第6話 新生活
「ケイ、アルルさんの
「終わってるー。あ、ジュレットさんに爪切り頼まれたんだった」
「あたし行ってくるわ。あんた休憩まだでしょ? 今日、紫ツッカのシチューだったから早く食堂行ったほうがいいわよ。あれ美味しいのよ」
「分かった。じゃ、あとよろしくラスタ!」
仕事に就いてから、早くも一週間が過ぎた。ケイは同僚のラスタに仕事を任せ、職員用の食堂に入ると紫色のシチューとパンをもらってほっと一息つく。
カルム養老院で始まった新しい日々は、波乱はありつつもここまでなんとかやってこられた。院長には挨拶が済んでいたため、引っ越しの翌日にはさっそく仕事が始まった。
まずはココを、系列の病院に併設された託児所へ預けるところからだった。
慣らし保育なんて優しいものはない。初日から容赦なくフルタイムで預けることになり、いきなりのハードモードにココの心身が不安になったが、適応力の高い我が子は比較的すんなりと同世代の集団に馴染んでくれた。
それから急いで養老院に向かい、着替えを済ませた。ケイは今、長めのチュニックにパンツという素朴な組み合わせに制服のエプロンをつけている。
どこからどう見ても庶民の出で立ちだが、根っからの庶民なので別に気にしない。動きやすいし、チュニックに施されたこの国独特の刺繍が綺麗なのでむしろ気に入ってるぐらいだ。
そのあとで、同僚たちに紹介をされた。
誰も見たことがない「恵みの者」であることと、管理者であるヴォルク侯爵からの直々の紹介ということで当初はかなりの緊張感と警戒をもって迎えられたが、ケイが入職の経緯と特別扱いは望まないこと、何より経験はあれど特別なことは何もできないことを伝えるとその空気はだいぶ緩んだ。
それからは一週間、早く仕事を覚えようとがむしゃらに働いた。
深皿に盛られた紫色のシチューをつつきながら、ケイは小さく溜息をつく。怪しい色合いをしているが、カボチャ的なもののようだ。ほっこりとした味が美味しい。
(寮が食事付きで本当に助かった……。職場と託児所との往復でもなんとかなったもんね。さすがにまだ買い物や料理に手を出す余裕はない)
仕事を始めるにあたって、ケイは恵みの者として一つだけ注文をさせてもらった。それは、元の世界の衛生観念や仕事をする上での倫理観にそぐわないことは遠慮なく指摘させてもらうということ。
これはこちらの人にはない知識をひけらかそうとか、伝授してやろうとか高尚な理由のためではなかった。ひとえに自分の身を守るためだった。
不衛生な作業をすれば自分やココの健康に害が及ぶし、意に沿わぬことを続ければ心にストレスがかかる。
とにかく無理はしない、こんな非常事態なのだから使えるものは全部使って自分を甘やかす。それが、ときに厳しいシングルマザー生活を経て身につけたケイの処世術だった。
「ごちそうさまでした……っと。ふぅ、戻るか」
カルム養老院は二階建ての歴史ある建物で、一階には体の不自由な人たちの居室と食堂、二階には精神面に低下のある人――いわゆる認知症の人たちの居室および本部機能が備わっていた。
収容人数はそれほど多くなく、さすがに貴族はいないが庶民の中でも比較的裕福な人たちが暮らしていると聞いた。有料老人ホームに近い感じだろうか。
寝たきりの人は少なく、口から食事が取れなくなったらそのまま自然な形で天に召される。もちろん胃ろうも点滴もなく、自然の摂理で寿命を迎えるスタイルはケイにとっては好ましく思えた。
そんな院の中で、ケイはまず一階に配属された。こちらの世界の常識や土地勘がまだないので、認知症のお年寄りに話を合わせるのは大変だろうと判断されたようだった。「恵みの者」と言ったら無駄に動揺を与えるので、入居者に対しては「遠い異国から来た出稼ぎの人」というスタンスで説明している。
「戻りましたー」
「おかえりー。もうちょっと休んでて良かったのに。ねぇ、あんたが作ってくれたこの『ますく』、いいわね。臭いがしにくいし、他の人にもそれ何?って聞かれたわよ」
詰め所でケイを出迎えたのは同僚のラスタだ。豪奢な赤髪を無造作にまとめた彼女はケイの作った布マスクを得意げに指す。
「そう? それなら良かった。また今度作ってくるよ。入居者さんには嫌がられなかった?」
「チキュー国で使われてる清潔を守るためのものよって伝えたら、感心してたわ。あたしも作り方知りたいから教えて」
「もちろん。こちらこそ布を用意してくれてありがとう」
あの騒動の頃に作り方を覚えたのが、今になって役立つとは思わなかった。ラスタは手を洗うと詰め所に干されている薄い手袋を手に取る。
「このホロロ鳥の革の手袋もいいわね。つるつるしてるからすぐ洗えるし、おむつ替えのときに手が汚れなくて嬉しい」
「あー。本当は使い捨てにしたいんだけど、なかなかね……。薄くて水を通さない素材がちょうどあって良かったけど」
「急に聞いてきたからびっくりしたわよー。年寄りの世話じゃなくて仕立て屋と間違えてるのかと思ったわ」
「あはは……お騒がせしました」
ラスタはこの職場でのケイの指導係だ。仕事のやり方や職員配置を丁寧に教えてくれて、ケイも一週間でそれなりに上手く立ち回れるようになった。
加えて、ラスタは三人の子持ちで一時期はシングルマザーだったこともあって、ケイの境遇をよく理解してくれた。公私ともに様々なことを教えてもらい、彼女と出会えただけでもこの職場に就職して本当に良かったと思う。
(私よりだいぶ年下だけどね! 再婚相手に恵まれて素直にうらやましい……)
この養老院での主な仕事は、食事や排泄など生活全般の介助という元の世界とそう大きく変わらない業務内容だった。それ自体は良かったのだが、いかんせん文明レベルが違いすぎる。
多少のことには目をつぶろうと思っていたケイだったが、どうしても衛生観念的に受け入れられないケア内容もあり、「恵みの者」という立場を使って口を出させてもらった。目下、この世界にあるもので個人防護具の制作ができないか試行錯誤中だ。
(しっかし布おむつのケアって大変なんだなー。吸水ポリマーすごいわ。洗濯は専門の業者が入ってて良かった……)
今までどれほど文明の利器に助けられていたかを痛感し、思わず涙目になる。
ココのトイレトレーニングが終わっていて良かった。新生活に布おむつの洗濯まで加わっては過労で倒れていたに違いない。
「あんたもココちゃんも体調大丈夫? ヤバいと思ったら早めに言うのよ」
「あ、うん。今のところ大丈夫。意外と二人とも丈夫なのかも」
「そう。……あっ、まずい。ジュレットさんの爪切り忘れてた!」
「明日湯浴みさせるから、ふやかしてから切ったら?
「そうね。そう伝えとく」
午後も仕事が山積みだ。肩を鳴らしながら廊下を歩くラスタに並び、ケイも気合いを入れ直した。
――大丈夫だと思っていた。慣れない環境で、そんな訳はなかったのに。
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