住職

 

 先程までは中天に登っていた陽も既に傾き、夕焼けが背後より迫り来る。


 元きた道を辿り、翔太は全力で前へ前へと足を動かした。


 無我夢中で幾度となく地面の小石に躓き転倒しかけながらも、如何にか体勢を整えて畦道をひた走る。


 その間にもあの恐ろしい女が後ろから追い掛けてくる様な錯覚を抱き、その都度振り返りそうになった。


 未だ焦燥は翔太自身を苛み続け、背中にゾワゾワとしたナニかが這い回る様な悪寒を得た。


「うっ」


 込み上げてくる強烈な緊張からか、思う様に身体は動かず、遂にはその場で翔太は転倒した。


 気が付けば地面が眼前に現れていた。


 反射的に手を付いて顔を挙げる。


 恐怖に彩られ、僅かながらに涙に濡れたその瞳に映るのは、まるで知らない景色だった。


 先程まではこの山と森と田んぼしか無い場所を心地良くすら翔太は感じていた。


 けれど今は別だ。


 あの得体の知れない女性と出会ってからは、全てが恐怖だった。


 見渡す限りにおいて自然に包まれたこの場には人一人存在していない。


 居合わせているのは翔太のみだ。


 その孤独が彼の恐怖心をより一層駆り立てた。


 誰でもいいから今は人と会いたかった。


 普段は喧嘩ばかりしている両親でも、或いは動物でもいい。


 それ程までに今はただ、翔太は自分以外の他の存在を求めていた。


 そうでなければあの女に何処かへ連れて行かれそうで、ひたすらに恐ろしかった。


 未だ後ろは振り返らない。


 纏わりつく様なナニカが其処にあるのは分かっていたから。


「うぅ‥」


 泣きながら立ち上がる。


 嗚咽まで漏らして彼は漸く帰路へと戻る。


 最早脇目も振らずに、全力で彼は走り抜ける。


 次第に前方へと煌々と薄暗い中に輝く民家の窓を視界へと捉えた。


 その窓ガラスに寄せられて、小さな者達が集う。


 其処には様々な虫が虚空を揺蕩い泳いでいたが、そんな平素では忌避している存在でも今の翔太にとっては有り難かった。


 躊躇わずに敷地へと入り、家の戸を押し開ける。


 玄関へと辿り着いてから、不思議と先程までは拭いきれなかった怖気が緩和された様に翔太には感じられた。


「よしえばあちゃんっ、よしえばあちゃんっ」


 すると次の瞬間にはその場で靴を脱ぎ捨てた彼は、廊下を走り抜けてすぐさま自らを庇護してくれるだろう相手の元へと向かった。


「あら、どうしたね。爺様はまだ帰ってこんのかいな?」


「ううん。あのねっ、僕っ、僕っ」


 そんな翔太を前にして平素通りに穏やかな微笑を浮かべている、よしえと呼ばれた年嵩の女性は、そう問い掛けた。


 けれど翔太のその、尋常ならざる剣幕に何かを悟ったのか途端に真剣な面持ちとなる。


 そして尋ねた。


「どうしたい?何かあったんか‥」


「うん‥」


 そう問われた翔太は、先程に起きた出来事を詳細に語った。


 自分が何を見たのかや、どれだけ恐怖したのかを一所懸命に伝えた。


 未だ幼いながらも必死に事細かな脳裏へと過ぎる情景を、よしえに説明した。


「まさか‥そんな‥」


「おばあちゃん?」


 するとよしえは酷く狼狽して翔太が今までに見た事が無い程に取り乱した姿を露わとした。


 唇を戦慄かせ、加齢から落ち窪んだ瞳を見開いていた。


 その表情は平素から柔和な笑みを浮かべているよしえと比較して、およそ似つかわしく無い、驚愕か或いは恐怖とも取れる面持ちだった。


 語られた事実を認めたく無い。


 そんな後悔をも入り混じる、強烈な感情の流れが翔太へともたらされた。


 物事を普段から俯瞰して見るよしえである為、翔太は大層驚いた。


 何故ならこれ程までに狼狽した、この様なよしえの姿など翔太は今までに一度も目にした事が無かったのだから。


「‥もうじき爺様が帰ってくる。翔太はこれ以上絶対外に出たらいかん。‥夕飯は用意してあるからね、怖かったらテレビでも付けて見とき。ばあちゃんも一緒に居るから」


 だがすぐさま我を取り戻した様子のよしえは、そう語ると共に翔太の手を引いて部屋へと向かう。


 和室の卓上には言葉通りに料理の盛り付けられた皿が並べられており、食欲を唆るに値する香りが翔太の鼻腔へと流れた。


