心酔

煙 亜月

心酔




「おかえり、待ってたよ」

 脱走した犬が長旅を終え帰ってきた時のように、もしくは去年枯れた花壇が芽吹いた時のように、とにかくそんなものを覗き込むように亜貴姉はいった。別に嬉しくはない。ただその再会は読まれていた。でも、少しは嬉しがってたらいいなとも思った。前のように頭を撫でられるほどの精神年齢ではないのだから。


 恋愛? 恋と、愛? いや、違うな。

 当時身を焦がれた初恋をいまも消し止められずにいるばかりか、その小さな火種を懐炉にして暖を取っている、とでもいおうか。


 執着。

 愛着、粘着とも違うこの二文字に僕はきょうこの日まで縛れられていた。いや、その束縛は自分自身から発せられたものだろうけれども。


「やっぱり来たね」亜貴姉はくすくすと笑う。アッシュグレーに染めたウルフカットを揺らせる都会の風もまた、彼女にとってはアクセサリーの一部なんだ。だって、僕の猫っ毛はいつも寝るかはねてるかして主人の見た目を悪くすることが大好きなようだから。彼女にとっては間抜け面のボーイフレンドもタクシーのクラクションも、手のひらを上に向けて『こっち来て』とサインするのも、すべて洗練されたアクセサリー。

 きれいだな。

 そう思った。


 ときに、初恋は実らない。だから大なり小なり、世の人びともこの香りを経験したんじゃないだろうか。実った後は、腐るか枯れるかだ。中途半端な状態を完熟と呼ぶなら、僕はその果実に酔い続けているのだ。



 気づけば亜貴姉は僕のすぐそばにいた。雛が浮かして初めて見た動くものを親鳥と認識するように、初めて意識した異性を好きになった。それが亜貴姉だ。


 ちょっと懐かしい記憶がある。今では思い出というべきなのだろうか。学童保育の教室と遊び場を兼ねた空間に夕陽が差し込んでいた。憶えている。初夏のあの夕陽。周りじゅうの存在——埃や、机、椅子、黒板、足踏みオルガン、下駄箱、ランドセル、亜貴姉と僕——を照らしている。繊細に揺れる長い黒髪、細い体、笑うと左にだけできるえくぼ。


「ね、見てて」退屈を持て余したのだろう、亜貴姉はそういい、教室の暗幕をばっ、と大きくゆすると同時に手早くしゃっ、と閉める。「上、見て!」いうまま見上げると、カーテンレールの上のわずか隙間から星くずが流れるように、埃がきらめいていた。その帯は幅にしてほんの一〇㎝程度。見る世界がいちいち初めてな僕の心を揺らすにはじゅうぶんだった。


 いつから亜貴姉を特別な存在だと認識したのか——思うに、この初夏のころからだろう。


「ね、ここで見てて。そう——ずっとね」亜貴姉は僕に暗幕の近くに位置取らせる。


 閉じられた暗幕の隙間から洩れて教室へ入る陽光の向こうから、亜貴姉はこちらへ歩んでくる。二枚の暗幕と暗幕のあいだ、ほんの少しのあいだを通る亜貴姉は、漏れ出るめいっぱいの西陽と星の瞬きを浴びて黒髪、まつげ、幼いながらも整った顔立ちが強く——苛烈なまでに光を浴び、すぐに暗転する。亜貴姉はまた星の裏へ入る。


「どうだった? きれいだったでしょ」


 きれいだった。でもそうはいえず、うーん、とか、まあ、とかはっきりしない相槌を打っただけだったと記憶している。

「照れんなよ、低学年ちゃん」


 それでも勇敢に、というか蛮勇で亜貴姉に思いの丈を打ち明けたことがある。

「えっ、そうなの? えー、あたし気づかなかった。でもごめんね? ほかに好きなひと、いるから、さ」


 恋も愛も、愛着も執着も、駆け引きもダンスの始め方も、何も知らないで告白したのだ。そんな非礼を彼女は笑っていなし、僕の初恋は幕引きとなった——とりあえずは。


「まあでも、友達からなら、いいけど?」


 そう顎に人差し指を宛て上を見るしぐさをする。視線を元に戻すと「じゃあ、好きにならせてよ。そしたら、ね」と、流行りのドラマで聞きかじったようなことをいった。


 初めての恋と初めての失恋だった。まだ恋も何も、ろくに分かってすらいなかった僕は、緩徐の提案を嬉々として呑みこそすれ、断るだけの理由は思いつかなかった。

 彼女が自分の家からさして遠くない場所に住んでいることを知ったのは、揃って各々の母親と連れられて行ったスーパーの店内だった。親同士が当りさわりのない挨拶を交わしていた時、亜貴姉と僕はすでにお互いの住所と最寄りの公園の場所まで交換していた(もっとも、住所の暗記などできなかったけれど)。


