第5話
次の日も勿論変わらず勉強の日々が龍烈を襲った。そんな頑張る息子を見て、母の龍麗は心中で応援すること、そしてやる気の出るような美味しいご飯を作ることしかできない。今日も彼女は、頑張る息子に最高の食事を、と朝早くから山麓を離れて街に向かった。
道中には大きな池がある。名前を蛟龍池といって、その名の通り古の時代には蛟龍が生息していた伝説がある。
まあ、その伝説も全国的に有名なものではなく、あくまで土地のものが代々語り継いでいることであるから、実際そうだったのかどうかは疑問が多い。ただこの夏の時期、池の畔に立ってみると、四方の木々からは蝉の鳴き声がこだまし、池から吹く涼しい風が頬を撫でる。山麓から町の市場まで随分と遠いから、一休みにはうってつけの場所であった。
それにしても不思議な地形である。ここまで生い茂った木々が林を作り、太陽の光を遮る程に繁茂しているのだが、この池周辺、十平米ぐらいの場所には一本寂しそうに松が生えているだけで、全くと言っていいほど木々が立っていなかった。天からここら一帯の林を見つめれば、ちょうどこの池周辺が頭の十円ハゲみたいに見えるであろう。この不思議な地形が、この池の存在を強めているといってもいいほどである。
龍麗は風に当たりながら、例の一本松に近づいて腰をおろした。すると、吹き込む風と差し込む陽の光、涼しいのと暑いのとがちょうど調和が取れて、一休みのつもりがどこか眠気が襲ってくる。
仕方がないので、数分くらい眠っておこうと目を閉じた彼女であった。
すんなりと意識が飛んだ彼女は、次に目を開けたとき不思議な光景を目にする。それまで青かった空がどうも輝きを増して白に似た色合いになり、目の前の池は水面が小さな波を何度も立てて畔に近づいてきているのだ。
不思議に思って、彼女は下げた頭をまっすぐ前へと向き直した。生暖かい風が頬をなでながら目を向けた先には、信じられないことであるが龍がいた。
蛇のような体躯に輝く青の鱗が目立ち、透き通るように白いたてがみに、出っ張った額には交差した眉は、まさしく伝説上の蛟龍であった。
思わず息を飲んだ龍麗は驚きの反動で腰を俊敏に上げた。そして口元に手を当てながら、そのままそこに立ち竦んだ。龍の目から発せられる覇気に、文字通り言葉を失った彼女はただじっと震える目でそれを見つめることしかできなかった。
すると、蛟龍が徐ろに水面を逆立てながらこちらに向かってくる。近づいてくればようやくわかったが、とてつもなく巨大であった。体長は人間が数十人連なってようやく同じになるほど長く、それが風をきってやってくるのだから衝撃は凄まじい。強風は髪留めの簪もすべて吹き飛ばして、前髪を上げるほどであった。
眼前にたどり着いた龍は、俄然そこで止まる。これもまた、この大きな胴体の進退に伴って強風が吹き荒れた。
じっと止まった龍は、その点のような黒い瞳で彼女をじっと見つめる。何も言わない龍であったが、彼女の瞳を見つめてから少し経つと、今度は徐ろにその体が小さくなり始めた。
龍の体長は変幻自在である。大きくもなれば小さくもなる。天に昇ることもできれば、水中に隠れることもまた可能なのだ。
そんな龍が、ほとんど彼女の体と同じ、いや、それよりも小さいほどの体躯となった。そしてようやく体長の変化が終わったらしく、龍はゆっくりと彼女の身体めがけて飛んでくる。今度は池に波も立てず、風も起こさない穏やかな動きであって、その龍はゆっくりと彼女の腹の中へ入っていった。そして、その尾が最後の光を発して、全身がついに彼女の体内へ入り込むと、彼女の視界は揺らいでいく。
気づけば、いつもどおりの池畔が目の前に広がっていた。どうやら、不思議な夢を見ていたらしい。蛟龍池で本物の蛟龍と夢の中で出会えただけでなく、更には自分の体内に蛟龍が宿った。
それは多少の気味悪さがあったが、しかし、なにかの吉兆であろう。董天は吉凶を占う占術に長けているから、帰えったら占わせてみようか。
というふうに、なんの気もなく買い物へと向かった彼女であった。
ーーー
この不思議な出来事を董天に話してみたのだが、過去に蛟龍が体内に入り込むとかいう事例は記録されていないし、占ってみた結果もどうも腑に落ちないものであった。
「まあ、蛟龍がお体に入ったのですから、きっといいことでしょう」
と董天は適当に結論付けたし、じっさい龍麗もそこまで気にしていなかったので、ひとまずこの話は記憶の奥底に沈ませる予定であった。
しかし、どうもこれを忘れられないような不可思議が起こる。龍麗が身ごもったのである。それはあの蛟龍の夢をみてから九日後であった。
これを告白したときは、龍烈も寝静まった深更のときである。月の光が窓から差し込む部屋で筵の上に寝ている董天の肩を叩いて起こし、
「たぶん、身ごもっちゃったわ」
と彼女はいつもの軽々とした声で言うと、董天は眠そうなその切れ長の目がぱっちりと開いて
「龍夫人!?まさか、あなた……!?」
と、ふしだらな姦通を疑った。そしてその声があまりにも大きく、寝ていた龍烈を起こしそうであったから、龍麗は董天の肩を引いて部屋から出ていった。また外の夜風に吹かれながら話をしようとした。
***
冗談だろ?
さっき、うちの母親が身ごもったって言ったか?でも、家には親父がいないはず……
正直、今まで気まずかったから切り出せなかったが、たぶん、俺の親父はとっくの昔に死んでいる。別に単身赴任とかで家にはいない、とかではないだろう。もしそうだとしたら、ちょっとくらいの手紙でも届いていいはずだ。それなのに頼りの一つもよこさないというのは、おそらくとうの昔に亡くなっているか、もしくはそれ以外の複雑な事情があるのであろう。
そんな状況なのに、妊娠?もしかして、認めたくはないが家の母親はふしだらなあばずれなのか?
龍麗はいま、董天に詳しい事情を話すため、外に行った。一体、どんな経緯と理由があったのか、めちゃくちゃ気になる。
そう思うと、俺はこの綿でできたフカフカの牀の上に寝てるだけでは飽きたらない。いてもたってもいられなくなり、なるべく音を立てないようゆっくりと牀から降りた。
そして、あわよくば壁越しから盗み聞きを、ということで玄関間際の壁へと向かって耳を当てる。幸い、この草庵は壁が薄いから、たぶん近くで話をしている限りならなんとなく聞こえそうだ。
俺の読み通り、夜風の音が少しうるさいが話し声はかすかに聞こえてくる。
***
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