弐
「市立大学病院まで、急いで下さい」
先生はタクシーの運転手にそう伝えると、励ますように私の肩を叩きドアを閉めた。
『お兄さんが意識不明で病院へ運ばれた、と中学校の先生から連絡がありました。危険な状態だそうです』
荷物をまとめて教室を出ると、試験官の先生にそう告げられた。言われた言葉を頭が理解する前にタクシーに乗せられて、車が発進する。
カバンのそこにしまっていたスマートフォンを取り出した。電源を入れるとたくさんの着信履歴があった。調べてみると、先程の先生から聞いた大学病院の名前が出てきた。
そこで、やっと状況を理解し始めた。その途端、両手がカタカタと震え出す。
お兄ちゃんが、危険な状態……?
どうして、だって今朝もいつも通りで。
私が作ってあげたエプロンを着て、タコさんウィンナー焼いてて、「行ってきますのおまじない」をするって私を追いかけてきて。
いつも通り何も変わらない朝だったのに。なのに、危険な状態って。
車内は暖かいはずなのに手先の震えが止まらい。奥歯がカチカチと鳴る。青白い顔をする私に運転手さんが心配そうに声をかけてくれたけれど、上手く返事をすることが出来なかった。
病院には20分くらいで着いた。先生が持たしてくれた1万円札でお金を払って、タクシーを降りる。
絡まりそうになる足を何とか動かして、受付でお兄ちゃんの病室を尋ねた。教えられたのは「ICU」と書かれた病室だった。ドラマや映画なんかで見た事がある。
一歩一歩、慎重に中へはいる。
無機質な電子音が一定間隔で鳴り響く病室に、横たわる人がひとり。頭には真っ白い包帯、口は酸素マスクで覆われ、目の周りには見るに堪えない青いアザがあった。
たくさんの管で繋がれたその人は、今朝とは全く違う姿になった、私のお兄ちゃんだった。
震える足で側へよる。布団から出た腕も固定するギプスが巻かれて力なく横たわる。
青白い顔からは生気が感じられず、心音を示す電子音だけがお兄ちゃんの生存を示している。
「お兄ちゃん……?」
手を伸ばして指に触れた。冷たい、まるで人形のようだった。
「お兄ちゃん、
指を強く握りしめて名前を呼ぶ。
何度問いかけても返事はない。『どうした巫寿!』いつも太陽みたいな笑顔で振り返るお兄ちゃんは、もうそこにはいなかった。
警察からは、家の近所の路地裏で倒れていたのを玉じいが見つけて救急車を呼んでくれたと聞いた。玉じいが見つけた時にはもう周りには誰もいなくて、お兄ちゃんひとりが倒れていたらしい。
低体温と失血が酷く救急車で一度心臓が止まり、病院で必死に治療にあたった結果なんとか一命を取り留めた。いつ目を覚ますのかは誰にも分からない状況らしい。それだけ負った怪我が酷かったということだ。
看護師さんに言われるがままに入院の窓口へ赴き、必要な書類に名前を書く。
「お父さんかお母さんと連絡取れる?」
窓口のおじさんにそう尋ねられ、小さく首を振る。
「二人とも、亡くなってます」
言い慣れた言葉はすんなりと出た。言い慣れていることが今日はありがたかった。
「あ。ごめんね。大変だったね」
申し訳そうなおじさんの表情に、ぎゅっと喉の奥が締まる。腫れぼったい瞼がまた熱を帯びる。
枯れるほど流したはずの涙がまた溢れそうになった。
病院を出る頃には日はすっかり沈んで、分厚い雪雲が夜空をいっそう暗くした。
帰り道はスマホで調べて電車を使った。
ぼんやりと車窓から外を眺めていると、ブレザーのポッケに入れていたスマホがブルブルと動いているのに気がついた。
トークアプリには恵理ちゃんからたくさんのメッセージが届いていた。担任の先生や同じ教室で受験したクラスの友達、玉じいも。
返す気になれなくて電源を消そうとして、もう一つ通知が届いているのに気がつく。
私が家を出て少ししたくらいの時間に届いている。お兄ちゃんからだった。
とん、と画面に触れてトーク画面を開ける。写真とメッセージだった。
