06.キャンパスライフの幻
――あの日。
美門からの電話は、アルバイトの休憩中にかかってきた。
そもそも美門から電話がかかってくること自体が珍しいのに、そのときは不在着信が5件もあって、ディスプレイを見ただけで、何かよくないことがあったのだと察せられた。
動機が早くなるのを感じながら、折り返しの電話をかけようとした、その瞬間にスマホが震えた。
『落ち着いて……、落ち着いて聞いてほしいんだけど』
現実はこちらの想像をはるかに超えて最悪だった。
世界が滅ぶのと同等の悪い報せだった。
『今、病院にいるの。電話で呼ばれて。わたしと母も。事故だって。お姉ちゃんが事故に、遭ったって。父はこっちへ向かってるところ。それで――』
霊安室と呼ばれる場所へどうやって辿り着いたのか記憶がない。病院の人に案内されて、二人で向かったが、順路はまったく覚えていないのだ。方向感覚には自信がある方だが、もう一度行こうとしても無理だと思う。近しい者が亡くなった人間にしか道が開かれない、そういう場所なのかもしれない。
骨組みだけの素っ気ないベッド――ストレッチャーというやつだ――その上に白いシーツがかけられて、人が寝ころんでいる程度に膨らんでいた。頭の部分には白い布がかぶせられていて、僕と美門は並んで、医師の手によってその布が外されるところを見ていた。
眠っているようにしか見えなかったが、呼びかけたり、身体を揺さぶったところで目覚めることはない。
それは理解できた。希望はない。この場の空気に思い知らされる。
医師に確認を取って手に触れさせてもらった。
そのとき、あまり強く握らないように、と注意を受けたのが印象的だった。
もう
そういう意味だと勝手に受け取って、円佳さんを失った事実に沈み込んでいく。
触れた手は絶望的に冷たかった。
――その冷たさの記憶が引き金となって目が覚めた。
約束を思い出してスマホの時計を確認する。
まだ午前の3時過ぎだった。
クーラーをかけているのに身体じゅうが汗で濡れていた。心臓も激しく脈打っていたが、寝ころんだまま天井を見上げていると、徐々に動悸は落ち着いてくる。
円佳さんが亡くなった当時の夢を見たのは久しぶりだ。ここ最近ではぱったりと見なくなっていたのに、どうしてだろう。やはり円佳さんの幽霊のせいだろうか。
種別としては悪夢だが、まだ記憶が鮮明だったことは少しうれしかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
七月の日中の熱気は地獄じみている。アスファルトからは陽炎が立ち昇り、大学の建物を揺らめかせていた。
今日の目的地である伯鳴大学は、円佳さんが生前通っていた地元の国立大学だ。
美門はすでに待ち合わせ場所である正門前で待っていた。白地にブルーの花柄があしらわれたロングのワンピース姿に、真っ白な日傘をさしており、遠目にもよく目立つ。
そんな避暑地のお嬢さまファッションの美門に近づくと、すぐに円佳さんも姿を現した。
「お姉ちゃんの格好、見てるだけで暑くなるわね……」
美門がハンカチで汗を拭きながらぼやく。
円佳さんの服装は、相変わらず桜色のダッフルコートのままだ。その格好は変えることができないらしい。それでいて暑さを感じることもないのか、涼しい顔で大学の敷地を見回している。
【3か月以上ぶりなのに、ぜんぜん、久しぶりって感じがしないなぁ。花壇に生えてる花とか見てると、季節の変化は感じるけど】
円佳さんの体感――というのも妙な言い方だが――では、亡くなってからほんの数日しか経っていないのだ。あまりにあっけらかんとした物言いが、かえって心配になる。
事故の瞬間などは覚えていないのだろうか、痛みは感じなかったのだろうか。そんな余計なことを考えてしまうのだ。
そして、僕はそういう感情が顔に出やすいらしい。
【ありがと、心配してくれて】
円佳さんはにこりと微笑む。
「なんのことですか」
【事故のこと、気にしてくれてるんでしょ。大丈夫、ぜんぜん痛みとかなかったから。車が近づいてくるのが見えて、一応、逃げようとはしたんだけど、間に合わなくて……、最期に見た光景が、キミがくれたネックレスが宙を舞っているところだったのは、とてもよく覚えてる】
