第二十七話 真夜中に訪れたもの

 関東某県の介護施設で老後を送っているTさんは、幼い頃に奇怪な体験をしているという。

 当時Tさんは、地方の小さな町に住んでいた。

 自然が豊かな場所で、一帯は小動物の宝庫だった。

 バッタ、トンボ、サワガニ、カエル、トカゲ、ヘビ……。そんな動物達を、Tさんはよくいじめて遊んでいた。

 子供特有の残酷さゆえ、だったのだろう。ミミズを石で磨り潰したり、トンボのはねをむしったりと、やりたい放題だったそうだ。

 だから――もしかしたら、あの夜の出来事は、それが原因だったのかもしれない。Tさんはそう考えている。

 詳しい経緯は忘れたが、その時Tさんは、真っ青な顔の両親に「大変なことをしたな」と叱られ、普段は使っていない小さな奥座敷に閉じ込められた。

 ……いや、閉じ込められたのかどうかも、よく分からない。少なくとも、外から鍵をかけられたわけではなかったからだ。

 座敷には、家具の類は一切なかった。ただ色の変わった畳の中央に、自分の布団だけがポツンと敷かれ、夏でもないのに蚊帳かやで囲われていた。

「今夜はそこで寝ろ。朝まで絶対に蚊帳の外に出るな。それから、声も出すな」

 険しい顔で父にそう言われ、ふすまが閉ざされた。

 座敷に明かりはなく、途端に視界が黒一色に染まった。

 さすがにTさんも、しおらしく布団に潜った。しかし動揺から気持ちがたかぶって、なかなか眠りにつけない。

 この時胸の内にあったのは、後悔と恐怖だけだったという。どうしてそんな感情を抱いていたのかは、やはりもう記憶にないのだが……。

 そうして、おそらく日付が変わってから、少し経った時分のことだ。

 Tさんが布団の中で身を丸めてじっとしていると、不意に蚊帳越しに、座敷内の空気が乱れるのが分かった。

 カタ、と襖が小さく鳴った。誰かが来たのかと思い、Tさんはそちらに目を向けた。

 ……真っ暗だ。当然、何も見えない。

 ただ――闇の中でゆっくりと、何かが動いているのが分かった。

 ……ずず。……ずず。

 音が、畳の上を這っている。

 Tさんが寝ている蒲団の周りを、円を描くように。

 ……しゅぅ、……しゅぅ、と異様な息遣いが聞こえる。

 Tさんは恐ろしくなって、布団を頭からすっぽりと被った。

 ……ずず。……ずず。

 ……しゅぅ。……しゅぅ。

 音がやむ気配はない。

 蚊帳がギシギシと揺れる。何かが中に入ってこようとしているのか。

 ……ずず。……ずず。

 ……ず、ず、ず、ず、ず、ず。

 音が変わった。ぬるりとした生暖かい空気の流れが、布団越しにはっきりと感じられた。

 布団の上に、どさっ、と何かが載った。

 そして、まるでTさんを布団越しに撫で回すように、ずずぅ……と這う。

 すでにTさんは限界だった。

「お父ちゃん! お母ちゃん!」

 助けを求めて、そう叫んだ。

 その途端――布団に触れていたものが、すぅっと消えた。

 異様な音も聞こえない。恐る恐る布団から顔を出したが、変わった様子はない。

 ――もう大丈夫なんだ。

 Tさんはそう感じて、安心して眠りに落ちた。


 翌朝目が覚めて、Tさんはギョッとした。

 座敷内に、真っ赤な血の痕が筋になって、ずぅっ……と這っている。

 廊下からこの座敷に入り、蚊帳から布団の上にまで達した後、再び廊下へ――。いったいどこまで続いているのか気になって、Tさんは恐る恐る、後を辿ってみた。

 血の筋は、両親が眠る寝室に続いていた。

 そう言えば、今朝は家の中がいやに静かだ。まだ二人は起きていないのか。

 Tさんは不思議に思いながら、寝室を覗いてみた。

 ……父と母の変わり果てた姿が、そこにあった。

 揃って血を吐いたらしい。二人とも、口から胸にかけてを真っ赤に汚し、すでに冷たくなっていた。


 父の言いつけを破って声を出し、二人を呼んだのが不味かったのかもしれない。

 あの夜のことを、Tさんは今でも激しく後悔しているそうだ。


  *


 『絵本百物語』に曰く、蛇を傷めつけ、殺し切らずに捨ておくと、その執念から仇を為しにくる。これは「おいへび」と題されている。

 もしかしたらTさんは蛇をいじめてしまい、その蛇に復讐されたのかもしれない。

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