追奏-Canon-(旧題・心酔)
煙 亜月
第一話 心酔
「おかえり、待ってたよ」
脱走した犬が長旅を終え帰ってきた時のように、もしくは去年枯れた花壇が芽吹いた時のように、とにかくそんなものを覗き込むように亜貴姉はいった。別に嬉しくはない。ただその再会は読まれていた。でも、少しは嬉しがってたらいいなとも思った。前のように頭を撫でられるほどの精神年齢ではないのだから。
恋愛? 恋と、愛? いや、違うな。
当時身を焦がれた初恋をいまも消し止められずにいるばかりか、その小さな火種を懐炉にして暖を取っている、とでもいおうか。
執着。
愛着、粘着とも違うこの二文字に僕はきょうこの日まで縛れられていた。いや、その束縛は自分自身から発せられたものだろうけれども。
「やっぱり来たね」亜貴姉はくすくすと笑う。アッシュグレーに染めたウルフカットを揺らせる都会の風もまた、彼女にとってはアクセサリーの一部なんだ。だって、僕の猫っ毛はいつも寝るかはねてるかして主人の見た目を悪くすることが大好きなようだから。彼女にとっては間抜け面のボーイフレンドもタクシーのクラクションも、手のひらを上に向けて『こっち来て』とサインするのも、すべて洗練されたアクセサリー。
きれいだな。
そう思った。
ときに、初恋は実らない。だから大なり小なり、世の人びともこの香りを経験したんじゃないだろうか。実った後は、腐るか枯れるかだ。中途半端な状態を完熟と呼ぶなら、僕はその果実に酔い続けているのだ。
気づけば亜貴姉は僕のすぐそばにいた。雛が浮かして初めて見た動くものを親鳥と認識するように、初めて意識した異性を好きになった。それが亜貴姉だ。
ちょっと懐かしい記憶がある。今では思い出というべきなのだろうか。学童保育の教室と遊び場を兼ねた空間に夕陽が差し込んでいた。憶えている。初夏のあの夕陽。周りじゅうの存在——埃や、机、椅子、黒板、足踏みオルガン、下駄箱、ランドセル、亜貴姉と僕——を照らしている。繊細に揺れる長い黒髪、細い体、笑うと左にだけできるえくぼ。
「ね、見てて」退屈を持て余したのだろう、亜貴姉はそういい、教室の暗幕をばっ、と大きくゆすると同時に手早くしゃっ、と閉める。「上、見て!」いうまま見上げると、カーテンレールの上のわずか隙間から星くずが流れるように、埃がきらめいていた。その帯は幅にしてほんの一〇㎝程度。見る世界がいちいち初めてな僕の心を揺らすにはじゅうぶんだった。
いつから亜貴姉を特別な存在だと認識したのか——思うに、この初夏のころからだろう。
「ね、ここで見てて。そう——ずっとね」亜貴姉は僕に暗幕の近くに位置取らせる。
閉じられた暗幕の隙間から洩れて教室へ入る陽光の向こうから、亜貴姉はこちらへ歩んでくる。二枚の暗幕と暗幕のあいだ、ほんの少しのあいだを通る亜貴姉は、漏れ出るめいっぱいの西陽と星の瞬きを浴びて黒髪、まつげ、幼いながらも整った顔立ちが強く——苛烈なまでに光を浴び、すぐに暗転する。亜貴姉はまた星の裏へ入る。
「どうだった? きれいだったでしょ」
きれいだった。でもそうはいえず、うーん、とか、まあ、とかはっきりしない相槌を打っただけだったと記憶している。
「照れんなよ、低学年ちゃん」
それでも勇敢に、というか蛮勇で亜貴姉に思いの丈を打ち明けたことがある。
「えっ、そうなの? えー、あたし気づかなかった。でもごめんね? ほかに好きなひと、いるから、さ」
恋も愛も、愛着も執着も、駆け引きもダンスの始め方も、何も知らないで告白したのだ。そんな非礼を彼女は笑っていなし、僕の初恋は幕引きとなった——とりあえずは。
「まあでも、友達からなら、いいけど?」
そう顎に人差し指を宛て上を見るしぐさをする。視線を元に戻すと「じゃあ、好きにならせてよ。そしたら、ね」と、流行りのドラマで聞きかじったようなことをいった。
初めての恋と初めての失恋だった。まだ恋も何も、ろくに分かってすらいなかった僕は、緩徐の提案を嬉々として呑みこそすれ、断るだけの理由は思いつかなかった。
彼女が自分の家からさして遠くない場所に住んでいることを知ったのは、揃って各々の母親と連れられて行ったスーパーの店内だった。親同士が当りさわりのない挨拶を交わしていた時、亜貴姉と僕はすでにお互いの住所と最寄りの公園の場所まで交換していた(もっとも、住所の暗記などできなかったけれど)。
僕と彼女——亜貴姉ちゃんとの出会いはそんなきっかけで、七歳の自分にとって二学年の差はとても深かった。
中学年である彼女は学童でも年長に近かった。高学年ともなると自分で鍵を持ち、留守番する子も増えるからだ。
初めて家に遊びに行った日。確か日曜だったと思うけど、親の仕事の都合で家には彼女だけだった。「いいもん見せてあげよっか」
