第28話 落涙

 侯爵邸にたどり着き別邸の前で馬を降りると、二人は邸内へと入った。しかし、その廊下は静まり返っており人通りもない。

 嫌な予感とともにフィアルカの部屋の扉を開けると、レダがフィアルカの足元で泣き崩れていた。枕元に立ったソコルと医者らしき男性が、はっとした様子でヴォルクを振り返る。


「旦那様――」


「伯母、上……」


 ソコルが目を閉じゆっくりと首を振る。ケイは部屋の入り口で、その場にへたり込んだ。


(間に…合わなかった……)


 ヴォルクがフィアルカへと近付く。枕元に立ち、動かなくなったその痩せた左手に触れるとぽつりとつぶやいた。


「まだ、温かい……」


「はい。一刻前まではなんとか持ちこたえていたのですが、そのまま眠るように――。最期は穏やかで、お苦しみの様子ではありませんでした」


「そうか。そうか……。……皆、ご苦労だった」


 医者から説明を受け、ヴォルクが使用人たちをねぎらう。手を小さく動かし小声で祈りを捧げると、振り返ってケイを呼んだ。


「ケイ。……来なさい」


「は、はい」


 室内に控えていたラスタに支えられて立ち上がると、ケイはフィアルカに近寄った。覚悟を決めてその顔を見ると、ケイが出立前の最後に目にした苦渋に満ちた表情ではなく、穏やかな、眠っているような表情をしていた。

 手に触れると、ヴォルクが言ったようにまだほんのりと温かい。いまだ体に残るそのぬくもりに胸から感情が突き上げ、ケイは押し出されるように口を開いた。


「申し訳……っ、ありません……! 私が、もっと早く向かっていれば――!」


 ケイの叫びにヴォルクが驚いたように振り向く。ケイはフィアルカの手を握りしめて震えながら続けた。


「あと少しだったのに……! 私が、もっと早く気付いていれば――!」


 そういえば、数日前からフィアルカの足がむくんでいた。苦しそうではなかったが、他に何か予兆はなかったか? そもそも、もう少し早く起こしに行けば間に合ったのではないか――?

 己の行動を振り返って震えるケイに、ヴォルクはゆっくりと首を振った。


「そなたが謝る必要など、どこにもない。これが伯母の天命だったのだ。そなたが呼びに来てくれたからこそ、こうしてまだ温かいうちに見送ることができた。感謝しこそすれ、責める気持ちなど毛頭ない」


「……っ」


「どのみち、助かりはしなかった。……そうだろう?」


「……はい。よく持ちこたえられたと思います」


 医者に再度確認を取り、ヴォルクがケイの肩に手を添える。握ったままだったフィアルカの手をゆっくりと離させると、ヴォルクはケイと、居並ぶ使用人たちに落ち着いた声で告げた。


