4.何十億の札束

 駅まで歩いて行くのには距離が遠すぎたため、彼はふたたび巨大なヤモリに変身した。体長五十メートルはある。このことで彼は先ほど手に入れた服の上下一着を駄目にし、サングラスも壊したが、その変身は人質の女に恐怖心を植えつけるのに十分なものだった。女は従順に残りの着替えを落とさぬように、しっかと胸に抱きかかえるのだった。


 駅に着くと彼は再度人間に戻り、大きさも等身大になって、周囲を恫喝しながら進んだ。服は着ていないわけだが、そんなことを感じさせない変化を彼はその身に見せていた。顔だけヤモリのままだったのだ。東京方面の特急列車の止まっているホームにたどり着いたところで、彼は人質を解放した。女はその場から十歩も歩かないところでへたり込み、駅員らに救助された。


 彼が列車に飛び乗ると、ほどなく車内にアナウンスが流れた。


 ――ただいま、この電車にヤモリ男が乗車した模様です。乗客のみなさまにおかれましては危険を回避するべく、一刻も早い下車をお願いいたします。なお、代替列車の運行等につきましてはホームにて、駅員の指示に従ってくださいますよう、お願い申しあげます。……


 彼はカッターナイフを足元に置くと、手早く服を身につけ、ふたたびカッターナイフを拾い上げてポケットにしまい、運転席の方へ向かった。途中、まだ下車していない乗客と目が合ったが、彼のヤモリの目を見るや、乗客は悲鳴すら上げず身動きを止めてしまった。


 運転席までやってくると、人間業では考えられない怪力を振るって、客席スペースと運転席とを隔てる扉を破壊した。そして言うのだ。


「おいッ、よく聞け。これから新宿まで一切、停車せずに進むんだ。いいな」


 彼のこの、一見不可能とも思える要求は、意外と簡単な方法で成し遂げられてしまった。


 停車するはずの駅を通過する際、人が歩くくらいの速度でホームを通過することで、運行ダイヤを大きく乱すこともなく、彼を乗せた特急列車は確実に、目指す街・新宿へと近づいてゆくのだった。


 途中で何度か車内放送が流れた。


 ――森宮。聞こえるか。おれだ。さっきの刑事の男だよ。自己紹介がまだだったな。前田ッってんだ。よろしくな。


(あの刑事だ。前田というのか。車掌室に乗っているんだな)


 ――いいか森宮。おれはおまえを捕まえるために追ってきたわけじゃない。むしろその逆だ。どういう意味かわからないだろう。一つだけ、このおれみたいな末端の人間にもよくわかっていることがある。おまえはある人物と会う必要があるんだよ。そのためにも、おれはおまえを無事に自宅まで連れていかねばならないんだ。


(誰だ。誰と会う必要がある)


 ――おれにわかるのはここまでだ。あとはその誰かが教えてくれるだろう。


「なんだかんだ言って、やっぱり警察が待ち伏せしているだけなんじゃないのか。見え透いた嘘をつきやがって。畜生ちくしょう、馬鹿にしやがって」


 怒りを募らせるほどに彼の全身はヤモリに変じてゆく。するとその総身にヤモリマンとしてのエネルギーが充ち満ちてゆくのだ。その力に突き動かされるように、彼は最後尾の車両をつなぐ連結器まで駆けてゆくと、堪忍袋の緒が切れたような叫声とともに連結器を破壊、車掌室を車両もろとも切り離してしまった。


 それから先の小旅行は、彼にとってひとときの安穏となった。


 車窓を流れる景色と単調に鳴り続く列車の音が、彼をほどよい眠気に誘った。

 気がつくと列車は都内を走っているようだった。


 新宿駅が近づくと彼は破壊した最後尾の部分から線路に飛び降り、都内の繁華なビル街にある一軒家に向かって、ただひた走るのだった。


 時刻はいつしか夕暮れ時となっていた。我が家まであと百メートルもないというところで近所に住む幼なじみと出会った。お互い一瞬、目と目を合わせたのち、彼が片手を上げて「やあ」と挨拶した。ところが幼なじみは何も言わずに体の向きを変えて走り去ってしまった。