 僕と彼女——亜貴姉ちゃんとの出会いはそんなきっかけで、七歳の自分にとって二学年の差はとても深かった。


 中学年である彼女は学童でも年長に近かった。高学年ともなると自分で鍵を持ち、留守番する子も増えるからだ。

 初めて家に遊びに行った日。確か日曜だったと思うけど、親の仕事の都合で家には彼女だけだった。「いいもん見せてあげよっか」


 そういうと、亜貴姉は引き出しから東京ばな奈のように区分けされた菓子箱を取り出し、僕に嬉々としてそれを見せてくる。仕切りの中、そのさらに内側にカラフルな折り紙で折られた小さな箱がある。学校で見たことはあるが何べんやっても折り方が分からないあの箱だ。そこに入った大きな綿毛のような物体は、彼女曰く、ケセランパサランという名らしい。生き物? 当時の僕には少しおそろしいもののように見えた。だって、亜貴姉ちゃんには似合わないよ。当の亜貴姉ちゃんは近くの神社で集めたというそれにおしろいの餌を与え、あふれたおしろいで箱の底は白く染まっていた。


「誰かにバレたら幸運になれないんだって。だからあたしとハル君にだけの内緒ね? ハル君、なんか叶えたいこととかある?」

「え、あ——亜貴姉ちゃんと一緒に歩きたい、かも」

「えー、なにそれ。そんなのあたしが毎日押すのに。それじゃ、あたしはお金持ち!!」


 生まれつき自分の足が満足に動かないことにコンプレックスを抱いたのは、誰かと触れ合うようになったからだろうか。部屋の中で本を読むことが娯楽だった僕にとって、外を駆け回る彼女の脚は羨望の対象だった。いや、母さんもいってる。ひとはひと、僕は僕。おなかの真ん中あたりにできた強い陰圧のような悪い考えは捨てるべきだ。



 そういえばこのころからポストの中を見るのが楽しみになっていた。ぎゅうぎゅうに詰まったコスモス。ある日は煌めく星を覗くような万華鏡。両親は「これ、何? っていうか、誰?」と質すが、僕は満面の笑みを隠せなかった。自らの眼で見た綺麗な品々は僕からは遠い場所のものだ。それらを亜貴姉は僕に見せようと、集めて持ってきてくれている。彼女は部屋の中の閉じこもりがちな僕に外の世界を知らせる。


 彼女は、ただ自分の持っている物を自慢したいだけだ。そう思うことも確かにある。それでも、ずっとずっと続く「手紙」が僕はとても楽しみだった。この「手紙」を誰彼構わず送っているとは考えられず、僕の小さな心を一杯にするに十分だった。「手紙」が僕に向けられている限り、彼女のことを好きでいるのだろう。恋というものを徐々に理解していくにつれ、そんなことを思った。


 彼女自身の好きな男子に対する感情は、季節が巡るたびに落ち着いていった。それに反比例するかのように、僕の感情は風船のようにふくらみ続けている。


 家の近所の遊び場など田園の傍に伸びる農道や手入れされていない広場しかなく、僕たちは狭い農道を駆け抜けるように走る。車椅子のタイヤが舗装されていない畦道に轍を刻み、九月の空はどこまでも高い。


「どうよ!」

「すっげー、はっや!」


 後ろのハンドルを握る彼女の息遣いを耳元で感じながら、僕は彼女と同じ速さで同じ景色、同じ時間を走っていることに喜びを覚える。流れ続ける用水路のせせらぎさえ邪魔で、周りには誰もいない。ふざけてスピードを上げようとする亜貴姉ちゃんと一緒ならどんなところへでも行けそうだった。顔や腕、全身をなびかせる風が胸を満たす。


