少年×南国×雪
雪――。
白くてフワフワで、触るととても冷たいものが空から降ってきて、町中を銀世界に染める。
一度でいいから見てみたいなぁ。フワフワなのに本当に積もるのかな。
果てしなく続く碧い海を眺め、砂浜に寝転がりながら、僕はそんな雪とは無縁の青天の空を見つめた。陽の光のせいか、なんだかクラクラする。
まだ自由に僕が歩き回れていた頃に抱いた、この国では決して叶うことのない夢。
まさかそれが叶うとも、自分の人生が早くも幕を下りようとしていることも、あの時は思いもしなかったんだ。
僕が住んでいるのは、リゾート地として観光客にも人気の高い常夏の楽園、モルディブ共和国だ。年中温暖な気候で、人の手がかかっていない豊かな自然に溢れている。魅力はなんといっても水晶のように透き通った海と、真珠を思わせる真っ白な砂浜だろう。
そんな場所に住んでいて、毎日美しい景色を眺めることができて羨ましい。……なんて思われるかもしれないけれど、あいにく僕は一日のほとんどを純白のベッドの上で過ごしている。それも自宅のベッドではない。
首都マーレにあるモルディブ最大の公立病院、インディラ・ガンディ記念病院 。
ここが僕の今の
「おはよう、ナジーム。今朝の気分は?」
「おはようございます。何だか左腕が痺れてるよ、エリック先生」
朝食を終えて日課である診察のために、主治医のエリック先生が病室を訪ねてきた。揉み上げから顎にかけての長い髭に、ボリュームがある髪型をした濃い顔の先生は、シンガポールから派遣されてこの病院で働いている。
モルディブの医療はかなり発展してきたけれど、まだまだ高度な手術を要する時は隣国に頼らなければいけないのが現状だ。現地人の医師も少なく、エリック先生のように海外から契約で来ている医師が殆どなのである。
そして僕も、その高度な治療を要する患者の一人。発覚はほんの1ヶ月前、ずっと体調が優れないのを隠していたある日、限界を超えて倒れてしまっためにここへ運ばれたのだ。詳しい検査の結果、僕は『ハッケツビョウ』を患っていることが判明し、即日入院が決定した。
本来なら隣国に輸送されて治療を受けなきゃいけないみたいだけど、僕はモルディブでの治療を続けている。
「左腕? どれ、ちょっと診てみるな」
エリック先生は左腕を気にしつつ、まずいつものように体温や血圧などを測定し、聴診器で心臓の音をチェックした。そして看護師さんに検査のための血液を採取してもらったら診察はひとまず完了だ。出血の痕も今日は特になかった。
僕としては抗がん剤の副作用もあまり強く出ていなく、今日は気分が良い方だった。……腕は痺れているけれど。
「何だろうな。とりあえず血液検査の結果を見てみるか」
「はーい。ねぇ先生、いつものところに行ってもいい?」
「相変わらず好きだな、ナジーム。いいけど、ほどほどにな」
ニット帽に覆われた頭をワシワシと撫でられた僕は、手際よく点滴の管をまとめてベッドから起き上がった。そして慌てずに病室から出ようとしたけど、そこで僕は少しよろけてしまった。すかさず様子を見ていた先生が僕を呼び止める。
「どうした」
「ううん、何だか左足も重い気がして。でも歩けるから行ってきます」
僕の言葉に先生の表情が一瞬曇ったように見えたけれど、気づかないフリをして病室を後にした。だって僕の頭の中は今、
エレベータで1階まで降りて、陽の光が燦々と差す廊下を歩く。この病院は至る所に吹き抜けがあり、白を基調とした建物内は明るく開放的だ。
吹き抜けの下のテラスには植物もあり、屋根近くまで伸びる木の葉が南風に揺れている姿が心地よくて、それを見るのが好きだった。潮の香りが漂うと浜辺にいるような気分にもなれる。
でも隠れた目的はこっち。
心の保養もいいけど、やっぱり美味しい物には勝てない。
「おばちゃん、おはよ! 今日もアレある?」
「ナジーム、おはよう。もちろん、あなたのための特別よ」
すっかり顔なじみのおばちゃんは、テラスの傍にあるカフェの人だ。声をかけて数秒もしないうちに、カウンターに丸いお皿が差し出された。
その上に、プラスチックのカップからプルンと落とされる青いゼリー。ツヤツヤの表面は向こう側が見えるほど透き通っていて、震える様子が波打つ海を思わせる。これがまずキレイでたまらない。
「はい、どうぞ。いつものとおり、なるべく早くお食べよ」
「ありがとう! 分かってるよ、おばちゃん」
左手足にはまだ痺れを感じる。だから折角のゼリーを落とさないよう慎重に運び、ベンチに腰掛けた僕は早速スプーンで一口頬張った。口の中で弾けるような清々しいソーダ味が広がる。のどごしも最高だし、食欲がなくてもこれだけは食べられるのだ。
続けてもう一口……と掬った時だった。
頭の上から聞き覚えのない声が降ってきた。
「それ、綺麗な青色の食べ物だね。どんな味がするの?」
大口を開けたまま視線を声のする方へ向けると、地元では珍しい色白で金髪の男の子が、逆さになって僕の目の前に浮かんでいた。
その子と視線が合ったまま暫し固まる。
「う……わぁああああ! だれっ君!?」
「ナジーム、大声を出してどうしたの!?」
思わず飛び跳ねた僕の叫び声を聞きつけて、カウンターからおばちゃんが心配そうに身を乗り出していた。僕は必死に同い年くらいの男の子を指さして訴えた。
「おおおおばちゃん! 男の子が、逆さでッ」
「男の子? 他に誰もいないけど」
僕の言葉におばちゃんは不思議そうに首を傾げていた。
えぇっ、おばちゃんには見えないの!?
