赤色の重量超過

筆入優

1 透明な肉体

 谷本は海岸線を歩く少女を見つめながら考える。太陽光線に焼かれた砂浜は、海岸線ではぬるいであろう。どちらにせよ、サンダルを履いている少女には無関係の話だが。


 少女の、線をなぞるような足取りは、谷本に優雅な休日を想起させた。休日ほど美しいものはないと思っていた谷本だったが、その常識は、たった今、打ち砕かれた。彼は少女の元へ向かい、拍手を送る。


「君が海を歩くと、絵になるね。斎藤君」


「博士、お世辞は嫌いだったのでは?」


 斎藤は潮風に靡いた長い白髪を抑えながら言う。研究所メンバーの中でも、表情豊かなのは、彼女と谷本だけだ。他は死に物狂いで働いている。いや、研究に没頭するあまり生きることを忘れていると言うべきか。谷本は死んだ父親の意志を継いで研究しているから、どんな過程を経て研究員たちがあんな状態まで落ちたのかは知る由もない。


 谷本の父親は研究熱心な人間だったが、息子の谷本と斎藤はそういった人種ではなかった。二人に生活力が無く、できることが研究しかないので、ぼんやりと続けているだけだ。そのくせ、谷本の論文は頭一つ抜けている。研究関連の受賞歴もないではない。天才と呼ぶには及ばないが。


「素直に受け取るべきだよ。それとも、本心とお世辞の見分け方について研究でもする?」


 谷本は下手くそな笑みを浮かべた。


「興味はありますが、人間の気持ちとは、研究するものなのでしょうか? するだけ不毛ではありませんか?」


「どうだろうね。研究というか、考察?」


「人はいつも考察しあいながら生きています」


「一理あるね。そんなことより、斎藤君。腹が減らないか?」


「そんなことって……。博士、今さっきの会話は有益ではないのですか?」


「三大欲求に勝る研究内容など、存在しないよ」


 谷本は、白衣のポケットからカップ麺を取り出した。


「ここに来るまで、ゴソゴソ音がするなあと思っていました。まさかカップ麺を入れていたなんて……」


 斎藤は開いた口が塞がらない。


「斎藤君」


 谷本は真剣な眼差しで尋ねる。「海水でカップ麺は作れるか?」


「沸騰させればできますけど……塩辛くなりそうです。それ、何味ですか?」


「味噌」


「体に悪いですよ?」


 斎藤は心配そうな顔で谷本を見つめる。


「ところで、カップ麺に注ぐ湯は、本来は味を薄めるために注ぐものだ。海水で作るとき、塩味が足されるのは、変な話だと思わないか?」


「もっとマシな研究をしてみては?」


  *


 研究所は相変わらず殺気立っていた。入って右側のスペースで研究員らが虚ろな顔で作業をしている。谷本にも斎藤にも、ここをブラックな労働時間に設定した覚えはない。谷本が父を継いだ時には既にこの有様だった。


「帰りました」


 二時間ならぬ昼休みのバカンスを楽しんだ二人がそう告げるも、返事はない。もしも何か言葉が返ってきたら、翌日と言わず、すぐにでも天変地異が起きるだろう。

 二人は、それぞれのデスクに着いて作業を開始する。外部から届いたメールなどの整理も二人の管轄だ。


「あの、博士……」


 谷本に話しかける青年がいたが、彼は応答しなかった。普段、斎藤以外の研究員が話しかけてくることは少ない。彼は疲労による幻聴か何かだと思っていた。

「博士、呼ばれていますよ」


 斎藤が一声かけると、谷本の肩は小さく跳ねた。向かい合って作業をしている斎藤に、顔を向ける。


「横。新人の真田君です」


 谷本は視線を横に移す。短髪の青年が立っていた。


「真田です」


「ああ、君か……どうか真田君と斎藤君は、あんな風にならないでくれよ。僕の話し相手がいなくなってしまうからね」


 谷本はガラスの壁で仕切られた部屋に目を向ける。研究員らは虚ろな目で、しかし熱心に研究に取り組んでいる。真田は顔を引きつらせた。苦笑をして、本題に入る。「少し、いや、かなり大きめの相談事がありまして……」


「そういうことなら、場所を変えたほうがいい?」


「ここで構いません」


 真田は神妙な顔で言う。面倒事か、と谷本は直感した。


「まず、謝らなければなりません。俺の体調不良は、嘘でした。本当は、彼女と家にいたんです」


 斎藤は噴き出しかけたコーヒーをなんとか飲み込んだ。咳込む彼女を横目に谷本は言った。「はぁ、ちなみに、わざわざ連絡など寄こさなくても、ここにはいつ来てくれても構わないのだが……。それで?」


「彼女が消えたんです。失踪ではなく、物理的に。まるで、透明になってしまったみたいに」


 冷房とは異なる寒気が谷本と斎藤を襲った。時計の針は正午を指している。怪談話をするには早すぎる時間だ。


「詳しく」


 研究以外の面倒事は負いたくない谷本だが、何かが起こりそうな予感に血が騒いだ。鼻の穴を膨らませる彼を見て、斎藤は目を細めた。


「俺の父親が、三田開発に勤めているんです」


 三田開発とは、何度か接触したことがある。谷本が先ほど整理したメールにも、その名があった。

「三田開発では即席彼女という商品を開発中で、俺は父の息子ということで、実験担当になりました。一年間、即席彼女と付き合ってみる。ただそれだけです。くれぐれも内密にお願いしますね。未発表の商品ですから」


 真田は声を潜めて言った。


「商品について、詳しく」と谷本。


「即席彼女は、オーダーメイド形式の商品です。誰しも、理想の彼女像をお持ちでしょう?   


 その願いを叶えるべく作られた、頭からつま先まで客がメイキングできる商品です。出来上がった即席彼女は紙にプリントアウトされ、客の元に届きます」


 真田は続きを話そうと口を動かしたが、谷本の笑い声に遮られた。「待ってくれよ! 真田君、まさか、二次元の女の子と付き合ったと言うのか! 冗談もほどほどに……」


「冗談ではありません。最後まで聞いてください」


 真田の神妙な顔つきに、さすがの谷本も口を閉ざした。しかし、谷本があんなリアクションをとるのも無理もない。実際、斎藤も上手く話が呑み込めずにぼうっとしている。


「即席彼女がプリントアウトされた紙は、愛を注ぐと膨らみます。そして、普通の人間と遜色ない形に変貌するんです。信じてもらえないかもしれませんが……」


 真田は自信なさげに言った。一度は谷本を制したが、やはり普通の人間には信じてもらえないと考えたのだろう。


「いや、信じるよ。もしも嘘だったら、その時は即席彼女のアイデアをこの研究所がパクるだけさ」


 真田は胸を撫でおろす。


「今から真田さんの家に行くんです?」と斎藤。


「まあ、そうするしかないね……」

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