08.元カレの実像

 美門と元カレの入店から遅れること1分、僕たちも店内に足を踏み入れる。


 大学から徒歩数分のところにあるその喫茶店は、クラシカルな内装で統一されており、とても雰囲気がいい。


「あんな長身さわやかイケメンに、こんな洒落た店へ連れてこられた日には、なんてセンスのいい人なの、素敵、なんて舞い上がってしまう人もいるんでしょうね」


 僕はつい、そんな当てつけめいたことを言ってしまう。

 円佳さんは聞こえないふりで、あさっての方を向いて鳴らない口笛を吹いていた。


 冷房の効いた店内は避暑目的の人で混雑しており、僕は唯一あいていたカウンター席の隅っこに腰かけた。


「円佳はここのサンドイッチが好物だったけど、小食でね、大した量じゃないのに、もうお腹いっぱいだからわたしの分も食べて、なんて言ってたっけ」


 元カレは思い出語りを再開しつつ、白いクリームの乗ったアイスコーヒーを飲んでいる。


「ダブルメンチカツ定食より?」


【あれ完食したら微妙な顔されたんだよ。ここのサンドイッチは確かにおいしかったけど、あんな量で足りるわけないじゃん。3人前いるよ】


 円佳さんはちょっとお怒りだった。

 のんきに食べ物の話をしている僕たちをよそに、美門が鋭く切り込んでいく。


「――どうして姉と別れてしまったんですか」


「俺にはたぶん、円佳の優しさや明るさが、まぶしすぎたんだろうな」


 元カレは窓の外を向いて目を細める。真夏の日光に照らされた屋外のまぶしさと、彼の言う円佳さんのまぶしさを、あたかも重ね合わせているかのような仕草だった。意図的だとしたらとんでもない演技派だ。


 あんな物憂げな表情を見せられた日には、なんて健気な人なの、わたしが支えてあげないと、みたいな気持ちになる女性がいてもおかしくない。


【ウソ、もっと大人しいやつだと思ってた、って他の人に愚痴ってたの聞いたよ】


「今は、後悔しているよ。でも俺たちは前を向かなきゃいけないからね。……美門ちゃんも、まだつらいのなら、どうだろう、ときどきこうして会って、思い出話を語り合っていたら、気持ちが落ち着くかも――」


「姉はまだいますよ」


「……そうだね」


 元カレは痛ましい顔をする。


「あの辺りに」


 美門は何もない場所を指さした。


 その指先は本当に円佳さんを指し示しているのだが、しかし元カレはどこか呆けたような表情を浮かべていた。何言ってんだこいつ、と口には出さないものの表情が物語っている。


「……でも、元カレさんには見えないんですよね。それならもう、語り合うべき思い出も、話し合うべき未来もありません。貴重なお時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」


 美門は立ち上がってお辞儀をし、千円札を置いて店を出る。僕はまた1分ほど時間をずらし、会計を済ませて店を出た。


 去り際に見た元カレの表情は豹変していた。


「チッ、あわよくば食えると思ったが、ありゃダメだ、病んでやがる」


 と耳を疑うような言葉を吐き捨てる。


 店を出るとき、円佳さんが元カレのスマホをのぞき込んで、


【ミカちゃんのアドレス消してたよ】


 と教えてくれた。それはなにより。



 ◆◇◆◇◆◇◆◇



「ありがとう」


 喫茶店の外で日傘を広げて待っていた美門に礼を言う。

 姉の元カレと接触するというだけでも気が乗らなかったろうに、その上、1対1で反吐の出るようなでたらめな話に付き合ってくれた。それに対する感謝だった。


「あなたのためじゃないわ。お姉ちゃんの名誉のためよ」


「それでも、安心できたからさ」


 美門の行動は僕にとってもありがたいものだった。元カレのろくでもない本性を白日の下にさらすことで、僕が抱いていた劣等感を取り除いてくれたのだ。

 円佳さんはまだ相手に未練が残っているのではないか、という不安はきれいに消え去っていた。


 円佳さんは、元カレへの未練はないとはっきり口にしていたが、それだけではきっと、モヤモヤした感情はぬぐい切れなかっただろう。一連のクズ男ぶりを目の当たりにしたおかげで、ようやく、元カレの存在を意識する必要がなくなったのだ。


 それは裏を返せば、恋人の言葉でさえ完全には信じられないということで。自分がこんなに疑り深いやつだとは思わなかった。


「あなたって本当に卑屈よね」


 妹が呆れ顔でため息をつけば、


【慎重で注意深いだけだよ、ねえ?】


 姉は笑顔で呼びかける。


 否定されても反発できず、フォローされても頷けない。

 居心地の悪い両手に花状態だった。


 心に引っかかっていたものが、ひとつ解消されたのは良しとしよう。

 本来の目的も果たされた。


 しかし、その結果は決して良好とは言えない。


 円佳さんを視える人を探しに大学まで来たのに、成果はゼロ。

 だというのに円佳さんは傷ついた様子もなく、相変わらずほほ笑んでいる。


 笑顔でいるべきではない状況でも笑顔を張り付けているこのひとに、何かしてあげたいと強く思った。もはやどうにもならないことはわかっている。姿が見えて言葉を交わせても、触れることはできないのだから。


 それでも、せめて、何か、


「――円佳さんは、やりたいこととか、行きたい場所とかってありますか」


【どうしたの? いきなり】


 透明な笑顔をかたむける円佳さん。


「いきなりじゃないです。むしろ遅すぎたくらいで。本当なら、出てきたあの日に聞かなきゃいけなかったのに」


【別に気を遣わなくてもいいんだけど……】


 円佳さんは言葉を切って、ちらりと妹の方を向いた。


【……それじゃあ、ちょっとだけ、お言葉に甘えちゃおっかな】

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