立ち上がり、咳払いして気を取り直す。

「そいつら、ここに忍び込んだのか?」

 黙り込むセイの代わりに、兎が頷く。

「ああ」

「よし、その身柄、警察に引き渡してもらおう」

 威厳を込めて言い放たれたが、セイはきっぱりと言い切った。

「駄目だ」

「何でだ? 軽い罪で捕まえておいて、余罪を暴くと言う手も、あんだろう?」

「そんな暇、もうない」

 冷静に考えれば、その手の方が楽だと言うのに、セイは首を振って真顔で答えた。

「古谷さんに泣かれてしまったんだよ。それで、明日から通学を再開すると、約束してしまった」

 くだらない、言いたいのは侵入者たちだけだろう。

 だが、蓮も葵も兎も、ついつい納得してしまった。

 文句を喚いているようだが、猿轡のおかげで全く言葉になっていない主犯の声を聞きつつ、兎は妥協案を切り出した。

「初犯であろう奴らは、警察で絞ってやってくれ。こいつだけ引き渡してくれれば、オレとしても有り難いんだが」

「いや、しかしそれでは……」

「一度捕まえさせては、釈放されるまでが長いだろう? それでは、今夜中に片付かん」

「こいつが片づける必要も、ないでしょう? 元々、あんたの厄介事なんだから」

 そうなのだが、兎は色々と失敗していた。

 その尻拭いをさせている、という自覚もある。

「昨夜の件は、この男の悲鳴が周囲にも響いたから仕方がないが、先日の事件はそうじゃないだろう? カスミの奴がマスコミに面白おかしく情報を流したせいで、今回の件を引き出す羽目になった」

 本当は、先日の通り魔に見せた事件の時、暫く大人しい動き方をしようと考えていたのだが、情報が大きく漏れ、ランホアの活動を止められなくなった。

 どうせ活動を止められないならば、いっそのこと大きく動いて、襲撃者を捕まえようと言うランホアの言い分もあり、今の状況になったのだ。

「……まさか、たかが一週間で食いつかれるとも、思っていなかったんだが」

「それに、昨日の今日で、動くとも思ってなかった。中々の素人だな」

 しんみりとした兎の言葉に、無感情な声が続けた。

 その中々の素人は、こちらの注意が逸れた今、逃げる画策をしているようだが、目ざとい連中にはばればれだ。

「まさか、カスミと真田社長の日誌に食いつくとは」

「ん? 日誌?」

「……あいつ、カスミと繋ぎを取っていたのかっ?」

 勢いよく問う兎に、セイは首を傾げて答えた。

「そういうわけでもないみたいですよ。どうやら、メイリンさんの見舞いが出来ないと、イライラしていた時に訪ねてきて、置いて行ったたらしいです。気休めに、これでも読めと」