そういうと、亜貴姉は引き出しから東京ばな奈のように区分けされた菓子箱を取り出し、僕に嬉々としてそれを見せてくる。仕切りの中、そのさらに内側にカラフルな折り紙で折られた小さな箱がある。学校で見たことはあるが何べんやっても折り方が分からないあの箱だ。そこに入った大きな綿毛のような物体は、彼女曰く、ケセランパサランという名らしい。生き物? 当時の僕には少しおそろしいもののように見えた。だって、亜貴姉ちゃんには似合わないよ。当の亜貴姉ちゃんは近くの神社で集めたというそれにおしろいの餌を与え、あふれたおしろいで箱の底は白く染まっていた。
「誰かにバレたら幸運になれないんだって。だからあたしとハル君にだけの内緒ね? ハル君、なんか叶えたいこととかある?」
「え、あ——亜貴姉ちゃんと一緒に歩きたい、かも」
「えー、なにそれ。そんなのあたしが毎日押すのに。それじゃ、あたしはお金持ち!!」
生まれつき自分の足が満足に動かないことにコンプレックスを抱いたのは、誰かと触れ合うようになったからだろうか。部屋の中で本を読むことが娯楽だった僕にとって、外を駆け回る彼女の脚は羨望の対象だった。いや、母さんもいってる。ひとはひと、僕は僕。おなかの真ん中あたりにできた強い陰圧のような悪い考えは捨てるべきだ。
そういえばこのころからポストの中を見るのが楽しみになっていた。ぎゅうぎゅうに詰まったコスモス。ある日は煌めく星を覗くような万華鏡。両親は「これ、何? っていうか、誰?」と質すが、僕は満面の笑みを隠せなかった。自らの眼で見た綺麗な品々は僕からは遠い場所のものだ。それらを亜貴姉は僕に見せようと、集めて持ってきてくれている。彼女は部屋の中の閉じこもりがちな僕に外の世界を知らせる。
彼女は、ただ自分の持っている物を自慢したいだけだ。そう思うことも確かにある。それでも、ずっとずっと続く「手紙」が僕はとても楽しみだった。この「手紙」を誰彼構わず送っているとは考えられず、僕の小さな心を一杯にするに十分だった。「手紙」が僕に向けられている限り、彼女のことを好きでいるのだろう。恋というものを徐々に理解していくにつれ、そんなことを思った。
彼女自身の好きな男子に対する感情は、季節が巡るたびに落ち着いていった。それに反比例するかのように、僕の感情は風船のようにふくらみ続けている。
家の近所の遊び場など田園の傍に伸びる農道や手入れされていない広場しかなく、僕たちは狭い農道を駆け抜けるように走る。車椅子のタイヤが舗装されていない畦道に轍を刻み、九月の空はどこまでも高い。
「どうよ!」
「すっげー、はっや!」
後ろのハンドルを握る彼女の息遣いを耳元で感じながら、僕は彼女と同じ速さで同じ景色、同じ時間を走っていることに喜びを覚える。流れ続ける用水路のせせらぎさえ邪魔で、周りには誰もいない。ふざけてスピードを上げようとする亜貴姉ちゃんと一緒ならどんなところへでも行けそうだった。顔や腕、全身をなびかせる風が胸を満たす。
狭い田舎も、動かない足も、ずっと嫌いだった。どこにも行けない自分が嫌いだった。僕が行ける世界と行けない世界には大きな隔たりがあって、周りと同じように動けないことへの鬱屈や焦りが耳鳴りのように止まない。
それでも。彼女と駆けている時間だけはこの景色も、動かない足も悪くないと思えた。
僕は高揚のままに頭を振り、身体を動かす。小高い畦道に乗っていた前輪が浮き上がり、車椅子はバランスを崩した。亜貴姉ちゃんは僕の身体を抱いてなんとか体勢を立て直す。
彼女の荒い息遣いが頬にかかる。ふわっ、となにか、これまで嗅いだことのないいい匂いがした。
「大丈夫かー?」
「ご、ごめん、はしゃぎすぎた」
亜貴姉ちゃんが僕を覗き込んでいる。ゆるやかな晩夏の風は彼女の髪を揺らし、前髪は額に張り付いている。午後の太陽が彼女を後光めいて照らす。
僕はこの人のことが好きだ。何度も繰り返した結論を再認識する。
その帰り道、二度目の告白に否定でも肯定でもない回答が返ってきたのは、僕が一〇歳、彼女が十二歳の時だ。
彼女なりの気づかいか、このときからか外での遊びをぱったりとしなくなった。
僕が十四歳の夏だっただろうか。僕は中学生だったけれど亜貴姉ちゃんはもう高校生だった。
「ハル、もう一戦! 次こそアイスクライマーで勝つ!!」
「次で決着ね。ネス使っていい?」
その頃の僕らの娯楽は外で遊ぶことよりもエアコンの効いた部屋でやるスマブラで、実力差は拮抗していた。
一〇年間育てた初恋を、未だ放流できずにいた。ただ肩書きが変わっただけの関係値に妙に固執していたのは僕で、爆発しそうな思春期の情動を制御するには時間をかけすぎた。そして、何より焦りを感じていた。
「わかった、じゃあ次で決着つけよう。その代わり、一つお願いあるんだけどいい?」
「ハルがあたしに? 珍しいじゃん。どした?」
「そろそろ告白OKしてくれない?
