ア、雨

青切

ア、雨

 海からいちばん遠い県の盆地に、私は会社の都合で赴任した。

 似江湖にえこという、大きな湖を抱えた似江市は、一言でいえば田舎であった。

 まともな賃貸住宅がなかったので、私は古い家を借りて、ひとりで住んでいた。そう、ひとりで。


 会社の送迎会の帰り道。

 家が近い、稲垣さんという部下の女性とタクシーに乗っていると、彼女が言った。

「あ、雨」

 その言葉を聞き、私は窓にあたる雨粒をみた。すると、稲垣さんが「主任、苦い顔をしていますよ」と微笑んだ。

 私は彼女を一瞥してから、「苦い顔も作りたくなるよ」とつぶやかざるを得なかった。

 「どうしたんですか?」と問う稲垣さんに、「雨の日は家に帰りたくないのさ」と答えた。つづけて、「なぜですか?」とたずねた彼女に、私は「言っても信じてもらえないから、言いたくない」と応じた。

 すると、私の部下は、「それじゃあ、私の家に来ますか? 私もひとり暮らしなんですよ」と口にした。

 だいぶ酔っていた私は、彼女のタイトスカートから伸びる足を見ながら、「……いいのか?」というと、彼女は黙ってうなずいた。


 ベッドに坐り、タバコを吸っている私に向かって、背中を向けて寝ている稲垣さんが声をかけてきた。

「主任、どうして雨の日は家に帰りたくないんですか?」

 そういう関係になった女であったが、私は何となく言いたくなかったので、黙っていた。すると、「教えてくれないと、奥さんにこのこと、言っちゃいますよ」と冗談めいて、稲垣さんが言った。

 「稲垣さん、それは困る」と私が口にすると、「可南子と呼んで。ねえ、いいでしょう? 借家で何が起きているんですか」と再度、私の抱えている悩みについてたずねてきた。

 私が振り返ると、裸にシーツをくるませた可南子が私を見つめていた。


「雨の日に家へ帰ると、キッチンのテーブルに若い女が坐っていて、にこにこと私を見つめているんだ。最初は職場が変わり、疲れた脳が見せている幻覚だと思った。でも、ちがった。仕事に慣れても、雨が降る日にはその女が椅子に坐っている。おそらく、きょうもいるだろう」

 私の話を、可南子は興味津々に聞いた。私が口を開くたびに深くうなずく姿は、どこか私を安心させた。

 「いわくつきの家なんですね、きっと」と可南子が言った。「信じるかい?」と私が言うと、可南子はシーツを広げて、その若い裸体を私に見せながら、「それは見てみないとわかりませんけど」と言った。

 それから、「その女、私よりきれいですか?」とたずねてきたので、「そんなしっかりと幽霊の顔を見たことがないからわからないな」と私が答えると、「そういうときは、冗談でも、きみの方がきれいだよって、言うものですよ」と、可南子がくすくすと笑った。


 しばらくすると、どうも、会社の同僚の私を見る目が変わった気がした。私が場を去ると、背中越しに、ひそひそと話し声がした。

 その件で私が可南子を非難すると、「だれかに見られていたんでしょう。狭い田舎だから」とのことだった。


 その休日は雨が降っていた。リビングで私は幽霊と対峙していた。白い着物を来た彼女の前に、買って来た酒と塩を並べたが、何ら効果はないようで、彼女はただニコニコとしていた。

 すると、呼び鈴がなり、荒々しく玄関の引き戸が開くと、中年の男と可南子が家に入ってきた。

 「何ですか? 突然」と私が言うと、男が「おれは屋良頭やらずの町長だ。おれを知らんのか」とすごい剣幕で迫ってきた。困った私は、可南子を見ながら、「知りませんよ」と答えた。

 町長は鼻で息をしたあと、「あんたの家にいるという幽霊はどこにいるんだ」と怒鳴った。

 私は町長を無視して、「どういうこと?」と可南子にたずねた。

「ごめんなさい。ちょっと話したら、伯父さんが主任の家に連れてけって。私、分家の人間だから……」

 そういうと可南子はうつむいた。

 私は大きくため息をついたのちに、「いま、あなたの視線の先にいますよ」と答えた。

 しかし、町長には見えなかったようで、「そんな女、おれには見えんぞ。代々、この地を治めていた庄屋の家柄のおれに見えなくて、おまえに見えるはずはない!」と息巻いた。

 「知りませんよ。見えないのならば、もういいですか? お帰りください」と私は努めて平生を保って、町長に言った。すると、男は鬼の形相のまま、「くだらんことを教えおって」と可南子の頬を殴ってから、家を出て行った。