 狭い田舎も、動かない足も、ずっと嫌いだった。どこにも行けない自分が嫌いだった。僕が行ける世界と行けない世界には大きな隔たりがあって、周りと同じように動けないことへの鬱屈や焦りが耳鳴りのように止まない。


 それでも。彼女と駆けている時間だけはこの景色も、動かない足も悪くないと思えた。


 僕は高揚のままに頭を振り、身体を動かす。小高い畦道に乗っていた前輪が浮き上がり、車椅子はバランスを崩した。亜貴姉ちゃんは僕の身体を抱いてなんとか体勢を立て直す。


 彼女の荒い息遣いが頬にかかる。ふわっ、となにか、これまで嗅いだことのないいい匂いがした。


「大丈夫かー?」

「ご、ごめん、はしゃぎすぎた」


 亜貴姉ちゃんが僕を覗き込んでいる。ゆるやかな晩夏の風は彼女の髪を揺らし、前髪は額に張り付いている。午後の太陽が彼女を後光めいて照らす。


 僕はこの人のことが好きだ。何度も繰り返した結論を再認識する。


 その帰り道、二度目の告白に否定でも肯定でもない回答が返ってきたのは、僕が一〇歳、彼女が十二歳の時だ。

 彼女なりの気づかいか、このときからか外での遊びをぱったりとしなくなった。



 僕が十四歳の夏だっただろうか。僕は中学生だったけれど亜貴姉ちゃんはもう高校生だった。


「ハル、もう一戦! 次こそアイスクライマーで勝つ!!」

「次で決着ね。ネス使っていい?」


 その頃の僕らの娯楽は外で遊ぶことよりもエアコンの効いた部屋でやるスマブラで、実力差は拮抗していた。


 一〇年間育てた初恋を、未だ放流できずにいた。ただ肩書きが変わっただけの関係値に妙に固執していたのは僕で、爆発しそうな思春期の情動を制御するには時間をかけすぎた。そして、何より焦りを感じていた。


「わかった、じゃあ次で決着つけよう。その代わり、一つお願いあるんだけどいい?」

「ハルがあたしに? 珍しいじゃん。どした?」

「そろそろ告白OKしてくれない?


 彼女の肩が震える。僕の二の腕を無言で軽く小突くと、コントローラーを強く握った。


「真剣勝負ね。お互い手を抜かない!」


 集中して、圧勝した。「アイテム運だって!!」という抗弁を無視し、僕は視線をテレビから亜貴姉ちゃんの顔へ移す。


 家族は皆外出していて、今この場にいるのは僕たちふたりと飼っているハムスターくらいだ。僕の熱を察してか、小さなジャンガリアンは回し車をひたすら回転させている。ホイールが空回りする音と、弱風のクーラーが立てる駆動音。僕はコントローラーを手から離すと、沈黙を誤魔化すために麦茶を一口飲んだ。


「さすがに三回目にもなったら、ちゃんと答えは聞かせてほしいんだよね」

「三回も告白されたっけ。懲りないねえ、ハルも」

「割とお互い様じゃない? 助かるけど」


 既に彼女の背は抜いていた。お互いに小柄な方だが、改めて見ると彼女の身体は随分と小さい。それでも、一度立ち上がれば彼女は僕を見下ろせる。当時の僕たちの関係性も、丁度そんな感じだ。


「あなたのことが好きです。これまでも、これからも。僕と、付き合ってください」

「んー。てかこれさあ、関係の呼び方が変わっただけじゃない? OKしても、断っても、二週間くらい経ったらまた一緒に遊んでるんだし」

「じゃあ断る理由なくない?」

「ま、それもそうか。わかったよ。じゃ、それで。どうせ、やる事は何も変わらないでしょ」


『じゃ、それで』。彼女の答えだった。


 受け入れられた実感は後からやってくる。意を決した告白そのものに対する回答は煙に巻き、彼女は僕の提案になし崩し的に従った。今の関係性に別の名前が加わっただけの、そんな進歩。その小さな変化が、僕にはえらく大きなものに思えたのだ。