彼女の肩が震える。僕の二の腕を無言で軽く小突くと、コントローラーを強く握った。
「真剣勝負ね。お互い手を抜かない!」
集中して、圧勝した。「アイテム運だって!!」という抗弁を無視し、僕は視線をテレビから亜貴姉ちゃんの顔へ移す。
家族は皆外出していて、今この場にいるのは僕たちふたりと飼っているハムスターくらいだ。僕の熱を察してか、小さなジャンガリアンは回し車をひたすら回転させている。ホイールが空回りする音と、弱風のクーラーが立てる駆動音。僕はコントローラーを手から離すと、沈黙を誤魔化すために麦茶を一口飲んだ。
「さすがに三回目にもなったら、ちゃんと答えは聞かせてほしいんだよね」
「三回も告白されたっけ。懲りないねえ、ハルも」
「割とお互い様じゃない? 助かるけど」
既に彼女の背は抜いていた。お互いに小柄な方だが、改めて見ると彼女の身体は随分と小さい。それでも、一度立ち上がれば彼女は僕を見下ろせる。当時の僕たちの関係性も、丁度そんな感じだ。
「あなたのことが好きです。これまでも、これからも。僕と、付き合ってください」
「んー。てかこれさあ、関係の呼び方が変わっただけじゃない? OKしても、断っても、二週間くらい経ったらまた一緒に遊んでるんだし」
「じゃあ断る理由なくない?」
「ま、それもそうか。わかったよ。じゃ、それで。どうせ、やる事は何も変わらないでしょ」
『じゃ、それで』。彼女の答えだった。
受け入れられた実感は後からやってくる。意を決した告白そのものに対する回答は煙に巻き、彼女は僕の提案になし崩し的に従った。今の関係性に別の名前が加わっただけの、そんな進歩。その小さな変化が、僕にはえらく大きなものに思えたのだ。
「守る」や「幸せにする」なんてご大層な言葉は嘘になってしまうからいえなかったし、いっても気持ち悪がられるだけだろう。ただ一緒に遊ぶ日常が続いていくだけで、そのうち何かの変化を起こしていけばいい。今の僕の臆病さならそんなことをいえていたかもしれないが、当時の僕はそう思わなかった。
恋人という言葉の持つ特権的な意識に囚われて、変化を求めてしまった。
愛されたかった。誰でもいいって訳じゃない。亜貴姉に愛されたかった。
自分が向けている想いに釣り合うほどの愛を返してほしかった。それは僕にとっては言葉で、行動で、自らの想いを正当化することだった。
それから一年経った。
僕たちの関係は何も変わらなかった。当時の僕がそれを良しとしているわけがなく、何度もアプローチを繰り返し、その度に笑顔を向けられ続けていた。相手から「好き」という言葉を引き出そうとしては「嫌いじゃないってだけ」と返され、告白をやんわりといなす語彙がこんなにもあるのかと感心するくらいだった。
今思えばそれは戯れあいだったのかもしれないが、十五歳の僕は真剣に彼女からのアプローチを求めていた。スキンシップは取るし、物理的な距離では隣にいる。それでも、心の距離は縮んでいない気がしたのだ。
季節が巡り、春が来て、僕は地元から離れることになった。週に一回は実家に帰ってくるが、今までのように頻繁に遊ぶ事はできない。それまでに進展をしたかった。今のままでは、ただ付き合っているだけの関係だ。その先に行きたい。心臓がせわしないほど拍動を打ち続ける。心が潮騒のように手の指をざわつかせる。この冬に何とかしないと本当に遊び仲間で、終わる。
「あのさ、キスしようって思ったことある? その、僕と」
「ええ? 今さら?」
切り出し方も下手で、風情も何もない。げらげらと笑いながら断る亜貴姉ちゃんを真剣に説得し、滑稽だな、などと思いつつ言葉を弄する。風体よりも欲が勝った。
「んー、そうだな。ちょい待ち」
突如、視界が暗闇に包まれる。顔に当たる弾力からそれが彼女の両手だと気付いた瞬間、僕の頬に熱が宿った。柔らかく、湿度を伴って体温を直に感じる。ほう、と吐息が耳に届き、心臓が跳ねた。
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