 どんな内容なのかは、知らない。

 捲ることもなく、速瀬伸に手渡してきたのだ。

「……現場で見つけたもんを、何で簡単に手放してんだよ」

「全然、証拠にはならないからだよ。カスミの手書きの、日記じみたものなんて」

 何気ない報告に、兎は交渉の理由を見出したようだ。

「気の収まりどころがないのは、エンも気の毒だ。ここまで時間をかけたんだから、最後の始末位は、あいつに任せてほしいんだが」

「し、しかし……っ」

 やんわりとした申し出に、早くも穴が開いた助け船の中で、葵は苦し紛れの説得を試みていたが、セイが不意に手を打った。

「そうだ。こいつを見逃す代わりに、エンに何か料理を作ってもらってはどうだろう? 何がいい?」

「鳥の丸焼き」

 助け船は穴が開くどころか、一気に沈没した。

 交渉成立だ。

「……」

 一体、何のためにバイトを抜けてきたのか。

 蓮は呆れ顔で三人のやり取りを聞いていたが、その時、こっそりと縄抜けを試みていた主犯が動いた。

 仲間たちが座り込む中、一人立ち上がった男が、塀をよじ登り始める。

「あ、待てっ」

 無感情な声がその背にぶつかるが、その後の切羽詰まった声の方が、男の逃亡の背を大きく押した。

「なっ、待つのお前だっ。いつの間に、オレの拳銃をっっ」

 葵の内ポケットから抜き、男の背に銃口を向けたセイは、慌てた刑事に縋りつかれ抗いながら言った。

「動きを止めるだけだからっ」

「お前、今狙ってたの、どう見ても頭だったじゃねえかっ。寺の目と鼻の先で、動きどころか息の根を止めてどうすんだよっ」

 相変わらずだなと、兎が見守る前で、蓮もひたすら呆れている。

 二人がのんびりと侵入者を見逃しているのは、少々この男が哀れに思えたからでもあるが、逃れられないと分かっているからという事に尽きる。

 兎は周囲の音でそれに気づいており、蓮はここに向かう道のりで連絡を受けて、知っていた。

 もう一組、侵入者を捕縛できる者が近づいていることを。

 渋々拳銃を持ち主に返し、塀を乗り越えて男の後を追おうとしたセイは、その歩道に立つ人影に気付いた。

 同時に、その前に倒れる人影にも。

 同じように塀を飛び越えてきた蓮と、今度は抜かりなく上手に塀を飛び越えた葵が、そこに立つ人影に気楽に声をかける。

「早かったな」

「ご苦労さん。こんな状態のミヤに、良くついて来た」

 どちらも、長身の少女の後ろに控える二人の男に向けた言葉だ。

「……いえ。お二人こそ、足止め有難うございます」

 返す高野信之の声は、疲れている。

 隣の少し若い長身の男は、溜息を吐いた。

「まだ、明るかったもので。バスを利用しました」

「バスでも十分で着くからね。話を聞いたらまあ、間に合わなくても問題なさそうだったし」

 短い速瀬伸の言葉に、雅が優しく付け加え、セイの後ろの二人に呆れ声を投げる。

「それより、君たちもいたのなら、何故ここまでこの男を逃がしてしまったんだ?」

「あんたが来てるのが、分かってたからな。少しは、鬱憤を晴らせたか?」

 言いながらセイの傍を抜け、蓮は倒れた男の前にかがみこんだ。

 脈を取って意外そうに呟く。

「ん? 生きてるな」

「ちょっと? 何処かの誰かと一緒にしないでくれよ。私は、調子が悪いからと言って、手加減が出来ないほど、鈍らせてはいないよ」

 誰の事かは知らないが、雅は頭に浮かんだ男を引き合いに出して言い、黙ったままのセイを見た。

 見られた方は、倒れた男の傍に近づき、腕をつかんで引き起こしていた。

 手を貸そうと近づく信之と短く会話をしながら、門の方へ向かう。

「……怪我は、ないんだよね?」

 優しいその声に立ち止り、セイは振り返った。

「一々訊かなくても、分かるんだろ?」

「ああ。君の事は、分かる。ランホアちゃんは? 無事なのか?」

 当然の心配を口にした雅に、何故か信之が溜息を洩らした。

 それを不審に思う前に、答えが返る。

「……ああ。もう歩き回って、メイリンさんの病室に見舞いに来てたから」

「という事は、あの現場の血は何? ただの血糊の匂いじゃなかっただろ?」

 重ねて問う女の傍で、伸は気づいた。

 兎の獣が、出て来ていない。

「……」

 説明する気はないようだ。

「……これ以上、オレ、必要か?」

 そろそろバイトに戻りたい蓮は、空気を読まずにあえて呟き、その言葉に焦った葵に力強く捕まえられる。

「もう少しいてくれよ。せめて、今後の事が決まるまで」

 ここでもし、保健室で起こらなかった修羅場が起こっては、目も当てられないと言う葵に、つい首を傾げる。

「……そういう雰囲気か?」

 疑問に思いながらも、振りほどけないほどではない拘束を振り払わず、二人の様子を見守ることにした。

 雅の方は、心配していた者の一人の無事を知り、落ち着いているから、大丈夫だとは思うのだが。

 侵入者を信之と共に支えているセイは、深く溜息を吐いて答えた。

「その説明、今日じゃないとダメか?」

 無感情な声に、少しだけ不機嫌が滲んだのに気づき、雅が少しだけ怯む。

「? セイ? まさか、昨夜寝てないのかっ?」

「あ、言っとくの、忘れてた」

「おい。肝心なこと、言い忘れてんじゃねえぞ」

 恐ろしい予想を裏付けたのは、うっかりしていたと声を上げる伸の言葉だ。

 これは、うっかりでは済まない。

 気づかなかったら、本当にただでは済まない修羅場になっていた。

 楽観視しかけていた蓮は、弟子の友人に思わず毒づいてしまった。

 遅ればせながら、何故ここに葵だけではなく、蓮までいたのかに気付き、雅は呆れたように溜息を吐いた。

「タッチの差で、古谷家に戻ったと聞いたから、何かやらかすつもりだとは思っていたけど、八つ当たりもする気だったんだね? まさか、中庭に残っている奴ら全員に、何かする気だった?」