全身青い服なんて目立つ格好しているのに。っていうか、何で浮いてるの!?
「はは、僕の姿は君にしか見えないよ」
「そうなの……? もしかして君、天使?」
僕の言葉に男の子は少し驚くと、すぐにクスクスと笑って逆さ状態から反転した。ゼリーみたいなキラキラの青い目に一瞬で心を奪われた僕は、脅かされたことも忘れて彼をまじまじと観察する。
恐ろしいほど綺麗な顔立ちだ。浮いているけど天使のような羽根は付いていなかった。代わりにコバルトブルーのマントを羽織っていて、雲のような白い模様があり、よく見ると動いている。まるで空を切り取ったみたいだ。
「天使なんて本当にいると思ってるの? 面白い子だね。そういえば以前、僕をギリシャ神話のナントカって美男子と勘違いした人もいたなぁ。ま、悪い気はしなかったけど」
男の子は満足げな顔をし、片方の足首を反対側の膝の上に乗せて足を組んだ。そしてこれまた、空を閉じ込めたような色の球体が付いている杖で僕のほう……いや、僕が食べていた〝ゼリー〟を差した。
「それ僕も食べたいな。君、天気について何か叶えたいことはない?」
「てっ天気? どうして?」
「僕が人間の食べ物を手に入れるには、その人の天気の願いを叶えないといけないんだよ。何かあるだろう? 明日は晴れにしてほしいとか、この日は絶対に雨がいい、とか」
そんなこと急に言われても。一日の大半を病室で過ごす僕は天気なんて気にしない。晴れていればテラスで日光浴を楽しむことはできるけど、それもほんの一時だ。
でも確か僕は、何か叶えたい夢があったはず。それが天気に関わることだったような気がするんだけど……どうしてだろう、すぐに思い出せないや。
「えーっと……」
返答に困っていると、遠くで誰かが僕を呼んでいる声が聞こえた。
エリック先生だ。
「おーい、ナジーム! 戻ってくれ、検査したいことがあるんだ」
モサモサの髪を揺らして少し焦り気味な先生の様子に首を傾げながらも、僕は急いでゼリーを平らげた。不思議な男の子はその様子を恨めしそうに見ている。
「行かなきゃ。良かったら明日またここに来てよ、それまでに思い出してみるから」
「本当? 分かった、じゃあまた明日来るさ」
男の子は嬉しそうに笑うと、ふわりと空に舞い上がってあっという間に姿が見えなくなってしまった。名前も聞いてなかったけど、あの子は一体何者なんだろう。
その後、僕は大きな機械がある部屋に案内されて、頭の写真を撮ると言われた。音がウルサイからとヘッドフォンを付けて機械の中に入り、じっとしていたらウトウトして眠ってしまう。
気がつくといつものベッドの上だった。病室には誰もおらず、僕一人だけ。すると扉の向こうから先生にすがる女性の声が聞こえてきた。
「それで、あの子はあと、どれくらいなんでしょうか」
たったその一言に、胸が大きく脈を打つ。
……母さんの声だ。
こっそり病室の扉を開けると、エリック先生と母さんに加えて、漁師の仕事を休んだらしい父さんも一緒に2つ先の部屋に入っていくのが見えた。慌てて三人を追った僕は、その部屋の前で息を潜めて扉の隙間に耳を立てた。
しばしの沈黙の後、先生の浮かない声が聞こえた。
「ALL(急性リンパ性白血病)の影響で、PML(進行性多巣性白質脳症)まで発症してしまった今、どちらの治療を優先するかが重要です。しかしナジーム君の場合、発見の遅れで既に白血病細胞が骨髄にまで広がっているので、その判断はかなり困難です。全力を尽くしますが、このままではナジーム君の余命は――」
先生がその先を告げた瞬間、母さんは咽せるように泣き声を上げた。
僕はそこで逃げるように病室へ帰った。
体調不良を黙っていたのは、ウチは裕福じゃないことは分かっていたし、何より両親に心配をかけたくなかったからだ。でもそれが仇となるなんて……。
