第28話 この人に、僕のすべてを捧げたい(綾音視点)

 大柄な身体にはまったく足りてないはずのパンを一つ、無雑作に手にして紫音さんが前を行く。

 使命のために生きるその背姿を、僕、姫蔵綾音は愛しくも痛ましく思えて目を離せずにいた。

 

 使命を果たすために生まれた。だから使命のために生きて死ぬ。そう仰った彼の物言いに嘘や偽り、はたまた自分をよく見せるための自賛の色はまったくない。

 つまり本気で、心の底からそう思っているんだ……火宮本家に生まれたがゆえの責務や使命を果たすため、この方は子供の頃からひたすらに励んでこられた。

 

 涙が出そうだよ。この方のこの広い背中には、まさしく天象火宮3500年と天象の地、そのすべてが乗りかかっているんだ。

 決して逃げられない定めを、仕方ないからという理由でなく果たそうとする御心はまさしくこの地を統べるにふさわしい方だ。

 やっぱり間違いない。姫蔵は所詮偽りの頂点、真にこの地を治めるのは火宮をおいて他にはないんだ。

 

「偉そうに言いやがって、小物貴族のボンボンが……」

「何が"天帝勅命"だ。どうせ大したこともしてないお飾りが、貞時だって本調子ならこんなゴミ……」

 

 小さく。本当に小さく後ろの馬鹿二人が呟くのを微かに耳にする。紫音さんにはさすがに聞こえていないだろう、口の中でぼやいたくらいの声量だ。

 だけど僕にはしっかり聞こえているよ。これも愛の力かな……紫音さんを馬鹿にする声はたとえ九万里の先の砂漠に漏らした寝言であっても聞き逃さない自信がある。

 ましてや普段から僕につきまとっている護衛達の声なんて、どれだけ潜めたって僕には筒抜けなんだよ。

 

 もう無理だね、こいつらは。今しがたの紫音さんの示された覚悟、使命感義務感を聞いた後だとなおのこと思う。

 この二人は今日を限りに僕の護衛を外れてもらおう。なんなら天象学園はおろか天象の地からも、姫蔵からも消えてもらっていいけれど、きっとそれは紫音さんが止めるだろうか。

 

 昨日の一件は当然ながら分家にも伝わり、さっそく本家と分家併せた姫蔵総出の会議が行われている。

 魔物憑き、それそのものは単なる不幸な自然現象だから貞時や彼の家、小金井家はそこまで責任を追及されることはないだろうけど……そもそも分家が本家に害を為したということそのものが特大のスキャンダルだもの。


 魔物は取り憑いた、いわゆる魔が差したものの邪念憎悪を増幅させて暴走する。それは天象の地に住む者なら誰でも知ってることだ。

 であれば今回そうなった貞時も、元からして本家に対しての悪感情を抱いていたのは間違いないことになる。


 ううん……実際のところは本家ではなく僕個人、悪感情というよりはむしろ、個人的想いというか欲望が増幅されたんだと思う。

 加えてそこに紫音さんへの悪感情もブーストされてグチャグチャになっちゃったんだろうね。そこは仕方ないことだから、僕としては貞時を責める気もない。今はすっかりいろいろ、憑き物も落ちたみたいだし。

 

 だけど政治的に見てこうした経緯は間違いなく、本家にとって好機と言える。父は、当主様はこれを機に一気に一族内のパワーバランスを本家に偏らせるだろう。

 姫蔵が賤しくも火宮から天象一の座を簒奪して後、数を頼みに本家に対しても強気でいたのがあの分家どもだからね。もちろんまともな家もあるけど、どうしても野心家の馬鹿な家のほうが目立っちゃうんだ。

 

 そういう連中をこの際、一気に弱らせて父は姫蔵を完全掌握するつもりなんだ。

 何のために? ……言うまでもない、いつか火宮の家にすべてをお返しするためだ。

 初代姫蔵はしてはいけないことをした。であれば、その罪の清算をしなければならない。紫音さんはじめ火宮の方々は高潔で気高くお優しい方々だけれど、だからこそそうしなくてはいよいよ僕らは地の底で蠢く虫けら同然だ。

 

「……だから、少し待っていてください紫音様。僕は、僕達姫蔵本家は何があってもあなた様のお力になります」

「…………? なんか今、言ったか綾音嬢?」

「んーん! なんでもないよ、紫音さーん!」

 

 ボソリとつぶやいたのが聞こえかけたみたいで、慌てて紫音さんに寄り添い誤魔化す。

 危ない危ない……ただでさえ男装してるのに、変なこと言って女の子として見られなくなったりしたら目も当てられないもんね!

 

 それにしても、ああ、素敵だなあ。

 紫音さんの大きな背中、顔立ち、歩き方、息の仕方! 眼差しの鋭さも、その割にどこか気の抜けた表情も。裏腹に誰かを見る時の、本当に本当に優しげな眼差しも!!


 全部、全部意識するだけで身体が熱くなる。心ごと身体が疼くんだ。ああ、堪んない、この人にメチャクチャにされたい……!!

 涎さえ垂れそうなのを抑えて、僕はニコリと微笑んだ。今はまだ早い、僕のこの、燃えて蕩ける想いをぶつけるにはまだ距離がありすぎる。

 

 詰めなきゃ。僕と紫音さんの間にあるものすべて、強行的にでも取っ払って。

 嫌われるようなことはもちろんしないけど、それ以外ならなんでもするよ。姫蔵本家の令嬢として、そのへんの覚悟はとうに決まってる。

 

 だから……待っていてくださいね、紫音さん!

 なんの気もなく歩く愛しい方のお背中に、僕はそっと、弧を描いた口元で囁き笑うのだった。

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