【お弁当作ったから夜ご飯に食べてね。お兄ちゃん今日も仕事遅くなりそう。今日こそ一緒にご飯食べて、ゆっくり話したいって思ってたのに残念。あ、雪積もってるから足元気を付けて。雪遊びは程々に!そういえば昔、今日みたいに雪が積もった日に2人で雪合戦し他の覚えてる?それと試験。頑張ってきたこと発揮出来るといいね。巫寿ならヨユーで合格だ!!】
雪遊びって。お兄ちゃんってば、いつまでも子供扱いばっかりなんだから。
それにいつも文章がいちいち長い。
写真は、お弁当を持ったお兄ちゃんが変顔をして自撮りしたものだった。そして。
【巫寿が危ない目に会いませんように。巫寿が怖いものを見ませんように。巫寿が楽しい一日を過ごせますように。】
「あ……」
その文字をなぞった瞬間、大粒の涙が瞼を越えた。そこに綴られたのは“行ってきますのおまじない”だった。
小さい頃から出かける時には必ず、お兄ちゃんが額を合わせてかけてくれたおまじないだ。
今から十年以上も前、物心着く前の私はお兄ちゃんが言うには"少し敏感な子"だったらしい。
何となく覚えているのは、薄暗い路地や箪笥と壁の隙間みたいな場所の深い暗闇が怖くって、いつもお兄ちゃんにしがみついていた。暗闇の先に目玉があって、それがぎょろりと私を見つめているような気がすると。
今ならそんなのは気のせいだって分かるけれど、昔はそれが怖くて怖くてわんわん泣きながらお兄ちゃんに抱っこをねだった。
"行ってきますのおまじない"はそんな時に、お兄ちゃんが私にかけてくれるようになったおまじないだった。
小学生になり一人で学校へ行かなければならなくなった私がちゃんと一人で学校へ行けるように。たぶんそんな意味を込めて、お兄ちゃんはおまじないをかけてくれていたんだと思う。
でもそのおかげで、暗闇に何かいるような気もしなくなったし、一人で出歩けるようにもなった。
何よりも、そのおまじないをかけてくれるお兄ちゃんの声が好きだった。その温もりは、両親の記憶が薄い私にとって唯一感じた家族の温もりだった。これは、私たち兄妹を繋いでくれた大切なおまじない。
なのに、私は。
どうして今日はお兄ちゃんを振り切って家を出てしまったんだろう。いつもは嫌々でもちゃんとおまじないをしてたのに。
こんなことになるなら、ちゃんとお兄ちゃんと話せばよかった。こんなことになるなら、朝ごはんも食べて、お弁当も待って、しっかり行ってきますって言えばよかった。
後悔ばかりが次から次へと溢れる。
今更後悔したって、もう遅いのに。
袖で頬を拭う。
しっかりしなきゃ。私しかいないんだから。
そう自分を奮い立たせて鼻を啜って顔を上げた。電車はちょうど地上から地下へ入ったところだった。
次の瞬間、ヴンと音を立てて車内の電灯が一瞬消える。
え、と顔を上げると電灯はきれる寸前のようにジジジと音を立てて点滅を始めた。
まわりを見回したけれど、他に乗車客はいなかった。
なんだか嫌なな感じがして、ドクドクと心臓が早く波打つ。それまで何ともなかった車内が、やけに寒いような気がして両腕を抱きしめた。
窓の外はまだ地下だった。
気のせいだ分かってるのに、暗闇から誰かが私を見ているような気がする。
……大丈夫、大丈夫。
お兄ちゃんが倒れて心細いから、不安な気持ちになっているだけだ。
そう言い聞かせてスマホを強く握りしめた。
家の最寄り駅に着くと振り向かずに走った。地下のホームから抜け出して改札を飛び出でる。
少しだけ月明かりが差して積もった雪が道を明るく照らしていた。
ほっと息を吐いて足をゆるめる。あと何回か曲がれば、自宅のアパートが見えてくる。よかった、と肩の力が抜けたその時、ふ、と顔に影がさした。
歩みを止めて弾けるように顔を上げる。月に雲がかかっていた。煌々と輝いていた月は分厚い雲におおわれて、僅かな鈍い光だけを発する。辺り一面の暗闇が深くなった。
