第26話 人が喜ぶものなら、たくさん売れるでしょう?



 数日後、エステルは公爵家で初めてのお茶会を開いた。

 実際に準備をしてくれたのはメイドや執事だったが、女主人としてやるべきことは山積みだった。

 提供するお茶の種類やお茶菓子を決めたりテーブルクロスや花の色を決めたり、招待客を決めたり招待状を書いたり……。


(高位貴族の夫人って、大変だわ……)


 とても簡単にこなせる仕事ではない。エステルは、まさにそれを実感していた。


 といっても、特に問題は起こらなかった。


 なんと、あのマイヤー女史が手伝ってくれたのだ。


 もともとエステルの美的センスに問題は一つもない。だが、貴族のマナーという点では経験不足が否めない。そこを、彼女が的確に助言してくれたのだ。


 しかも、いっさい嫌味をはさまずに。


(いったい、何を考えているのかしら?)


 今日のマイヤー女史は、お茶会の会場の隅で家庭教師としての分を弁えて、慎ましやかに貴婦人たちの様子を見ているだけだ。

 時にメイドたちに指示を出している。メイドたちも素直に従っている様子を見れば、的確な指摘をしているだけなのだと分かる。


 エステルの家族を侮辱したときとは、あまりにも様子が違いすぎる。


(心を入れ替えたのかしら?)


 その可能性は、ないわけではないだろう。

 大勢のメイドや執事たちの前で、エステルにガツンと叱りつけられたのだから。


 だが。


(彼女、そんな人かしら?)


 こんなことで心を入れ替えるくらいなら、社交界であれほど恐れられることもないはずだ。

 そもそも、あの年齢の人間が簡単に考えを変えられるとは思えない。


(嵐の前の静けさじゃないといいけど……)


 そんなことを考えながら、エステルは会場を見回した。彼女は席には座らず、女主人として会場の誰もが楽しめるように目を配っている。


 貴婦人たちが楽しくおしゃべりに興じる様子を見て、笑みがこぼれた。

 彼女たちの口元では、鮮やかな色が花を添えている。

 テディの開発した、リップティントだ。


「またしても、大ヒットだね」


 彼女の隣で、イアンが楽しそうにほほ笑んだ。


 特に招待したわけではなかったが、彼はどこで聞きつけたのかこのお茶会の開催を知り、そ知らぬ顔で入り込んできたのだ。

 特に追い返す理由もないので会場の中に入れると、彼はエステルの隣にベッタリとくっついて付いて回った。

 今も、せっかくのお茶会だというのに彼はエステルの隣に立って、同じように会場を見回している。


「そりゃあ嬉しいよねえ、口紅が落ちる心配をせずに食べたり飲んだりができるんだもん」


 イアンの言う通りだ。

 これまでお茶会や晩餐の席では、女性たちは常に唇を気にしなければならなかった。中には好物を目の前にして我慢する女性もいた。


 そんな彼女たちにとって、リップティントの登場は奇跡だ。


 商品の流通が始まったのは一週間ほど前のことだが、エステルがとある夜会で紹介したことを皮切りに、リリー・ホワイト商会に注文が殺到している。


 今日のお茶会の参加者には招待状と一緒に試供品を配っているので、さらに評判が広まるはずだ。


「君の商売ってさ」

「ん?」

「人のため、なんだよね」

「そう? 私が儲けたいだけよ?」

「そうじゃなくて。いつも『誰かが喜ぶ商品』を作るだろう?」

「……?」


 エステルは首を傾げた。

 どうして、そんなのことを、彼は言うのだろうか。


「人が喜ぶものなら、たくさん売れるでしょう?」


 心底不思議そうな表情を浮かべるエステルを見て、イアンがうれしそうにほほ笑んだ。


「それを当たり前のことだって理解できてる商売人が、この国に何人いるかな?」


 彼の言いたいことがよく分からなくて、エステルはまた首を傾げた。


「……君のそういう無自覚なところも、とっても可愛いと思うよ。うん」


 また、だ。

 イアンが甘い表情を浮かべて、うっとりとエステルを見つめた。


 彼が初めてエステルを口説いた日から、こんなことが続いている。少しでも隙を見せると、エステルを口説き始めてしまうのだ。


「もう、やめてってば」

「えーなんでー」

「なんでじゃない」


 彼はいったいどういうつもりなのか。

 エステルには全く見当がつかなかった。


 それを愚痴ると、テディには『商売のこととなると頭は切れるが、そちらの方面は鈍感極まりないわけか。理解した』と妙に納得された。

 メイドには『早く気付いてくださいね。旦那様が、あまりにもお気の毒です』とよく分からないことを言われ、執事には『我々からは何も言えません……』と神妙な表情で返された。