「守る」や「幸せにする」なんてご大層な言葉は嘘になってしまうからいえなかったし、いっても気持ち悪がられるだけだろう。ただ一緒に遊ぶ日常が続いていくだけで、そのうち何かの変化を起こしていけばいい。今の僕の臆病さならそんなことをいえていたかもしれないが、当時の僕はそう思わなかった。


 恋人という言葉の持つ特権的な意識に囚われて、変化を求めてしまった。

 愛されたかった。誰でもいいって訳じゃない。亜貴姉に愛されたかった。

 自分が向けている想いに釣り合うほどの愛を返してほしかった。それは僕にとっては言葉で、行動で、自らの想いを正当化することだった。


 それから一年経った。

 僕たちの関係は何も変わらなかった。当時の僕がそれを良しとしているわけがなく、何度もアプローチを繰り返し、その度に笑顔を向けられ続けていた。相手から「好き」という言葉を引き出そうとしては「嫌いじゃないってだけ」と返され、告白をやんわりといなす語彙がこんなにもあるのかと感心するくらいだった。


 今思えばそれは戯れあいだったのかもしれないが、十五歳の僕は真剣に彼女からのアプローチを求めていた。スキンシップは取るし、物理的な距離では隣にいる。それでも、心の距離は縮んでいない気がしたのだ。


 季節が巡り、春が来て、僕は地元から離れることになった。週に一回は実家に帰ってくるが、今までのように頻繁に遊ぶ事はできない。それまでに進展をしたかった。今のままでは、ただ付き合っているだけの関係だ。その先に行きたい。心臓がせわしないほど拍動を打ち続ける。心が潮騒のように手の指をざわつかせる。この冬に何とかしないと本当に遊び仲間で、終わる。


「あのさ、キスしようって思ったことある? その、僕と」

「ええ? 今さら?」


 切り出し方も下手で、風情も何もない。げらげらと笑いながら断る亜貴姉ちゃんを真剣に説得し、滑稽だな、などと思いつつ言葉を弄する。風体よりも欲が勝った。


「んー、そうだな。ちょい待ち」

 突如、視界が暗闇に包まれる。顔に当たる弾力からそれが彼女の両手だと気付いた瞬間、僕の頬に熱が宿った。柔らかく、湿度を伴って体温を直に感じる。ほう、と吐息が耳に届き、心臓が跳ねた。


「そこ、唇?」

「今はこれで我慢して、ハル」


 今でも詳細に思い出せるほどには記憶に焼き付いて離れないのだろう。視界を奪われ、一瞬のうちに頬にキスをされる。主導権を相手に委ねる感覚が妙に癖になった。


 目隠しを外された瞬間、彼女は目を伏せ、それきり静かになる。


「あのー、なんで?」

「これ以上は責任取れない」


 彼女の言う責任が何を指すのか、今なら何となく理解できる気がする。あの頃の僕たちは大人と子どもの狭間にあって、二歳の差はまだ大きかった。亜貴姉ちゃんが抱いている、十八歳の価値観で果たせる精一杯の正義だったのかもしれない。それと同時に、彼女なりのリードだった。わがままな僕への牽制球だった。


 その後も『責任』という言葉が脳に焼き付いて離れなかった。時折僕の頭を撫でるような仕草も、僕の重すぎる愛を躱しながら付き合いだけは続けていく態度も、『責任』が付随しているのか。だとしたら、僕は彼女に遠慮をさせているのか? あのキスはやむに已まれぬご褒美で、それ以上の感情は無いのか?


 今までやってきたことが自分を蝕み、僕はそこから逃避するかのように選択肢を誤った。


 直接的に愛を告げる人を選んでしまった。



 住んでいた街を出れば、世界は急速に広がっていく。元来の人見知りだった僕は同級生となかなか打ち解けられず、買ったばかりのスマホからインターネットで孤独を癒していた。現実世界が狭くても、SNSなら色々な人の様子を観察できる。昔亜貴姉ちゃんに描いてもらった絵をアイコンに、僕は色々な人と交流していた。


 タイムラインを流れ過ぎていく人たちは大体が僕よりもずっと歳上で、深夜になれば恋バナや日常の愚痴などで盛り上がっている。その中で出会った僕より一歳上の女子は、言葉の端々に淋しさを漂わせていた。