ドナーを探しているけど、見つかったとしても国内での治療は難しく、隣国の病院に移るにはお金が必要だ。当然、ウチにそんな大金はない。それでも父さんは必死に働き、母さんも毎日病院に来てくれていた。
――結局、僕のせいで家族に迷惑をかけている。
数分後、病室に訪れた三人を何食わぬ顔をして迎えた。父さんと母さんは僕に悟られないように、精一杯の笑顔を見せている。
エリック先生は治療方法を、抗がん剤からしばらく変えると説明した。ハッケツビョウのせいで下がった免疫力を、一旦回復させなければいけないそうだ。
「また辛いかもしれないが、頑張れるか? ナジーム」
「大丈夫だよ先生、僕は病気なんかに負けないから。もう一度、大好きなモルディブの砂浜を踏みしめて、海に潜るって決めてるんだ。そのために頑張るよ」
そう言って笑うと、先生たちも悲しそうに、笑った。
翌日。
気分がかなり悪い。新しく打った薬の副作用で、またしても吐き気との戦いが始まったのだ。朝から母さんが付きっきりで背中をさすってくれていた。
食事もほとんど手をつけられず、僕は窓の外で風に揺れている木を呆然と眺めてた。母さんは遅めの昼食を取りにカフェへ行っていて、今は一人だ。
そう、一人のはずだった。
「君、全然来ないから探したじゃないか」
突然、僕の目の前で目映い金髪が揺れた。
ゼリー色の瞳が不機嫌に僕を睨みつけている。
「っうわぁあ! お、脅かさないでくれよッ」
「約束を忘れた君が悪い。このメネル様を待たせるなんて」
僕はそこで彼の名前が初めて〝メネル〟だと知った。彼の姿を見るまで約束どころか、昨日の出来事をすっかり忘れていたのだ。
メネルは一体どこから入ってきたのだろう。それに病室だって教えていないはず。
「分かるよ、僕は空から見渡せば何だってお見通しさ。壁もすり抜けちゃうしね」
「僕まだ何も言ってないけど、考えてることが分かるの?」
そう言うとメネルはまるで「そうだ」と言わんばかりに、口元に緩やかな笑みを浮かべた。そして彼は自分のことを〝空の番人〟だと明かしてくれた。
メネルは世界中の空を飛び回っており、天気について考えてる人の声を聞きながら空の管理をしているそうだ。今回はたまたま好みの色の食べ物を口にしている僕が目につき、思わず地上に降りてきたという。
空の番人だし、服装からしてもよっぽどの青好きということはよく分かった。一番のお気に入りは、左耳に付けているイヤリングらしい。
「それで。君は天気の願い、思い出したの?」
「それがまだ……。おかしいな、メネルのことも忘れてたし」
前はこんなことなかったのに、頭の中から映像がどんどん消えてるみたいだ。昨日から感じている左半分の痺れも治まっていない。何かが僕の体を壊している。
全身が急に震え上がった。それは寒いわけでもなく、気分が悪いせいでもなく、先生が両親に告げた言葉が蘇ったからだ。
〝全力を尽くしますが、このままではナジーム君の余命は――〟
もうすぐ僕は死ぬ。自業自得なのは分かっている。
頑張るって言ったのは嘘じゃない。……でもやっぱり、死ぬのは、怖いよ。
「死ぬって何。どうして怯えてるの?」
いつの間にかベッドに腰を下ろしていたメネルは、僕の心を読んでキョトンとした目で見つめていた。あ、普通に座ることもできるんだ。
「〝死〟が分からないの? 死ぬと天国に行くんだよ、空の上にあるって聞くけど」
「へぇ、初めて聞いた。でも空の上にあるなら、何を怖がるのさ」
「怖いよ! 何があるかも分からないのに、一人で行かなきゃいけないんだから」
僕の大声にメネルは困惑した表情を浮かべた。
そして彼は足を上げて勢いをつけ、ベッドから軽快に立ち上がる。
「よく分かんないけど一人じゃないよ、だって空には僕がいるもの。そうだ、一緒に色々連れていってあげる」
一人じゃないなら、怖くないだろう?