 私は慌てて、可南子に近づいた。頬は鬱血していた。骨が折れているかもしれなかった。「大丈夫かい。警察、いや、その前に病院かな」と私が口にすると、可南子は首を横に振った。「無駄です。ここはそういうところです。あとで、親戚の病院に行きますから、問題ありません。おおごとにされると、私があとで困ります」と涙ぐみながら彼女が言った。


 「いったい。何だって言うんだ」と私が憤ると、可南子が「伯父さんも焦っているんです。さいきん、この地域、屋良頭では雨が多くて、作物が育たないんです。育つのは養殖の鯉ばかり」と答えた。

「それが私の幽霊話と何の関係があるんだ?」


 その昔、この町、いや、この村はひどい日照りに悩まされていました。

 そのために、毎年、人身御供として、若い女を龍神さまに差し出していたのですが、あるとき、人身御供となる女の美しさに惑わされた庄屋が、人身御供をやめました。

 すると、雨期でもないのに大雨が降り続き、村は水の下に沈みそうになりました。

 そこで、人身御供となる予定だった女が、いまの似江湖に身を投げると、雨は止まったそうです。

 そして、ある日、寝ている庄屋の枕元にくだんの女があらわれて、龍神さまは私の魂にたいへん満足しているから、とうぶんの間、人身御供はしなくてもよいと言っていると告げたそうです。


「その人身御供の女が、いま、私の目の前にいる女で、その人身御供の効力が切れかかっていると町長は考えているのか。ばからしい」

 そのように私が言うと、可南子は「そうですね」とうなずきつつも、「でも、どういうわけか、主任には幽霊の姿が見えています。ということは、人身御供の話も信憑性がゼロとは言えないのではないですか?」と応じた。

 「それはそうだが」と言いながら、私は、椅子に坐っている幽霊を見た。「あなたは、人身御供になった方なのですか?」とたずねてみたところ、女が「下、下。私の下」とはじめて言葉を発した。

 そこで、私は、可南子の制止するのも構わず、幽霊の坐っている床を剥がし始めた。すると、古い井戸があらわれた。

 その井戸には木蓋がされており、無数の札が張られていた。

 「剥がして、剥がして」と幽霊が言う。その言葉通りに札を剥がそうとする私を、可南子は懸命に止めたが、私はそれを無視して、札を剥がし、木蓋を開けた。

 古井戸の底に、スマートフォンで光を照らすと、満々と水がみちていた。

 「ねえ、水かさが増してませんか?」という可南子の言葉通り、井戸の水位はぐんぐんと上がり、やがてあふれだし、床上にまで水があふれ始めた。

 「逃げよう」という私に、可南子は黙ってうなずき、ふたりで家の外へ出た。すると、空は黒い雲に覆われており、猛烈な雨が降りそそぎはじめた。


 近くの公民館に避難した私と可南子だったが、厳しい雨の降る翌朝、目が醒めると、可南子の姿がなかった。たずねると、町長と共に朝早く、外へ出て行ったとのことだった。

 嫌な予感がした私は、まわりの制止を振り切って、似江湖へ向かった。


 似江湖にどうにか私が着くと、白い装束を身にまとった男たちにまじって、可南子と思われる女がいた。

 私が彼女に近づこうとすると、男たちが可南子を湖に引っ張り、彼女の伯父である町長が背中を押して、彼女を荒れ狂う湖へ、その身を落とした。


 私は町長に近づくと襟首をつかみ、「なんてことをしたんだ。人殺し」と言うと、町長は風雨にその声をかき消されながら、「これで屋良頭は救われる。それにこれは可南子も望んだことだ」と叫んだ。私は町長の顔面を思い切り殴った。



 結局、それ以降も暴雨はやまず、屋良頭は壊滅的な被害を受けた。後年のことだが、年を経るごとに、町は衰退の一途をたどり、やがて地図から姿を消した。



 似江市の支社はなくなり、私は他県の自宅へ戻った。

 すると、リビングで、妻が不機嫌極まりない顔をしながら、スマホの画面を見せてきた。

 それは、裸の私と可南子が体を寄せ合っている画像だった。可南子にせがまれて撮った写真がなぜ、妻の元へ送られてきたのだろうか。送ったのはだれなのか。

 それよりもなによりも謝らなければならないと思い、「すまない。でも、もう、その子はこの世にいない。許してくれ」と頭を下げた。

 夫の思いもよらない言葉に妻は気が動転したようで、「あら、そうなの」と言ったきり、黙ってしまった。

 もういいかと思い、私は頭を上げた。

 すると、リビングのテーブルの椅子に可南子が坐っていた。ニコニコと笑いながら。

 外から、雨音が聞こえはじめていた。

 可南子が見えていない妻が言った。

「あ、雨」

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ア、雨 青切 @aogiri

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