「そなたたちの尽力のおかげで、伯母が穏やかな旅立ちを迎えられたことに感謝する。あとはその魂が安らかに眠れるよう、弔いの準備をしよう」






 ひどい顔色をしているとラスタに言われ、それからケイは別室で休みを取らされた。

 朝からの出来事で疲れきっていたためいつの間にか眠ってしまい、気付いたときには夕刻に差し掛かっていた。廊下に出ると、歩いてきたラスタに遭遇する。


「ごめん、任せちゃって。……寝てた」


「いいわよ。食事置いといたけど、食べた?」


「うん。ずいぶん静かだけど、みんなは?」


「諸々終わってそれぞれの持ち場に帰ったわ。ソコルさんは各方面へのご対応。侯爵様は……お一人で中に」


 ちら、とフィアルカの部屋の扉に視線を向け、ラスタが息を吐く。そして思い出したように、手に持ったトレイをケイに手渡した。


「うわっ。……お茶?」


「あれから何も食べてらっしゃらないのよ。食事もいらないっておっしゃるし。ちょうどいいから、お茶だけでもあんた持ってってよ」


「えっ。こういうときは、レダさんとかのほうがいいんじゃない?」


「泣き崩れちゃって今は無理よ。フィアルカ様との付き合いも長いんだから仕方ないでしょ」


 小声で問答すると、ラスタはずいっとトレイをケイに押し付けた。


「あんたが連れ帰ってきたんだから、あんたが面倒見なさいよね。あたし、他の仕事残ってるから。じゃあね〜」


「ええー……」




 押し付けられては断る理由もなく、ケイは控えめに扉をノックした。応える声はなく、そろそろと扉を開くと室内に入る。

 そこで目に入った、夕陽に照らされた光景にケイは思わず息を呑んだ。


 フィアルカは、すでにベッドの上にはいなかった。木製の重厚な棺へと移され、その上には掛け布とグラースが持ってきたのだろう、薔薇の花束が乗っていた。その前で、ヴォルクが椅子に腰掛け目を閉じて祈りを捧げていた。


「……ケイか」


「はい……。お邪魔してすみません」

 

 目を開けたヴォルクに振り返らないまま問われ、ケイは静かにその背に近付いた。サイドテーブルにティーカップを置くと、ポットに入った茶を注ぐ。

 良い香りのする、リラックス効果のあるハーブティーだ。ラスタのチョイスが素晴らしい。


「どうぞ。……あの、少しでも飲んだほうがいいですよ。お菓子もお持ちしましたから」


「……ああ」


 促すと、カップにヴォルクが口をつけた。それに少しほっとして退出しようとすると、背後から声がかけられる。


「ケイ。……そこにいろ」


「え――」


「……行くな」


 ヴォルクは相変わらず背を向けたままだった。彼から初めて与えられた、命令――と呼ぶには切実な響きに、ケイは迷ったがその場に留まった。

 入り口に置かれた椅子に腰掛けると、いつも通り広いながらも、寂しげに見える背中に呼びかけた。



「あの……すみませんでした」


「……何がだ? 臨終に間に合わなかったことなら、先ほども――」


「それもありますけど、色々……勝手をして。ソコルさんに逆らいましたし、王様やお城の方にも悪い印象を与えたかもしれません」


 ケイはケイの判断で動いたが、それがこの世界の常識に沿うものだとは思っていなかった。そこに触れると、ヴォルクはゆっくりと首を振る。


「先ほど、陛下から弔辞が送られてきた。私とそなたを気遣う文面だった。落ち着いたら、改めてそなたと話をしたいと記してあったぞ」


「そうですか……。お怒りじゃなくて良かったです」


 ヴォルクが少し背を伸ばし、すでに蓋の閉じられた棺に目をやった。そして自分の手に視線を落とし、ケイを見ないまま告げる。


「死の前後に立ち会えないことについて、今まで特に気にしたこともなかったが……まだ温かいうちに会うことができて、良かったと思う。伯母の体が徐々に冷たくなっていくのを感じて、なんというか……彼女の死に対する実感が伴った気がする。腑に落ちた、と言うべきか」


「…………」


「前妻のときは、知らせを受けて帰宅したらすでに冷たくなっていたのでな。突如して降って湧いたようで、受け止めるのに時間がかかった」


「っ……。そう…ですか」


 ふいに告げられたエピソードに、ケイの胸がずきりと痛んだ。以前見てしまったヴォルクの「妻」の顔を思い出す。

 ヴォルクは少し沈黙すると、ケイに背を向けたまま淡々と語った。


「伯母は……気遣いにあふれた人だった。いつも自分のことは後回しで、父や私のことを案じて……贅沢もせず、慎ましい人生を送った」


「……はい」


「私は、前妻と不仲でな……。政略結婚だったゆえ仕方のない部分もあったが、反りが合わず、ぎくしゃくしていたのを間に入って仲裁してくれて――。結局、妻が死ぬまで分かり合えることはなかったが、伯母がいなければ関係はもっと破綻していただろうな」


「……っ。そう、だったんですか……?」


 滔々と語られた過去に、ケイは目を見開いた。

 まさか、不仲だったなんて思いもしなかった。ヴォルクはふ、と小さく笑うとゆっくりとうなずいた。


「前妻が死んだとき、私はグラキエスの侵攻の事後処理に追われていて、ろくに屋敷に帰る時間もなかった。結局、葬儀の段取りは伯母に任せきりで――彼女も前年に夫を看取ったばかりだったのに、つらい役目を負わせてしまった」