「ああ。最終的には、そこの奴だけに絞ってもらったが」

 蓮が短く答えると、その説明だけで殆どの事情を察してくれたようだ。

「そうか。その八つ当たりが、罪の対価には重すぎたから、君はついつい、見逃したんだね?」

「察してくれて、助かる。こいつの事だ、息の根を止めた後は、エンに調理させたうえで、黒幕に差し入れる気だったんだ」

「……何で、そこまで分かるんだよ? あんた、葵さんより後に来たよな?」

 明らかにあの場にいなかったはずの蓮が、全てを察している事態に、セイはつい目を見開いて言い返してしまった。

 完全に、その予想を肯定している。

「マジか。それはちと、重すぎねえか?」

 鼻先で餌をちらつかされて、ついつい交渉を成立させてしまった葵が、今更ながらに青ざめたが、もう後の祭りだ。

 今ここで、その下準備をすることにならなかっただけ、まだましだと思い切るしかない。

「……こいつだけ、依頼者の元に運んで、他の奴らは警察にお任せする。そうしたら一眠りするから」

「学園には? 明日から通う?」

「ああ」

 素直にそこまで説明し、雅の念押しに頷いたセイに、女はようやく頷いた。

「分かった。明日、学園で話してくれ」

「それより、メイリンさんの見舞いがてら、本人たちから聞いた方が早い。私も、何であんなことになったのか、今一分かっていないんだ」

「え。それは……」

 あ、丸投げする気だ。

 そんな顔をする伸の前で、雅が狼狽えて目を泳がせた。

「ランホアちゃんに聞けってことか? ちょっと、難しいんじゃないかな?」

「……難しいかどうかは、行って見たら分る。病院には話を通しておくから、二人に面会してきたらいい」

「わ、分かった」

 何故か動揺しながら頷く雅に首を傾げ振り返ると、セイは先程の動きを再開していた。

 信之と共に古谷家の門をくぐっていくその背を見送り、雅は困惑したように立ち尽くしている。

「あの歌手のガキに、会いたくねえのか?」

 そんなはずはないと思いつつも問う蓮に、女は躊躇いながらも打ち明けた。

「……というより、初対面なのに、嫌われてたんだ」

「へ?」

 雅の苦し気な告白に、何故か葵が間抜けな声を出す。

「ランホアって、あの、へ?」

 ただでさえ言葉がつたないのに、困惑しすぎてそんな声しか出てこない。

 そんな様子の大男を見上げ、蓮は無言で答えを促す。

「あ、いや、雅さんを嫌うなんて、何かの間違いでしょ、きっと」

「だって、はっきり言われたよ。だから、私が心配しても、迷惑なんじゃないかと思うんだ」

「な、何か誤解でもあるんじゃねえですか? 絶対、そうですよ」

 どんどん後ろ向きになっていく雅を、葵が必死に慰める図を見守りながら、蓮は先程聞くともなく聞いていた会話を思い出していた。

 本日のバイトの監視者と、色黒の刑事の会話だ。

 幼い歌手とその母親の傍にいるはずの、二人の男の事も話題になっていた。

「……」

 空を仰ぎ、溜息を吐いた。

 これは本気で、これ以上関わりたくねえ。

 今度こそ本当に、バイトに戻ることに決めた瞬間だった。


 翌日の放課後、既に手を離れたはずのその件が、セイに再び戻って来た。

 夜のうちに、バレてはいけない事実は隠す手はずも整え、本日の昼過ぎから、その手はず通りの隠匿が、兎を筆頭にして行われているはずだったのに、その動きを上回る事態になっていたのだ。

 学園から戻り、宿題に手を付けようとしていたセイの元に、一つの連絡があった。

 昨夜、円満に別れたはずの兎からで、修羅場回避のための助っ人としての呼び出しだった。

 場所を聞いたセイは、眉を寄せた。

「? 無事、病室は移したんじゃなかったんですか?」

 話の流れを知る者の当然の問いに、兎は溜息を吐いて答えた。

「その移した方に、突撃されたんだよ。ロンの旦那と」

 そう言えば、連絡したロンの、淡白な返事は違和感があったなと、今更ながらに思い出し、セイは頷いた。

「分かりました。見舞いがてらに行ってみます。……水月さんの病室に」

 ここからが本当の、修羅場だった。

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