ヤモリの手
西谷武
1.流星群の夜
何とかいう名の流星群が今宵、空を流れる。なのに、ここは繁華な街の中。空がよく見えない。だから建物の屋根やビルの屋上にのぼる人もいて、みんな、ちょっとでもよく見ようという算段だ。
「あッ、来たよ」
誰かがどこからか叫んだ。
はじめは一つ、二つと流れる程度だったが、あっという間に流星群はその数を増して、素晴らしい天体ショーになってゆく。それはすごい数の星が流れた。三十分は続くというから、屋根や屋上に寝る形で見ているのがいい。快適だ。
日本の住人にオーロラなどを見たことのある人は少ないだろう。滅多にない大空を舞台にしたショーとあって、これを見逃してはいけないという人はみんな空を見上げている。
「花火よりすごいね」
そんなにすごいのか。いったい、どんなものなのだろう。
花火といえば、見事な色彩で空にあがるものだが、どうもこの流星群は絶え間のない数で人々を魅了しているようだ。ぜひ見たい。
「おーッ、すごいや」
天文学などに興味のない向きにもその素晴らしさは伝わるようで、さかんにカメラのシャッターを切る人もいる。しかし、果たしてうまく写るのだろうか。やはり本物を見てみたいものだ。――
ついにそう思っていた彼も屋根にのぼる決心をした。彼の家はビルのはざまの一軒家。家の外に出てもろくに空が見えないのだ。彼は屋根にのぼるべく、急いで梯子を持ちだした。しかし、それは梯子ではなく、ごく普通の脚立だった。屋根まで届くはずもなく、彼は家の外壁にへばりついている。
すると彼の横で何かの気配がした。見ると窓明かりにヤモリがへばりついている。残念ながら彼にヤモリのような吸盤の手はない。
そんな彼を尻目にヤモリはするすると窓ガラスをのぼってゆくではないか。彼は思わずヤモリに手を伸ばすと、捕まえてしまった。
「うらやましい手だな」
ヤモリはその独特の眼光で、彼の手のうちから逃れようとしている。そのときだった。
「ヤモリの手は少し高いですよ」
と、不意に彼の後ろから誰かの声がした。
「誰だ」
彼が問うと、声の主は彼の頭上に位置を変えた。姿は見えない。
「あと二十分は見られるのですから、そうですね。半額とまではいかないまでも三割はお引きしましょう」
「ヤモリの手が買えるのか。いくらだ」
「ですから三割引ですよ。買いますか。それとも流星群はあきらめますか」
彼はどうしても世紀の天体ショーを見たかった。「買う。売ってくれ」と返事をした。
「決まりですね。では流星群をお楽しみください」
「待ってくれ。おまえは誰だ」
と、手のうちにいたヤモリは夜の闇に逃げていった。
次の瞬間、彼は両手に違和感を覚えた。なんと指先がヤモリのごとくになっているではないか。十本の指先が家の外壁に吸着している。
「ヤモリの手だ」
彼は脚立から足を離すと、するすると屋根までのぼってしまった。
「これはすごいや」
彼はその手に驚くことしきりで、まあ一応、流星群も眺めたのだった。
世紀の天体ショーが終わると、流星群の見物人たちはそれぞれの居場所に帰ってゆく。街はいつもの繁華な空気を取り戻した。しかしヤモリの手を得た彼だけは屋根の上に残っていた。
「ヤモリの手。これからどうしたものだろう」
いつしか彼の眼は独特の眼光を放っていた。丸い白目に縦長の黒目。近くに蠅が飛んでくるたび、その眼は鋭く獲物を狙う。見下ろすと人間が歩いている。人間にはヤモリのような芸当はできない。眺めているうち、彼はこんなことを思いついた。
「東京タワーにのぼろう」
われながらいいアイディアだと感心した。彼はまだ一度も東京タワーにのぼったことがないのだ。東京に生まれ育ったから、かえってそのような名所を訪れることもなく今まで過ごしてきたのである。その高さは長い間、東京のシンボルとして誇れるものだったわけだから、一度はのぼっておきたいという思いが彼にあったのだ。
天体ショーの興奮もどこへやら、いつもと変わらぬ夜の街を、ライトアップされている東京タワーを目指して、地を這うように進んでいった。
夜にそびえる東京タワーは綺麗だった。彼は早速、タワーにとりつくと、するするとのぼり始める。彼の両手はヤモリのごとくに素早い動作をともなって、彼の身体を地上二百メートル以上の高さまで持っていった。そのとき、彼は気配を感じた。見るとすぐ横にヤモリがいるではないか。またしても聞こえてきたのはあの声だ。
「どうです。東京タワーは高いでしょう。ところで流星群は綺麗でしたか」
彼は少し、ゾッとした。今の自分のあまりの不自然さに、はたと気づいたのだ。声は続ける。
「ちょうどここは東京タワーのてっぺんから三割引の高さなんですよ」
「ちょっと待ってくれ。まさかここから落とす気じゃ」
「ははははは。あなたも怖がりですねえ。わたしはそんなことしませんよ。ただね、ちょっと悪ふざけをしてみたくなりました」
「何」
「三割はお引きしたわけですからね。嘘はついていませんよ。では」
「待ってくれ」
次の瞬間、彼は必死の力で東京タワーにつかまった。
「手が……、ヤモリの手が元に戻っている。だ……誰か」
彼は死を覚悟した。この高さから落ちれば間違いなく即死だ。東京タワーにのぼろうなんて考えなければよかった。彼の後悔はしかし何の役にも立たない。両手がだんだんしびれてくる。――ああ、もう駄目だ。落ちる。
目の前を蠅が飛んだ。彼の眼は獲物を逃さなかった。舌が伸びた。
「やればできるじゃないですか」
――あの声だ。おまえは誰だ。
「蠅の味、いかがです。美味しいでしょう」
――こんなもの、美味いわけがない。
「わたしはいつも、あなたの家の窓明かりに来る虫を食べていたのですよ」
――おまえは、ヤモリか。
「あなたを助けたいのもやまやまです」
――助けてくれ、早く。
「でもね。わたしにはもう、できませんよ」
――なぜだ。
「こんなところにのぼるなんて、わたしは考えてもみませんでした」
――嘘だ、わかっていたのだろう。
「たしかに三割お引きすると言いましたがね。それが限度ですよ」
――高い、高いぞ。
「あなたが流星群を見たいと言うものだからこんなことに」
――お、落ちる。
「もう悔いはないでしょう。あの流星群、一生に一度見られれば運がいいというほどのものでしたからね」
――あんなもの、見たところで。うわ、うわあああぁぁぁーッ、
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