 まったく理解できない。


 だが、こんなことでイアンへの商売仲間としての信頼が消えるものでもない。

 この状況でも彼は商会長として一切手を抜くことなく、確かな手腕を振ってくれている。

 今もエステルの隣に並んで、新しい商品の評判を確かめてくれているのだ。


 ならば、彼を遠ざけるような理由はエステルには、ない。


「そんなことより、仕事の相談をさせてよ」

「もちろん、いいよ。どんな相談?」

「今度、アダムズ侯爵家で舞踏会が開かれるでしょ?」

「ああ、そうだね」

「招待状をいただいたの。どう思う?」

「行った方がいいね。あそこの夫人はかなりのオシャレ好きだから」

「集まるのもオシャレ好きな貴婦人ばかり?」

「男性もね。人脈を広げるためにも、出席した方がいい」


 なるほど、とエステルは頷いた。だが、問題が一つある。

 一人では出席できない、ということだ。

 たとえ未婚の女性であっても、舞踏会では誰かのエスコートを受けなければならない。それがマナーだ。


「エスコートを頼める?」

「またクライドに断られたの?」

「誘ってないわよ。どうせ断られるもの」


 一度はエスコートを引き受けてくれたが、そもそも彼は社交嫌いらしい。最近になって知り合った貴婦人から教えてもらった。


 無理に頼めば引き受けてくれるかもしれないが、それもなんだか気が進まなかった。


(無理に頼んで、嫌われたくない)


 なんとなく、そんな気持ちがわいてくるのだ。

 どうしてそんなことを思うのか、自分でも分からないが。


「もちろん、僕は構わないよ。むしろ嬉しい」


 また、イアンが甘くほほ笑んだ。

 それに少したじろいだりもしたが、こんなことを頼める友人は彼だけだ。


「よろしくね」


 この時、お茶会の参加者の多くが二人の様子を見ていたことに、エステルは気づいていなかった。




 * * *




 それからしばらくして。

 社交界に一つの噂が流れた。


 曰く、『オリオーダン侯爵家のイアンが、グレシャム公爵夫人の横恋慕を企んでいる』という。


 遊び人として名を馳せていた男が一人の女性に入れ込んだとなれば大ニュースで。しかも、その相手が大親友の妻で、さら高位貴族同士の醜聞ともなれば、耳目を集めるのは必然だった。


 これまでは、エステルとイアンは商会を立ち上げた商売仲間、と周囲からは認識されていたが。そんな認識はあっという間にかき消されてしまった。


 エステルの方もイアンのことを憎からず思っているらしいと囁かれるようになり……。


 この噂は、瞬く間に社交界を駆け巡ったのだった。




 * * *




「親族会議!?」


 例の噂が広がり始めてから数日後。

 執事長がエステルに耳打ちした一言に、彼女はびっくり仰天して飛び上がった。


 近く、公爵家の親族会議が開かれるという。


「……それって、気軽に開かれるようなものじゃないわよね?」


 娼館で暮らしていた頃、お姐さんの客と雑談していた時に耳にしたことがある。

 親族会議とは、当主が亡くなって相続が行われる時や、家の中で大きな問題が起こったりした時に開かれる、と。


 ゴクリと息を呑んだエステルに、執事も神妙な顔で頷いた。


「はい」

「議題は……」

「奥様の件です」

「やっぱり」


 実は例の噂について、エステルはこれっぽっちも気にしていなかった。

 なぜなら根も葉もないただの噂話だと、当事者である彼女自身が知っているからだ。


(放っておけば、そのうち立ち消えると思っていたのに……)


 人の噂も七十五日。

 そのうち誰もが興味をなくすだろうと思っていたのだ。二人の関係がこれ以上進展することはあり得ないので、新しい追加情報が出回ることもないのだから。


 そこへ、この件を話し合うために親族会議が開かれるという。


 それだけでもエステルにとってはまずい状況だが。

 それよりも、まず先に確認しなければならないことがある。


「……もしかしてだけど」

「はい」

「その準備って……」


 公爵家の親族会議ともなれば、大騒動だ。

 国内の各地から、公爵家の親族がこの屋敷に大集合する。

 数人ではきかない。

 数十人、下手をすれば百人規模の会議になる。

 遠方から来る親族もいるので、彼らが宿泊する部屋を準備しなければならないし、滞在中の食事や観光の手配、追加の使用人の雇用、など、など……。

 お茶会の準備など比にならないほど、やらなければならないことが山積みだ。 


 再び、エステルがゴクリと喉を鳴らすと、執事長の方も再び神妙な表情を浮かべた。


「女主人である奥様のお仕事でございます」


(やっぱり!)


 エステルは心の中で絶叫したのだった。

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