メネルはそう言って得意げに笑った。確かに同い年ぐらいの彼がいれば、寂しくないかも。それにメネルといればまたモルディブの海を見ることも、父さんと母さんに会うこともできるかもしれない。
そう思うと、何だか少しだけ不安が和らいだような気がした。天国に行っても一人じゃないんだ。
「そうだよ。でもその前に君の願いを思い出してよ。僕、アレが絶対に食べたい」
「分かってるけど、ちっとも――ッ!」
その瞬間、お腹の辺りに圧迫感と激しい痛みが走った。息をするのも苦しくて、脂汗が一瞬にして体中に吹き出す。口の中に鉄の味を感じた。
すると扉が開いて、昼食から戻ってきた母さんが血相を変えて僕に駆け寄った。
「ナジーム! 先生、先生……!」
「君、どうしたの。大丈夫?」
母さんの声に混じって、心配するメネルの声が聞こえる。
バタバタと沢山の足音が響き渡り、全ての音が遠ざかったと思うと、僕の意識もそこで途切れた。
数ヶ月が経ち12月。この期間で僕は動くことも、話すこともできなくなった。
今日は何の薬を打っているのかもう分からない。ドナーは未だ見つからず、先生があらゆる手を尽くして命を繋いでくれている。
テレビでリゾート地のクリスマスイベントの様子が取り上げられていた。イスラム教の僕たちには馴染みがないけど、微睡む意識の中で母さんと見ている。
「他所の国では雪が降ると『ホワイトクリスマス』っていうそうだよ。そういえばナジームはよく〝雪が見たい〟と言っていたね。この国じゃ難しいけど、見せてやりたいね……」
母さんがそう言った瞬間、頭上に青色を纏った男の子が姿を現した。見覚えがあるような、ないような。とても綺麗な顔をしていて、天使みたいな子だった。
「やっと聞けた。雪、それが君の願いだね。いいよ、今回は僕の
男の子はイヤリングを揺らして笑うと、また部屋から消えてしまった。
25日、クリスマスの夜。それは何の前触れもなく起こった。
急激に外の気温が下がり、モルディブでは有り得ない寒さを記録した。厚手の上着なんて持ってるはずもなく、誰もが凍えながら建物の中に避難してきている。暖房なんてものも当然ないから、大判のタオルなどを持ち出して寒さを凌いでいた。
すると空から、白い何かがハラハラと舞った。
僕は細い息を吐きながら、病室の窓からぼんやりとそれを見ていた。
「有り得ねぇ……、モルディブに雪が降ってる!」
知らない誰かがそう叫んでいた。それを聞いた母さんが徐に窓を開き、寒いのにも関わらず手を差し出して雪を採取すると、僕の手の平へ乗せてくれたのだ。
「ナジーム、雪だよ! 分かる? ユ・キ!」
それは白くてフワフワで、とても冷たくて。
テレビでは未曾有の現象に各局が取り上げ、真っ白に染まるモルディブの町並みを映し出していた。
……あぁ、これが銀世界。思い出した、僕がずっと見たいと思っていた夢を。
そうだメネル、君が叶えてくれたんだね。
大丈夫、怖くないよ。君のことも思い出したから。僕、一人じゃないもんね。
――12月26日。
僕、ナジーム・イブラヒムは両親とエリック先生に見守られ、友達の待つ空へ旅立った。
***
ナジームの願いを叶え、僕は青いソーダ味のゼリーを手にした。
嫌だと言われたくなくて「二度と食べられない」という説明もせずに、僕は彼からそれを奪った。
罪滅ぼしじゃないけど、僕は彼を空で見かけたら一緒に連れていくと約束した。空は広いからまだ会ったことはないけれど、いずれ何処かで会えるだろうさ。
「それにしても、このゼリーやっぱり綺麗だなぁ。ずっと見ていたいよ。爽やかで美味しいし、僕この食べ物が一番好きかも」
プルンと波を打つ青の中へ最後に見た彼の笑顔を思い出し、ほんの少しだけチクリとしたものを感じながら、僕は今日も空を飛び回っている。
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