円佳さんは視線を落として胸元に手をやる。ネックレスはかかっていない。
【なくなっちゃったのかな】
線香花火の芯が
そのしんみりした空気を吹き飛ばしたのは美門の言葉だった。
「突っ立ってないで、早く中に入りましょ。暑すぎて倒れそう」
【ミカちゃんは深窓の令嬢だもんね】
「円佳さん意味わかって言ってます?」
「ちょっとどういう意味よ」
二人と一幽霊でそんなやり取りをしつつ、円佳さんの先導で大学内を見て回った。
この大学訪問の目的は、現在の幽霊となった円佳さんが、大学の友人にも見えるのかを確かめるためだ。
また、ついで程度ではあるが、僕と美門にとっては大学見学の意味合いもある。
二人ともここが第一志望だった。
休日だが学生はそれなりに目についた。リクルートスーツを着たきちっとした身なりの人がいるかと思えば、部屋着みたいなラフな格好の人もいる。そんなところにも大学という場所の自由さを感じた。
講堂に入ってその広さに驚く。高校の一般教室なら3つか4つくらいすっぽり入るのではないか。座席数も百どころではなく、ひな壇のように階段状になっていて、映画館を連想させる作り。居眠りや代返が横行するわけだ、と納得する広さであった。
【こういうところでやる講義って、だいたい内容を忘れちゃうんだよねぇ。教授の雑談が面白くて、そういうのは覚えてるんだけど】
円佳さんはどうでもよさそうに語っていたが、ある場所へ近づくと急に声がいきいきと弾んだ。
【ここの学食おいしいんだから】
我がことのように自慢げな口調だった。ぜひ食べていって、と言いたげな様子で、僕も美門もそれを察していたが、もう何も食べられない人の前で食事をとるのは、さすがに
【特にダブルメンチカツ定食がオススメで――】
「ダブルメンチカツ定食ってビジュアルだけでもう女子の食べ物じゃないよね」
窓辺の席から、円佳さんのオススメを全否定する声が聞こえた。そちらを振り向くと、学生と思しき若い女性の3人組がテーブルを囲んでいた。
美門がぽつりと声を出す。
「あの人たち……」
「知ってる人?」
「お姉ちゃんのお友達。葬儀にも来てくれてた」
「そうか」
僕は葬儀のときの記憶すらあいまいなので、彼女たちの顔も覚えていない。
半透明の円佳さんがふらりと歩み出る。3人の席へ近づこうとして、だけど数歩進んだところで足を止めた。どんな顔をしているのか心配だったが、角度的に表情は見えない。
「あんなカロリーの塊を食ってたくせに、ぜんぜん太らなかったよな、あいつ」
「そんなことない。おっぱいが肥大化していた」
「うそ、メンチカツに豊胸効果があるの? 円佳め、なんで隠してたのよ」
「いやまず乳のサイズ把握してることに突っ込めよ」
息の合ったやり取りを交わしていた3人だが、不意に言葉が途切れると、しんみりとした視線がぽっかりと空いた席に向けられる。たったそれだけのやり取りで、あの3人の中に円佳さんの記憶がまだ息づいていることがわかった。
うれしいのに、やりきれない。
円佳さんも喜んでいますよ、なんて陳腐な言葉をかけることはできないのだ。
「円佳さん」
【……ちょっと、行ってくる】
「大丈夫ですか」
【とっても怖いよ。でも、試して、確かめなきゃ、いけないから】
円佳さんは地に足がつかない幽霊のくせに、しっかりとした足取りで3人のテーブルへ向かう。
前進する円佳さんとは逆に、美門がじりじりと後ずさりをする。
僕は美門の手を掴んだ。
「離れたらダメだよ。円佳さんが消える。確認ができなくなる」
「こんなの、確かめない方がいいわ」
「検証の話を始めたのはミカじゃないか」
「それは、そうだけど……」
美門は気まずそうに顔を背けていた。自分から言い出したくせに、今さら怖気づいてしまったらしい。口調は険しいのにけっこう小心なところのある、美門らしい態度。それはそれでギャップをかわいらしく思うこともあるが、この場面だけは、逃がすわけにはいかなかった。
ここで出る結果は、どちらに転んでも重い。
円佳さんだけではなく、僕や美門にとっても、重い意味を持つものだから。
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