 亜貴姉ちゃんなら関心を持たずに放り投げるような事象を、彼女は真面目に受け止めていた。家族と喧嘩したこと、テストが上手くいかなかったこと、バイト終わりに食べたラーメンが格別に美味しいこと。それまでの狭い世界では仲良くなることもなかった等身大の女子だ。


 画面上で、テキストコミュニケーションで、繋がっている気がした。僕が積極的に話しかけていくと、彼女はすぐに反応を返す。冗談混じりの好意を伝えるメッセージを何度か繰り返していると、返信に湿度が増した気がした。


 ふたりがタイムライン上でも冗談半分でカップルのように扱われだしたころ、僕は彼女の非公開のアカウントにフォローされた。相互フォロワーの少ないそのアカウントには、彼女が赤裸々に自らの淋しさを吐露していた。自己紹介欄に書かれた〈処女は大切な人にあげたい〉という文字列を眺め、僕は亜貴姉ちゃんからもらったアイコンを変更した。


 連絡先を交換して、互いに自撮りを送り合う。カメラアプリで流行っているフィルターに覆われてはいるが、可愛い子だ。ただ、会うには新幹線だな。それでも、お互いの近況報告をチャット上で毎日繰り返していた。


 部屋の写真に映り込む大量のシナモロールのぬいぐるみ。ヘッダー画像通りだけど、左右反転もモノクロ加工もされていないシャニマスのタペストリー。あまりにも縁遠い等身大の生きている女子の匂いにむせ返りそうになりながら、僕はふと亜貴姉ちゃんのことを思い出す。


 その子とはただの友達で、亜貴姉ちゃんは恋人だ。そんな言い訳に意味がないことは内心わかっていて、僕は揺れつつある心を騙し切ることができなかった。


 亜貴姉ちゃんに「他に好きな人ができた」と言ったのは、十六歳の秋だ。


『会ったことないんでしょ?』

 ——それでも、毎日やり取りはしてる。

『悪いけどアンタがこんな可愛い子と付き合えるわけないって』

 ——こんなに好きでいてくれてるのに?

『はあ? 絶対騙されてる!』

 ——あの子はそんなことする子じゃない。


 数日後、僕はその女子に告白した。自分は愛されているという自負と根拠のない自信で武装して、その子から貰った言葉で勇気を振り絞って。放った言葉は、一往復の困惑の後に、届いた。


『遠距離だけど、それでもいいなら。幸せにしてください』


 愛することも、愛されることも亜貴姉のような魅力や力、アドバンテージ、経験なんて必要ないんだ。

 僕は有頂天だった。彼女の寂しさに寄り添って、大切にしないといけない。「守る」や「幸せにする」なんておとぎ話のような言葉を入力し、その都度僕の頬はたるんでいった。僕には愛されるだけの力があって、こんな風に進展させることだってできる。


 恋人としてのやり取りは濃密で、時間の感覚を忘れるほどだ。それがピタリと止まったのは告白から一ヶ月後、クリスマス前の夜だった。



 音信不通の期間は二週間だったが、僕にはその時間が永遠に思えた。それまで毎日やり取りをしていた相手から急に連絡が止まったのだ。フォローしている彼女のアカウントに更新はなく、送ったメッセージは既読すらつかない。直接顔を合わせない関係性は想像以上に希薄で、力強く構えていられるほど強くは居られなかった。毎日スタンプを送っては返信の確認を行い、その都度落胆する。


 だから、返信が来た時に最初に浮かんだのは安堵だった。通知の数字が四つ増えているのを確認し、安心感と共にトーク画面を開く。


 直後に来たのは衝撃で、その後に来たのは、意味がわからない、という感情だった。


 別れを告げる長文だ。三週間前に同じクラスの男子に誘われ、一晩を明かしたこと。最初は断ろうとしたが、なし崩し的にいい寄られる内にその人のことを好きになってしまったこと。その人に処女を捧げたこと。文章の締めには、「遥人くんがどれだけ私のことを好きかはわからないけど、実はね」という文言から始まる言葉を拾うにつれ、僕の顔から表情がなくなる。。


 謝罪の形を成していたが、そこに僕への想いが残っていないことは明白だった。何より、僕は彼女にとっての“大切な人”になり得なかったのだ。僕の感情は、何も伝わっていなかった。


