第67話 あの子は、きっと

 自転車を走らせて優木の家へ。

 まさか三日連続となるとは思わなかった同じ場所に自転車を置いて、私は家のインターホンを押した。


 少し待てば玄関の扉が開いて、優木が顔を出す。

 その表情はまだ戸惑っているという感じだった。


「優木、大丈夫?」

「うん、突然の事で驚いているだけだよ」


 そう言いながら近づいてきてくれた彼は門を開けて私を中に入れてくれる。

 彼について、家の中に入った。


「お袋はもうリビングに居るから」

「うん……」


 少しだけ緊張しながら靴を脱いで綺麗にそろえる。

 それを待ってくれた優木に続いて、私はリビングへと足を踏み入れた。


「……ああ」


 リビングに入るなり、優木のお母さんが私を見て声を上げた。

 何だろうと思って思わず立ち止まってしまう、何かおかしなところでもあっただろうか。

 すると優木のお母さんは苦笑いした。


「ごめんなさいね、夜空に話をしようと思ったら聞いて欲しい人が居るっていうから誰かと思えば……やっぱりあなただったのね。さあ、座って」

「は、はい……お邪魔します」


 昨日、一昨日と訪れているもののそんなすぐに慣れることはなく、私はぎこちない動きで椅子に腰を掛けた。

 隣に優木も座って、緊張した面持ちを見せている。

 思わず、隣に座る彼の手の甲に自分の手のひらを重ねた。


「…………」


 驚いて私の方を見る優木。

 私は彼の目を見て、しっかりと頷いた。

 この前は優木が私の手を握ってくれたから、今度は私が握る番だ。


「……少し、ここで待っていて」


 優木のお母さんはそう言うと席を立ってリビングを出ていってしまう。

 後には手を重ねた私と優木だけが残った。

 二人きりの空間、しかし話をする気にはどうしてもなれず、静かに時間だけが流れていく。


 秒針を刻む時計の音がやけに大きく聞こえていた。


 どれくらいじっとしていたのだろうか、やがて音を立ててリビングの扉が開く。

 そして優木のお母さんが入ってきた。

 彼女の手には一冊のノート。


 席に座るときに机の上に置かれたので見てみたけど、年季の入っている古いノートのようだった。

 優木のお母さんはそれを優木の方に差し出した。


「……これは?」

「朝日の日記よ」

「…………」


 優木はそんなものがあるのを知らなかったのか、酷く驚いているようだった。


「覚えてないかもしれないけど、文字の練習になると思って日記をつけさせていたの。でも朝日が亡くなった後は私が預かっていたわ」

「……どうして……今になって……」


 優木の言いたいことは分かる。

 けれど優木のお母さんは真剣な表情のまま、口を開いた。


「読んでみて」

「…………」


 促されて、優木は自分の目の前に在る日記帳に視線を落とした。

 ゆっくりと、いや少し怖がるような手つきで右手を伸ばす。

 私が優木の左手を放したことで、彼は恐る恐る日記帳を手にして、そして最初のページを開いた。


 隣に座っているから、私も日記の中身が目に入る。

 文字だけの簡単な日記、拙い文字に、ほとんどがひらがな。

 でもしっかりと読み取れる。


 今日はお兄ちゃんと話をした。学校の事を話してくれて、嬉しかった。

 今日はお兄ちゃんのおもちゃで遊んだ。すっごく楽しかった

 お兄ちゃんにおもちゃを取られて、お母さんがお兄ちゃんを怒った。可哀そうと思ったけど、その後一緒におもちゃで遊んだ。


 書かれていることを纏めてみるとそんな内容ばかり。

 一ページ一ページの文字が大きくて、文字の量も少ない。

 だから優木は自然とページを進める手が速くなる。

 でもどのページにも必ず「おにいちゃん」の文字があった。


 そして日付を見るに、書いている日と書いていない日もあるようだ。

 優木は震える手で、でも一つ一つをしっかりと目を通して、読み進めた。