「でも……フィアルカ様は、ヴォルクさんの役に立てて嬉しかった部分もあると思いますよ」


「そうだろうか。多少なりとも、そうであれば良いが……。だが、伯母が病を得てからは、引き取りはしたものの寄り添ってやることはできず……孤独な想いをさせた」


「……っ」


「伯母は……幸福だったのだろうか。幼子に先立たれ、夫に先立たれ、晩年は孤独に過ごし――。与えられた慈しみに、私は何も返してやることができなかった」


「そんなことありません……!」


 うなだれる広い背中に、ケイは思わず駆け寄っていた。その背に手を添えると膝をつき、うつむくヴォルクを下から見上げる。


「フィアルカ様、いつも『ヴォルク』って呼んでました。ヴォルクさんが薔薇園で車椅子を押してくれたときなんて、あんなに嬉しそうだったじゃないですか! 何も返してないなんて、そんなことはない!」


「…………」


「それに、私にもココがいるから分かります。自分のお子さんを小さなときに亡くされて、そんな中で、ヴォルクさんが産まれて目の前ですくすく育って、それがどれだけあの方の救いになったか……! 恩なんて、とっくに返してるんですよ。ヴォルクさんが立派に成人されて、自分を思いやるようにまでなってくれた。それだけでもう、十分なんですよ……!」


 言っているうちに感情が昂ぶり、最後は叩きつけるような口調になった。

 ヴォルクが目を見開いてケイを見つめる。それを至近距離から見つめ返し、ケイは眉を歪めた。


「孤独だったなんて、言わないで……。ヴォルクさんが言ったんですよ。穏やかに旅立ったって。フィアルカ様は幸せだった、皆に見送られて孤独ではなかった。遺された私たちがそう思わないと、彼女の人生は本当に『孤独』になってしまいます……!」


「……っ」


 ヴォルクが口を覆う。その眉が歪み、目がきつく閉じられた瞬間――ケイの体は引き寄せられた。


「……!」



 ヴォルクが、ケイを抱きすくめた。太い腕に、背筋がしなるほど強く引き付けられる。

 目を見開いたケイは、自分の肩口にパタ…と温かい湿りが落ちたのに気付き動きを止めた。


「ヴォルクさん……」


「……見るな。見ないでくれ……。男が泣くところなど……情けない」


「…………」


 嗚咽も漏らさず、ヴォルクが静かに泣いていた。ただその大きな体がときおり細かく震え、彼の激情を物語る。


 唯一の肉親を喪って、悲嘆に暮れないわけがなかったのだ。ただ、それを見せられる相手がいないだけで。

 強く、地位も人望もあり、なんでも持っていると思っていた相手の孤独な一面に気付き、ケイは胸が締め付けられた。


 今、自分がヴォルクの一番深くて弱いところに触れている。誰よりも近くで、二人きりの部屋で。

 ケイは抱きすくめられたまま手を動かすと、その広い背をそろそろと撫でた。


「男とか女とか……関係ありませんよ。大切な人を喪って泣くのに、男も女も、身分も年齢も関係ないです。元の世界でも、奥さんを亡くしたおじいちゃんがわんわん泣くのとかしょっちゅうでしたし」


「…………」


「でも、ヴォルクさんが見ないでほしいなら……見ません。こうしていれば、見えませんしね」


 腕をもう少し上げて、ケイはヴォルクの背をぎゅっと抱きしめた。彼の体温がじかに感じられるように。自分の体温が彼に移るように。

 そのまま子供をあやすように撫でさすると、ヴォルクが深い息を吐く。


 こんなときに、なのか、こんなときだから、なのか素直に想いが込み上げ、ケイはようやく自覚した。


(好き……。私、ヴォルクさんが好き――。この人のこと、そばで支えたい……)



 ヴォルクの涙が完全に乾くまで、二人は黙って抱き合い続けた。部屋の隅に置かれた、主を喪った車椅子が風もないのにキィ…と鳴った。



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