 震える指で「友達に戻ろうか?」と打ち込み、吐きそうになる。こんな時でも嫌われまいと、消極的選択を取ってしまう。口汚く罵って関係を切ってしまえば楽なのに、混乱していた頭はまだ関係を続けることを願い続けている。


 SNSを開く気力もなかった。見知ったフォロワーに別れた理由を連絡してひとしきり愚痴を吐くことも考えたが、タイムラインを見るたびに気分が落ちる。スマホの電源を落とそうとした瞬間、通知欄に残った新着メールが目に留まる。亜貴姉ちゃんだ。


 今思えば、これは最低の行為だ。身勝手に関係を終えた相手に、もう一度連絡するなんて。あまりにも独りよがりで無様だ。


 それでも、僕はすがってしまった。襲ってきた現実に耐えられなくて、安心できる場所を求めた。どんな反応でもいい。幻滅してくれ、怒ってくれ。最低だとなじってくれ。そうしないと、捨て鉢の感情が向かう先がなかった。


 ——浮気されて、フラれた

『だから言ったじゃん!』

 ——ごめん、その、本当にごめん、亜貴姉ちゃんのいうとおりだったよ


 普段なら僕の不幸話をケラケラと笑いながら聴いている亜貴姉ちゃんが、この日だけは真剣だった。僕が壁か天井に向って話しても同じくらいな低レベルな言葉に寄り添って、『もう、それ以上はやめといた方がいいよー』という言葉を静かに返した。僕とあの子の——学生の性交渉——は、彼女からすると、これも彼女の定めるところの「責任」から外れる行動だったらしい。


 別の人を好きになってしまったのは僕も同じなのに。同じ気分を亜貴姉ちゃんが味わっていてもおかしくないのに。普段顔を合わせて話す分、文章から彼女の気持ちを読み取るのが難しかった。


『沈むなよ、時間経てば絶対笑い話になる! 元気出せ!』


 二ヶ月前に別れを切り出したのは僕だ。彼女の忠告を無視して突っ走っていったのも僕だ。それなのに、亜貴姉ちゃんは僕を嫌わない。長年の関係を裏切ってしまったのに。それに対し僕はまるで不思議に思わない。僕は、彼女がいることに安心しきっていた。それでも、構わなかった。今はその安心にひたらせて欲しかった。

 自己嫌悪で心が軋んでいた。頭と心が別の方向を向いていた。


 これでは恥知らずと笑われても不思議ではない。僕が次のメールを打ち込みながらひどい胸やけを感じているさなかに、彼女から届いた2通目のメールは短かった。


『おかえり、待ってたよ』


 自由を得たつもりだった。責任から逃避して、自分を直接的に愛してくれる人を求めて。焦りも否定できない。手を伸ばしても届かない存在に身を乗り出して、ずっと身を守っていた鎖の存在に気付かなかった。この首輪は、まだ外すべきでは無かったのかもしれない。


「やり直そう」という言葉を亜貴姉ちゃんに告げたのは、それか一週間もしないうちだった。


「それって、付き合ってる意味あんの?」


 女友達にいわれた言葉に反論しようとして、僕は自らの記憶を思い起こす。既に僕は成人を済ませ、大学生としての日常を謳歌していた。


「いや、ずっと一緒にいるし、僕はまだ好きだし」

「本当に好きなの? その、置いてきた彼女さん的に」


 夕方過ぎのカラオケボックス。フリータイムで歌い疲れた僕は、友達の言葉から露骨に目を逸らす。


「君のそれはさ、愛というよりは崇拝なんだよ。話聞いた限り、その子、めっちゃ塩対応だよ?」

「でも、ちゃんと構ってくれるし」

「うちにいわせると、君のそれは呪いだよ。その子のためにもならない。他を探したほうがいいと思う」


 手厳しいな。僕はそう思いながら、亜貴姉ちゃんとやり直してからの三年間を思い返す。


 あれから僕たちの関係は何も変わらず、僕は派手なアプローチをするのをやめた。僕の好意を受け入れるような女性が、あの日の元カノのように突如として音信不通になるのが怖かったのだ。それに、亜貴姉ちゃんに対する罪悪感がまだ癒えることはなかった。