次の瞬間、全身の肌がぶわりと粟立つ。
「────っ!」
刺すような視線を感じた、あちこちからだ。まるで喉元にナイフを突きつけられているかのような息苦しさと緊張が走る。
それを殺意というのだと、考えるまでもなく理解する。
全身の細胞が警鐘を鳴らしている────「逃げろ」と。
ズズ、ズズ、背後から何かが地面を這う音がする。サク、サク、雪を踏み締め何かがこちらに近付いてくる足音がする。
駄目だ、駄目だ今すぐに走らないと。
ガクガク震える足がなんとか一歩前に出た。それで弾みが着いたように足が動き出す。脇目も振らず走った。
どどど、と心臓が爆発しそうなくらいに早打つ。冷たい空気に喉の奥がひりついて苦しい。
迫る"何か"の音は一定の間隔で後を追って来ているようだった。もうすぐそこにまで来ているような気もして、振り返ることが出来ない。
「……あ、危ない目に、会いませんように、怖いものを、見ませんように……っ、」
無意識に「行ってきますのおまじない」を呟いた。
もつれそうになる足を必死に動かして、角を曲がった。アパートが見えた。
その時、アパート一階右端の部屋の扉が開いた。一階右端は玉じいの部屋だ。走ってくる私の姿を見つけて驚いたように目を瞬かせる。
迷わずその部屋に飛び込んだ。玉じいに飛びつく形で部屋の中へ転がり込んだ。
「巫寿!? 迎えに行くって連絡したろう!」
「────っ、誰かが、後ろに……」
息を切らしながらそう伝えると、玉じいは私を背に庇ってすぐにドアを閉め鍵をかけた。ドアスコープを覗き込み、外の様子を伺う。
心臓は走っていた時のままバクバクとうるさかった。
玉じいは「"何も"いない」と振り返って私の肩を抱いた。
「一旦落ち着いて、休んでいきなさい」
どっと疲れが出たのか安心したのか、瞼が熱くなって返事は声に出さず頷いた。
玉じいは赤い座布団を押し入れから取り出して引いてくれた。いつも遊びに来た時に出してくれる座布団だ。
座って俯いていると湯のみに熱い緑茶を淹れてくれた。両手で包み込むと冷えきった指先へとじんわり熱がうつる。
「祝寿は」
その問いかけに小さく首を振る。
「……いつ目が覚めるか分からないって、お医者さんは」
「そう、か。わしが、もう少し早く見つけていれば」
「それは違うよ! 玉じいが見つけてくれなかったら、お兄ちゃんは今頃」
その続きは言葉に出すのもおぞましくて口を閉ざした。
「……お兄ちゃんは何があったの? お医者さんが変なこと言ってた。普通の怪我じゃないって」
「見つけた時にはもう倒れていた。何があったかは、わしにも分からん」
普通の怪我じゃないってどういうことなんだろう。あの時は気が動転していて、ちゃんと話を詳しく聞くことが出来なかった。
普通の怪我って、転んだり事故にあった時の怪我ってことだよね。
じゃあお兄ちゃんは事故でも怪我でもなくて、誰かに傷つけられたということなんだろうか。誰かがお兄ちゃんをあんなになるまで傷付けたということなんだろうか。
でも、どうして?
お兄ちゃんは確かに、たまに鬱陶しいなって思うような時がある。宿題やったのかとか、誰とどこで遊ぶんだとか。話し出すと長いし、メッセージアプリも長文だし。
でも、それは誰かから傷付けられるような、悪意を向けられるような事じゃない。
お兄ちゃんは学校ではずっと人気者で、私には意地悪だけど優しくて、ほんとにほんとに頼りになって。誰かから嫌われるような人じゃない。
なのになぜこうなってしまったの?
誰がお兄ちゃんをこんな風に傷つけたの?
「玉じい、どうしよう。これからどうしたらいい? お兄ちゃんがずっとこのまま眠ったままだったら、私」
その先は言葉にならず、うわあっと声を上げて玉じいの膝に泣き崩れた。
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