葛藤の渦


 眉間の皺は少しずつ深くなって、徐々に息が荒くなると同時に、彼女の頬は大粒の涙によって次々と濡れていく。


「なんでっ……」


 その先の言葉が出てくることはなかった。彼女の様子を見るに、言えなかった、に近いのかもしれない。その代わりに出てきたのは、彼女が抱える葛藤の渦だった。


「そうだよ……、そうじゃないとやってらんないもん。だって誤魔化すしかないじゃん。好きって感情が大きすぎるのに、叶わない。行く宛がないの。頭ではわかってるのに、馬鹿みたいに期待して、勝手に傷ついてさ。逃げたいのに、逃げらんなくて。その度に、自分がどれだけ彼を好きかっていうのを嫌と言うほど痛感するんだ」


最初は、爆発そのものだった。

 怒鳴るように、けれど子どものように泣きじゃくりながら吐き出して。


「……どんなにしんどくても、どんなに苦しんでも彼が返ってくるわけじゃないのにさ。どうなっても勝手に時間は進むし、なんとかやっていくしかないなら、いつか時間が解決するまで、抱えるしかなくて」


 燃え上がった炎が雨に打たれて徐々に弱まっていくように、徐々に小さくなっていって。


「でも、いつまで……? いつまで抱えて、耐えなきゃいけないの……? でもそんなの、誰にもわからない。じゃあ、“大丈夫”って意味もなく言い聞かせて自分を騙すしかないじゃん。“大丈夫”って、笑って、その“いつか”が来るまで、なんとかするしか、ないじゃん――……」


 鎮火したそれは、虚しさへと姿を変える。

 それでも彼女の頬から滴る雫が止むことはなかった。


 彼女の言葉を聞いているだけだというのに、なぜだが俺まで苦しくなり、それを誤魔化すように、彼女に言葉を投げかける。


「今は俺がいるだろ」


 震えていた彼女の肩が止まった。彼女が反応したことをいいことに、俺は畳み掛けるように言葉を紡いだ。


「そもそも感情を持ち合わせていないから、お前が怖がるような“拒否する”だとか、“面倒くさい”だとかになることは起こり得ないし、契約をした以上俺はお前を無碍に扱うことはしない。つか、お前の感情を吸収してんだから、お前の気持ちを否定することはねぇよ。俺相手にそんな気ぃ使うな」


 そう言うと、彼女はゆっくりと顔をあげ、俺を見上げた。疲れ切った表情をしてはいたものの、その目から流れる涙は止まっているようだった。

 俺は、なぜだか彼女の笑顔を見たくなって、続けて言う。


「――それに、言っただろ、耐えきれない感情は俺が食らってやるって。一人で耐えるってことは、もうしなくていい」


 しかしその言葉を聞いた彼女は、笑うどころかむしろ大粒の涙を零し始めた。

 彼女の笑顔を見るにはどうしたらいいか、を俺なりに模索し、「その感情、食らったほうがいいか?」と聞くものの、彼女は首を横に振る。そしてそんな彼女の手は、俺の服の袖を掴んで弱々しく引き寄せた。


「抱きしめて。何も言わなくていいから、ただ、抱きしめるだけでいいから……」


 消え入りそうな声で、彼女はそう切なげに求める。

 言われるがままに彼女を抱きしめると、彼女はずっと溜め込んでいたものが堰を切ったかのように、泣き叫んだ。


 背中に回された彼女の手が俺の服を強く握りしめる。これ以上ないくらい感情をあらわにしているというのに、それでも堪えきれないものがあるのかもしれない。多少は俺が食らったとはいえ、やはり彼女の抱えるものは大きすぎる。

 ほんの僅かしか食らっていないはずなのに、締め付けられるような痛みと共に呼吸が乱れた。俺が痛みを感じることで、彼女の痛みは多少なりとも緩和されているのだろうか――。


 ふとその時、泣いている子どもの頭を親が撫でると、徐々に泣き止んでいく子どもの姿を思い出した。俺はそれを真似するように、彼女の頭を撫でる。

いざやってみると、叩いているようにも感じられ、力加減がよくわからなかった。せめて彼女が痛みを感じないようにと、そっと触れるようにと心がける。


 彼女の髪は、触れる手を無意識に滑らせてしまうほど触り心地がよかった。風に遊ばれ乱れた彼女の髪を整えるべく手櫛でとくと、指通りがよく簡単に元に戻る。近くで見るとやはり茶色がかっていて、夕日のせいではなかったのだと知った。


気づけば彼女の声はすすり泣きになっていた。俺の背中に回された手にはもう力は込められていない。


「ありがとう。もう、大丈夫」


 そう言って離れた彼女は、気まずそうに目を泳がせていた。しかしどことなくすっきりしたような様子だった。

 そんな彼女に胸を撫でおろしていると、彼女が突然大きな声をあげる。何事かと思えば、彼女の涙で濡れた俺の服が気になるらしい。


「別にそんな気にするほどのもんじゃない。こんなんすぐ乾く。それに洗えばいいだろ」


 そう言うと、彼女は少し不服そうに、けれど諦めたように「ありがとう」と小さく口にした。そして、紺色が混じり始めた空を仰ぎ、冷え始めた空気を吸い込んで、吐き出すと共に力なく微笑みか細い声で零す。


「……不思議。いつもだったら、迷惑かけたって感じて、自己嫌悪の波が来るのに。今回は、ただただすっきりしたって感じ」


 空を映していた彼女の瞳が俺を映し、その微笑みを今度は俺に向けた。無邪気に、けれどどこか儚げに、掠れた声で冗談めかして言う。


「あなたがさっき食べてくれたの、わたしの自己嫌悪の感情なのかもね」


 彼女の言う通り、俺が食らった彼女の感情が、自己嫌悪だったのだとすると。

 彼女の言葉を聞いて俺まで苦しくなったのは、彼女が抱くはずだった自己嫌悪の感情のせいだったのだろうか。

 彼女はあのただでさえ激しい感情を抱きながら、そんな自分を嫌って責めていたのかと思うと、彼女が抱える感情はキリがないように感じた。


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