第23話 彼女のことが好きになっちゃったんだ



 バラの迷宮の中、クライドはエステルと二人きりだと思っていた。


 というのも。

 騎士にも執事にもメイドにも、『二人きりで話したい』と伝えてあったからだ。

 彼らは一様に生暖かい目でクライドを見つめて、『頑張ってください!』と送り出してくれた。


 もしかして、彼らは自分の本当の気持ちを知っているのだろうか。


 そんな不安に駆られもしたが、クライドはすぐに思い直した。


(まさか、そんなはずはない)


 彼らの前では、妻に冷たい夫、妻に興味のない夫、いつか離婚するつもりでいる夫を、きちんと演じられているはずだ。


(心配している。君は優しい人だから、あの人の悪意にさらされて、心に深い傷を負うかもしれない。そんなことは絶対に嫌だ)


 そんな本心は、絶対に知られてはいけない。


 今日、二人きりで話したいと考えているのも、マイヤー女史に話が漏れないようにするためだ。

 マイヤー女史の教育は度が過ぎているから、公爵家の体裁のために公爵自ら彼女をクビにする。

 そういう筋書きにするための、いわば戦略会議なのだ。


 きっと、彼女にも、そう伝わるはずだ。

 そう考えると、胸の奥がチクリと痛んだ。




 本心を隠してマイヤー女史の解雇について提案するクライドと、それを受けてわずかに頬を染めるエステル。


 そんな彼らの様子を、バラの生垣の向こうから一人の人物が見ていたことに、もちろん二人は気づいていなかった。




 * * *




(まさか、私のことを、……心配してくれてるの?)


 エステルは頬を染め、そんなことを考えた。

 だが、それは一瞬のことだった。


(いや……)


 エステルはすぐさま、これまでの彼の態度を思い返した。


 食事の席に突撃すれば嫌そうな顔をされ、寝室を訪ねれば追い出されそうになり、思い切って侵入すればベッドの上で投げ飛ばされた。


 妻に対してあまりにも冷たすぎる態度の数々を思い出すと、彼女の感情がスンと冷えた。


(この人に限ってそれは……ない!)


 心の中で断言する。


 おそらく、彼が心配しているのは公爵家の体面だ。


 はじめ、クライドはマイヤー女史をエステルに会わせもせずに追い出すつもりだったのだろう。ところが、エステル自身が彼女の教育を受け入れてしまった。

 この段になって、エステルの方から『やっぱり嫌だ!』と言い出すのは、あまりよろしくない。

 どころか、『非常識!』と罵られても反論できない。


 それこそ、公爵家の体面に関わってしまう。


 もしも断るなら、何かの理由を付けて『当主から断った』という体をとる必要がある。


 だからクライドは、エステルが爆発してしまう前に、この提案をしに来たのだ。


(うん。そうに違いないわ)


