第十話 修羅場

 ナイロン性のショルダーバッグに、財布、スマホ、歯ブラシ、着替え、化粧水のような必要なものだけ入れた。茶色の男物のズボンと黒いジャケットを着た。


 外に出るのは久しぶりで、それだけで億劫な気分だったが、そんなことは言ってられない。チバがいつ襲ってくるかわからないのだ。


 周りを気にしながら玄関のドアをゆっくり開け外に出る。人はいない。子供に帰宅時間を伝える夕方の放送が鳴り終わり、辺りは既に暗くなりかけていた。


 大通りに向かって幅の狭い私道を前進しはじめると、「美沙ちゃん、久しぶり。最近見かけなかったけど元気にしてるの」と声をかけられる。振り向くと、高枝切りはさみを持った小太りの隣家のおばさんがにこやかに視線を向けている。おばさんは目を細め、声を弾ませ、さらに語りかけてくる。「相変わらず普通に暮らしてます」と声を絞り出すと軽く会釈をしたまま俯いて、急足でその場を離れた。


 あと少しで大通りに出られると思った時、分厚いメガネをし、異常に肌の乾燥したエラの張った男に道を塞がれる。どこに姿を隠していたのか。瞬時にチバだとわかった。過去にSwitterで顔を見たことある。


 板前が使ってそうな刃渡りの長い牛刀が、革手袋をしたチバの手に握りしめられている。憎悪に溢れた視線はワタシに向けられている。


 なにやら、ぶつぶつと言いながら詰め寄ってくると、チバは突然激昂し始めた。

「全部お前のせいだ。死ね」

 そうチバは叫ぶと刃先をこちらに向け、一気に加速してくる。


 ダメだ。体が凍りつき動けない。棒立ちになってしまう。避けることも逃げることもできない。


 茶色のセーターを着た背中が視界に飛び込んでくる。そして、それは衝撃を受け前のめりになる。貫通した刃先がセーターから飛び出している。


 それは父の背中だった。「美沙、早く安全なところへ」と父は叫びながら、チバと揉み合っている。チバは父を数発蹴ると、尻餅をついた父を再び刺す。


 父親は仰向けに倒れた。アスファルトの地面には大きな血溜まりが広がっている。

 

 騒ぎを駆けつけた隣家のおばさんが、長く伸ばした高枝切りはさみを使ってフェンシングのようにチバを攻撃している。おばさんは、「力也おいで」、「力也、ゴー」と繰り返し大きく叫んでいる。


 隣家の駐車場から、全身の筋肉がくっきり浮き出た大きな茶色のピットブルが走り出てくる。猛スピードで駆けつけて、チバのふくらはぎに噛み付く。チバは大きな叫び声をあげ牛刀を落とし逃れようとする。


 しかし、力也は大きな唸り声をあげ、大きく体をくねらせ、激しく首を左右に振りながら、刃を深く食い込ませ傷口を広げていく。チバは泣き叫びながら拳で力也を殴るが力也はびっくともしない。殴るほど力也は興奮するだけで、逆効果にしかならなかった。

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