「くそッ、みんなあのテレビ番組のせいだ」


 彼は余計に警戒心を増して自宅に向かった。ところが家の周りは警察も報道関係者の姿もなく、シンと静まりかえっていた。入るべきか、入らざるべきか少しためらったが、結局、彼は家に帰った。十何日ぶりの我が家だ。


「ただいま」


 彼に子どもはいない。その声を聞いて出迎えたのは妻の季美子だった。もちろん彼はその直前から、いや、家に入る十メートルほど前から、自分の姿のどこにもヤモリの面影がないことを確認している。


 それは季美子の態度を見ても明らかになった。彼女はホッとした表情になったのだ。


「お帰りなさい。あなた……、大変なことになったわね。でも、元気そうでよかった」


「やあ。本当にひどい目に遭った。いったい何でおれが……」


「それがね、あなた、お客さまがお見えなのよ」


「客……。まさか警察か、それとも報道関係か」


「それが違うらしいのよ。お断りしようとしたんだけれど。あれを見せられちゃ。こっちへいらして」


 森宮守は妻・季美子に案内されるような格好で玄関に上がると、同居している母のことを訊いた。


「母さんはどうしてる」


「お義母さんは元気。だけどちょっと、今回のことが応えたみたい。家にいると色々落ち着かないって言って、今ちょうど、近所に買い物に行ってるところよ。それよりこっちへ来て」


 守は季美子のあとに続いてリビングルームへ入った。と、そこに信じられないものを見た。


「これは……十億、いや、百億はあるんじゃないのか」


 札束の山だった。


「いったい誰が来ているんだ」


「食堂の方で待っていらっしゃるわ」


 リビングルームから食堂に移動するには玄関から続く廊下をまたぐ形になる。二人はやはり季美子が先導するようにして、食堂の扉を開けた。


 そこにはSPらしいスーツの男四五人に囲まれるようにして、初老の男が、しかし、身なり物腰にはまだまだ若さを感じさせる男がいて、季美子とともに入ってきた守に視線を投げかけるのがわかった。


 途端、守はあのときの感覚を思い出した。あのとき……初めてヤモリに変身した彼が、何者かわからぬ……おそらくはヤモリと対話したときのことだ。


(まさか、こいつはヤモリか?)


「ご名答。よくわかりましたね」


「心を読んだのか」


「あなたがね……ほら、以前、ヤモリの手は大金を稼ぎ出せるかもしれないと考えたでしょう。いえいえ、そう否定なさらずとも、すべてお見通しなのですから。……まあ、それだけじゃないのですけれどね……、今回はそういうわけでお邪魔させていただいたのですよ。なにぶん、この家はいつも、窓明かりからしか、中を見たことがありませんでしたからねえ」


 ほお、なるほど、素敵な家具調度がそろっていますね、などと言いながら初老の男は、


「それでね、今回はあなたに与えたそのヤモリの能力を、すなわちヤモリの手を、先ほどのリビングルームに置いた代金と引き換えに買いたい、というわけなのですよ」


「あなたもヤモリじゃないのか? それなら何も買わなくたってヤモリの手ぐらい自由になるだろう」


「いや、わたしが買いたいのはヤモリの手だけではなくてね、その能力を何倍にも引き出してみせたあなた自身と、あなたの命、こいつを買いたいというのですよ」


「なぜ」


「わたしはE2の人間なのです」


「イーツー?」


「あなたにとっては謎の組織、今はそれ以上語れませんよ」


「おれの命を買うと言ったが、具体的にそれは何を意味しているんだ」


「簡単なことです。以前、東京タワーにのぼったことがあるでしょう。今度は東京スカイツリーのてっぺんまでのぼっていただきたいのです。いいですか。これは何十億という金額に価する依頼なのですよ。あの札束はその報酬なのですからね」


「あんな所にのぼってどうなる。またおれを落とす気じゃ……」


「ははは。まさかそんなことは二度もやりませんよ。一度目はね、あなたの生命力を試してみたかったのです。ただそれだけです。とにかく行けば、のぼってみればわかることです。では、依頼はそれだけですからね」


 初老の男はそれだけ言うとSPの連中を引き連れて素早くその場をあとにした。

 しばし、守は季美子と二人、呆然と札束を眺めていた。


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