 エステルは、そう結論付けた。

 だが、その提案に乗る気もなかった。


「いや、です」


 はっきりと言い放つと、クライドがわずかに表情をゆがめた。


「マイヤー女史の教育に意味はない。早々に切り上げるべきだ」

「それには同意します」

「では……」

「ですが、これは私の問題です」


 じりっと一歩、エステルはクライドの方に迫った。そして、クライドが一歩引くよりも早く、彼を見上げて睨みつける。


「私の手で、彼女を追い出します」


 クライドが何か言い返すよりも早く、エステルはクルリと踵を返した。


 エステルには、この件でクライドの助けを借りるつもりが微塵もない。

 なぜなら。


「喧嘩を売られたのは、私ですよ」


 そう。

 これは既に、公爵家の問題などではない。

 エステルとマイヤー女史の問題なのだ。


「私が引導を渡します。それが筋でしょう」


 エステルは貴族や社交界の流儀は知らない。

 だが、女同士の流儀は知っている。


「ここであなたに助けられたら、マイヤー女史はそれを大叔母様に報告するでしょう。そうなれば、私には『夫に助けられた情けない妻』のレッテルが貼られることになります」


 それは、女同士の戦いに負けるのと同義だ。

 そんなことは、エステルの矜持が許さない。


「あなたに守られたところで意味はないのです」


 公爵夫人として売られた喧嘩だ。

 ならば、女として受けて立ち、自身の手で勝たなければならない。


「だが……」


 まだ何か反論しようとするクライドに、エステルは振り返ってニコリとほほ笑みかけた。


 それそれは、優雅に。

 公爵夫人らしく、たおやかに。


「ご心配には及びません。私は女同士の喧嘩で、負けたことがないんですよ」


 あっけにとられて固まるクライドを一人置き去りにして、エステルは悠々とバラの迷宮から出て行った。





 * * *




「くくくくく……ッ!」


 去って行くエステルの後ろ姿を呆然と見つめていると、生垣の向こうから聞き慣れた笑い声が聞こえてきた。


 生垣に手を突っ込んでバサリと葉をかき分ける。

 そこには、イアンがいた。


「貴様……!」

「悪い悪い」


 イアンは目尻に涙をためて、笑い声をおさえるために腹を抱えていた。

 それを見た途端、クライドのこめかみに痛みが走った。


(聞かれたのか、全て……)


 せっかく使用人たちを遠ざけて二人きりで話していたのに。


 クライドが頭を抱えている間に、イアンはぐるりと生垣をまわってクライドの方にやって来た。


「あーあ、おっかしいよね、エステルって」


 そんなことを言うイアンの目には、まだ涙がにじんでいる。


「普通は夫に任せるもんだよね」

「……」

「『喧嘩を売られたのは私です』って……! 最高にかっこいいよね!」


 手を叩いて喜ぶイアンの隣で、クライドは深いため息を吐いた。そして彼を置いてさっさと歩きだす。

 エステルと鉢合わせしては具合が悪いので、彼女が向かったのは逆方向の出口を目指した。


 クライドが歩き出すと、イアンもそれについてきた。ととっと足早にクライドを追い越し、イアンはニコニコと人好きのする笑顔を浮かべて、クライドの顔を覗き込む。


「ね、君の狙い通りに彼女は勘違いしてくれたわけだけど、それについてどう思うの?」


 これには、クライドの眉がピクリと動いた。


 確かに、エステルは彼の狙い通り、クライドが心配しているのは『公爵家の体面』だと理解してくれた。


 それについてどう思うか、など。

 そんなことを彼に打ち明ける筋合いはない。


「そうやって本心を隠し続けるのって、どんな気分?」


 また、イアンはニコニコと笑顔を浮かべたまま、嫌味な質問を投げてよこした。

 思わず足を止めたクライドの顔を、イアンがじっと見つめる。


 翠の瞳が鋭く光った気がした。


 普段はふわふわと浮ついているのに。

 今日に限って、こちらの本心を探ろうと、用心深く、だが大胆に見つめてくる。


「なぜ、そんなことを聞くんだ」

「んー。しびれを切らしたから、かな?」

「しびれ?」


 イアンがニコリとほほ笑んだ。


「あー、違うかも。我慢できなくなった、の方が正しいかな?」

「何が言いたいんだ」


 クライドは苛立ちをあらわにし、それとは対称的にイアンの笑みがますます深くなる。


「僕さ……」


 一呼吸。

 その間を埋めるように、バラの生垣が揺れて花びらが舞った。


「彼女のことが好きになっちゃったんだ」


 クライドが大きく目を瞠る。

 それを見て、イアンはさらに笑みを深くした。


「『いつか彼女自身が選んだ本当に愛する男と、幸せになるべきだ』って言ってたの、あれ、まだ有効?」


 イアンはやはりニコニコと笑顔を浮かべたままで。

 それなのに、瞳だけは獣のように鋭くて。


 長い間、彼とは友人同士だが。

 こんな表情を見たのは初めてだ。


「その相手って、僕でも構わないよね?」


 イアンの問いに、クライドは何も答えられなかった。

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