消えない感情


「……いいね、やってみようか」


彼女は俺に近づき身を寄せ、背伸びをする。それに応じるように、身をかがめ、顔を寄せた。

触れた唇から流れ込んできたのは、静かな、けれど重い、まるで泥のようなものだった。昼間に喰らった押し寄せる怒涛の波とは正反対のものだ。

こんなものが世に美しいものと認知されている“好き”なんていう感情なのかと、大したものじゃないなと俺は思った。

 けれど唇を離した彼女の顔には、落胆の文字が浮かんでいた。期待外れ、と言いたげに彼女は溜息を吐く。


「まだ、あるよ。“好き”って感情、ここに」


 裏切られた子どものように、ぼそぼそと呟きながら、彼女は俯かせた顔を歪めた。


「でも確かに、今までとは違うものを喰らったはずだぞ。なんか、重くて、静かな、泥みてぇなやつ」


 泣かせまいとするように、少し早口でそう伝える。

すると彼女は顔をあげ、俺を見つめた。そして自身の唇に指先で軽く触れながら、考え込むようにしばらく沈黙する。

やがて「うん」と納得した声が聞こえた。解決したらしい。


「“好き”の感情は残ってるけど、それに対する嫌な感情は薄れてる気がする。だからまぁ、何かは奪ってくれたんだろうね。それが何なのかはわからないけど」


 俺にそう説明しながら、彼女は煙草を携帯灰皿にしまった。俺としては何も解決していないに等しかったが、彼女の中で完結したなら、それ以上のことは俺にはできない。俺も完結させるしかなかった。




 ――それからというもの、彼女が煙草を吸う姿を見ることはなくなった。

 彼女曰く、「好きでいるのを諦めることをやめて、好きでいる自分を受け入れることにした」らしい。「当てつけのつもりでやっていた自傷行為で、自分を傷つけることをやめた」とも言っていた。俺には難しくてよくわからなかった。

 ただ、彼女が自身を大切にするのは、俺にとっても心の治安がよく過ごしやすいものだった。彼女の浮かべる笑顔に暗い影が落ちる頻度が下がっただけでも、俺にとっては十分だったのだ。

 だから俺は、てっきり彼女は“好き”という感情で苦しむことはもうないと思った。

 笑顔が陰るのは、叶わない好きという感情を抱き続ける自分を哀れんでいるのだろう。

 笑顔が歪むのは、叶わない好きという感情を物悲しく感じているのだろう。

 ――それらが、苦しいという感情に繋がるとは考えもしなかったのだ。苦しいと感じるような感情は、全て自分が喰らったのだから、と。


 だから、彼女が傷ついていることに、気づくのが遅くなってしまった。



 それを今でも、後悔している。


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