 それから二人は畳に隣り合う形で腰を落ち着けた。


 けれども翔太は怯えていて食事も喉を通らない有様で、仕方なくテレビを見ていた。


 だが出来るだけ食べる様によしえから促され、翔太は無理にでも胃に夕飯を流し込んだ。


 そして暫くの時を経て、その間に玄関の方向より声が響いては聞こえた。


「翔太はいるか?」


 その聞き覚えのある声の主に翔太とよしえは安堵の面持ちを互いに見合わせた。


 次いで廊下を進む足音と共に、すぐさま居間の襖が開かれる。


「かんぞうじいちゃんっ」


「おぉ、翔太よく来たの」


 続いて翔太を前として即座にその老人は笑みを浮かべてみせた。


 無論の事、即座に跳ねる様に立ち上がる翔太は、かんぞうと呼ばれた老人の胸に向かい飛び込んだ。


「おっと、相変わらず、まだまだ小さいのぉ。たんと食べないといかんぞ」


「かんぞうじいちゃんっ」


 恐らくはその眦に幾重にも刻まれた皺の数からして還暦を迎えているであろう老人は、それにもかかわらず、翔太を微動だにする事なく受け止めた。


 力強いその腕の中で安堵を得た翔太は、それが引き金となり緊張の糸が切れたのか、遂には泣き出してしまう。


 これまでにのしかかってきた恐怖により圧迫されていた感情の濁流が今ここに露わとされたのだ。


 まるで堰を切った様に涙を流す翔太に初めは困惑の素振りを示していたかんぞうだが、本人に変わってよしえから今に至る経緯の説明を受けた途端に強張った面持ちとなる。


 事の詳細を聞き及んだかんぞうは、翔太を安心させる様に抱きしめたまま言う。


「住職を呼べ」


 そう宣言すると、予め何事かを心得ていたかの如くよしえは一つ頷いて居間に置かれている固定電話を取った。


 そして古めかしい造りのそれを使い、電話を掛けた。


「すみませんねぇ、こんな夜分に。近所の神崎なんですけども‥」


 どうやらすぐに目的の相手に繋がった様で、彼女は用向きを伝えていく。


「ええ、はい。葬式ではなく、あれが起きてしまい‥」


 恐らくは住職へと話しているのだろう。


 どうやら要件を特段詳細に話す必要も無く、相手も心得ているのか内容は全て、一瞬で伝わったらしい。


「はい、そうです。ありがたいです。わかりました。言われた通りの物を準備して待っておりますので‥。どうか、どうか何卒お坊様のお力で、孫を救ってやってください。はい。はい。よろしくお願いします」


 そう口とした所でガチャリと電話を置いたよしえは言う。


「今日中に来てくださるらしい」


「わかった。ならワシらはそれまでに用心と、その為の準備をせねば」


 次いでよしえの語る言葉に、かんぞうは重々しく頷いた。


 二人は互いに何処か緊張した面持ちで、向かい合っている。


「じいちゃん‥」


 そんな中、未だ震えがおさまらない翔太は不安げに声を挙げた。


「大丈夫だ。これからお祓いをしてもらう。翔太についた悪いモノを取り除いてくれる」


 これに対して険しい表情を多少なりとも緩めたかんぞうは、そう優しげな口調で言い含めた。


「ほ、本当?」


 だが応じる翔太は、依然として襲いくる焦燥を面に露わとして隠せない。


「ああ、本当だ」


 ただ、そんな彼を真正面に見て力強く頷きを示したかんぞうは、安心させる様に微笑を浮かべてみせた。


「だから怖がる必要は無い。安心せい。翔太にはワシらがついとる」



「‥うん」


 そのかんぞうの姿を前に翔太もまた、依然としてぎこちないながらも、笑顔をその面持ちにみせた。


 途端、応じる二人も少しだけ表情を緩める。


「それじゃあ翔太は部屋の中から絶対出たらいかん。ワシは準備をしてくるから、婆さんもここに居てくれ」


「わかりました。翔太や。爺様との話終わったら、後で一緒に花札でもしよか」


 己の孫の僅かばりとも安堵した様子に、どうやらよしえとかんぞうも、少なからずホッとしたらしい。


 二人はそうやり取りを交わした後、翔太を含めた三人でこの場での話し合いを開始したのであった。

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