第35話 動かざること山本崇3

『風林火山』


「其の疾きこと風の如く 徐(しず)かなること林の如く 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」

 風のように素早く動き、林のように静かさを保ち、火のように激しく攻め、山のように動揺することなく堅く守る……という意味だ。

 

 動かざること山本崇やまもとたかし。決して動じない男である。

 



「どうした? 沈黙が正解とでも? それとも立った時に発した「はい」ってのが答えだったのかね?」


 教壇に立つのは古典の教師、鈴本浩二すずもとこうじ。58歳。皮肉屋である彼は生徒達から嫌われていた。

 彼自身は嫌われているなどと思ってもいない。あくまでもジョークなのだが…… 本人はその自覚なくネチリネチリと今日も生徒を追い詰めるのだった。


「座りなさい」


 そう言われた生徒は苦々しい顔で「ぐむ……」と声を詰まらせて席に着いた。

 

「長いこと自分の中の記憶を漁っていたようだが……知らないものは考えて解るものじゃないだろうに……」


 黒板に書かれた文章をチョークでカツンと叩く。黒板には……


『すべて、世の中のありにくく、わが身と栖すみかとのはかなくあだなるさま、またかくのごとし

 いはむや、所により、身のほどにしたがひつつ、心を悩ます事は、あげて計かぞふべからず』


 と書かれていた。


「この文章は、あの有名な鴨長明の方丈記だ……。テストに出るからといって冒頭部分だけ覚えて分かったつもりになっているんだろう。まったく……」


 分かるだろう。冒頭部分だけでも読んでいればある程度は読み取れるはずだ。なぜこれが分からないんだ…… 

 そう思って鈴本はため息をついた。伏せた目を再び開けると、1人の生徒が目に飛び込んで来る。


 山本崇やまもとたかしである。 


 名指しされるのを避けるように、こちらと目を合わせようとしない生徒達とは明らかに反応が違う。

 ただ一点、鈴本を……いや……視線は鈴本を貫き、その後ろに綴られている方丈記の一文を射ている。


 面白い。鈴本は笑った。


「山本君。分かるかな?」


 鈴本は『動かざること山本崇やまもとたかし』を指名しその席から彼を……




 ……。




 ……。




 立たせられなかった。


 そう。山本崇やまもとたかしは動かなかったのである。


「ど、どうした? なぜ立たない。足に根でも生えたか?」


 鈴本の皮肉も山本崇やまもとたかしには通用しない。

 鈴本は困惑した。

 彼が『動かざること山本崇やまもとたかし』と呼ばれていることは知っていた。だが、教師である自分の命まで無視するとは思わなかったのである。鈴本は激昂し


「山本! いい加減にしろ! お前……返事くらいは……」


 とここまで口に出すと、次の言葉が出てこなかった。

 山本は実に威風堂々と……動じず……動かず……ただジッと鈴本を見つめていた。

 

 なぜ……そんな目で……私を?


 なぜそんな……後ろめたさがない目で私を見れる?


 私はなにか……なにか……間違えているのか?


 まさか……悪いのは……


 私か?


 泰然自若に……正々堂々と……公明正大な山本崇やまもとたかしのその眼差しに鈴本は追い詰められていた。


 が一瞬……チロリと動いた山本崇やまもとたかしの一部を、鈴本は見逃さなかった。


 目だ。


 その目は一瞬だけ、鈴本の後ろの黒板……否。その上。


 黒板の上を……


 時計か!


 気付いた鈴本は振り返り、時計に目をやる。

 全ての針がまもなく12の数字を指そうとしていた。


 キーンコーンカーンコーン……


 お昼を告げる終鈴がなる。


 時間切れを狙っていたか……。それに気付いた鈴本は静かに笑った。


「きりーつ……礼!」


「「ありがとうございました!」」


 クラス委員長の掛け声に合わせ、皆が立ち頭を下げる。


 してやれたな……そう思いながらも、生徒達にうながされるように鈴本は教室を後にする。後にする教室……鈴本がチラリと見た山本は未だ、席に座り黒板を凝視したままであった。


 動かざること山本崇やまもとたかし。組んでいた足をほどいた瞬間、足が痺れて動けないだけであった。





 ※方丈記の訳

 総じて、世の中は生きづらく、我が身と住まいがはかなくかりそめなさまは、重ねて述べてきたとおりだ。まして、場所により、境遇を受け入れ続けて、心を悩ませたことは、一つひとつ数えられないほど多い。


 みたいな感じ。多分……

 

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