 彼女の成人を境に、亜貴姉ちゃんは僕のことを周囲に『彼氏』として紹介するようになった。それまでは僕と付き合っていることすら内緒にしていたようで、それが恐らく彼女なりの思いやり——換言すれば、責任——だったのだろう。


 彼女の僕への呼び方が変わっても、関係性は何も変わらない。長い付き合いは関係を固定させ、錆び付かせてしまった。


「何年付き合ってるんだっけ?」

「あー。五年くらい」

「五年でキスすらしてないのは、もう無理だって。諦めなよ」


 崇拝。


 僕が亜貴姉ちゃんに抱く感情は、恋慕ではなかったのだろうか? 彼女の方を向いていれば楽しくて、彼女に従っていれば幸せだった。それが初恋の呪いなら、僕はどうしようもなく強い呪詛を掛けられている。あの日、暗幕から通り抜けてきた彼女は、それから何度も何度も僕の足を釘づけにしている。


 大学生になると同時に街の外へ頻繁に出るようになり、自発的に移動する機会も増えた。あの日の憧れさえも追い越し、田舎の景色を眺める時間も徐々に減っていく。もう子供では居られない、心がそう告げている。


 ヒトが大人になるのは、何かを受け容れた時なのかもしれない。動かない足へのコンプレックスは自分の中で少しずつ収まっていたが、それでも未だに「亜貴姉ちゃん以外に愛してくれ得るのか」という不安が顕在化している。亜貴姉ちゃんは僕を赦し、認め、抱擁してくれた。それでも前に進むしかない。歩くようなスピードでも、どんなに追い越されようとも、その焦りも不安も突破しなくてはならない。


 ——わかっている。ハムスターの回し車のように同じところをぐるぐると回り続けている。自己暗示めいて何度も繰り返し、僕はひとつの結論を出した。


 亜貴姉ちゃんの返事はひどく単純で、思わず拍子抜けした。


『そっかー、やっと解放されるんだ! もう帰ってくるなよ?』


 僕のこと捨て犬だと思ってた?


 それから何度かの片思いや恋愛を挟み、僕は今もひとりだ。花壇のしおれた花に水をやるように記憶に残っては、それでもまだ種を蒔いている。この世界には亜貴姉ちゃんより相性がいい人などいくらでも居て、まだ巡り会えていないのかもしれない。おそらく、それは事実なのだろう。


 失恋が永遠の別れになんてならないのが現実だ。窓から外を眺めれば、通勤途中の彼女が自転車で目の前を通り過ぎていく。お互いに気恥ずかしくて声は掛けないが、それが日常の風景になっている。

『だから〈BIG LOVE〉って返した!』

『あんた、また浮き足立ってない?』

『僕は学習する男だぜ? 次は大丈夫だって!』

『そういう時の遥人が一番怖いんだってゆーてんのによー』

 半年に一度ほど、急に思い立ってメールのやりとりをする。亜貴姉ちゃんは未だにスマホに変えていないようだ。お互いに恋愛感情はほとんどなく、純粋に、気楽に話し合える関係性になっていた。


 まだ付き合っていた頃の亜貴姉ちゃんに貰ったポストカードが、本棚の隅で埃をかぶっている。溶けた時計が特徴的なその絵画は、『記憶の固執』という題名だ。妙に頭に残る、好きなタイトルだった。

 固執した時間と記憶はいつか地に溶け、栄養に変わるのだろうか。枯れない花も、腐らない実も、記憶から消えれば全て嘘になるのだろうか。


 自分を呪っていたのは自分自身だ。それは重々承知しているが、まだ解けていない物もあるのだろう。十八年の恋は僕を救い、苦しめ、消えない痕を刻んだ。亜貴姉ちゃんの面影を振り切れる時は来るのだろうか、と今でも思う。

 亜貴姉ちゃんが僕のわがままを受け入れて理由は、未だにわからない。恋心なのか、責任なのか、惰性なのか。考えても仕方ないことなのかもしれない。

 五年前だと出来なかった事がひとつだけ残っていた。いつかふたりで酒を飲んで、あの日の話でもしよう。

 僕たちはもう、誰にも縛られていないのだから。


<了>

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

心酔 煙 亜月 @reunionest

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画