 書いてある内容には変わり映えのないものもあるけど、必ず「おにいちゃん」がいた。


 そうして読み進めて読み進めて。

 優木の手の震えが大きくなり始めたとき、見開きのページで日記の内容は終わった。

 右側にのみ文字が書かれていて、左側は真っ白。


 これが最後の日記だと、私もおのずと分かった。

 でも最後の日記も妹さんの……朝日ちゃんの楽しそうな文字が書かれていて。


 今日はお兄ちゃんのカードをこっそりと見た。バレたら怒られるけど、どれも凄かった。お兄ちゃんと一緒に遊びたい。


 という内容だった。

 最初から最後まで、ずっと「おにいちゃん」だった。

 優木の涙が、日記帳に落ちた。


「……あの日、私と朝日がカードショップに向かう途中で朝日は私に強請ったわ。お兄ちゃんと同じものを買って欲しいって。お兄ちゃんと一緒に遊びたいからって」

「朝……日が……」


 信じられないと呟く優木。

 そんな彼に、優木のお母さんは瞳を潤ませて頷いた。


「よく聞いて夜空。事故の原因の一端はあなたにあるかもしれない。でも私にだってあるわ。私だってすぐそばに居たのに、朝日を守れなかった。そのことは悔やんでいるし、朝日の事を一生忘れるつもりはない。でも……でもね? 朝日はきっとあなたの事を恨んでない。短い間だったけどあの子をずっと見てきて、あの子はあなたの事が好きだった。好きだったのよ。

 ……だから、私達に遠慮して全くわがままを言わなくなったり、誰かのために身を粉にして動くことはないの。自分を削ってまで何かをする必要はないの。幸せになっちゃいけないなんて、思わないで。朝日は絶対にそれを望んでないわ」


 優木のお母さんの言葉が、日記帳の朝日ちゃんの文字が、優木の心に突き刺さる様を見た。

 涙が、優木の両の目から流れる。

 さっき公園で流したものとは比にならないほどの涙が、流れる。


「だからもう、自分をこれ以上責めないで。あなたはもう十分に自分を責めたわ。もう前を向いて良いの。きっと朝日も、それを望んでいる。贖罪じゃなくて、笑顔の自分を覚えていて欲しいって、そう思っている筈だから」

「朝日……も……」


 うわごとのように呟く優木。

 けれど優木のお母さんの言葉が胸に染みているのは、見ているだけで分かった。

 優木の目を見ていた彼女は視線を再び日記帳に落とす。


「この日記帳もあの日の事も、あなたに伝えるべきかずっと悩んでいた。話すべきだとは思ったけどこれを話せば、あなたは自分を強く責めると思った。ただでさえ自分を責めているのに、もっともっと責めて……あなたが壊れてしまうかもしれないと……」

「……お母さん」


 思わず優木のお母さんの名前を呼んでしまう。

 彼女は優木を守ることで必死だったんだと、そう思ったから。


「あなたが落ち着いたら見せようと……話そうと思っていたらタイミングを失って……でも今日朝日に語り掛けているあなたを見て今しかないと思った。私でもお父さんでもあなたの心には届かなかったけど、今ならって……」


 そう言った優木のお母さんは、私の方を見た。


「あなたの心に入り込めた嵐山さんが居る今ならって」


 その言葉を聞いて、私は優木の方に体ごと向く。

 そして彼の左手に自分の両手を重ねた。

 優木が手の感触に気づいて、私の方を見る。


「やっぱり、そうだったんだよ」

「嵐山……さん……」

「やっぱり、妹さんは……朝日ちゃんは優木の事が好きだった……好きだったんだよ。だから彼女なら気にしすぎないでって、自分をいつまでも責めないでって、そう言うと思うよ」

「あ……ああ……」


 涙が、優木の目から溢れてくる。

 居ても立っても居られなくなって、私は席を立ちあがって優木の頭を胸に抱いた。

 優しく頭を撫でて、同じように涙を流しながら彼の心に届くように言葉を紡ぐ。


「良かったね……こうして話せて……朝日ちゃんの日記を、朝日ちゃんの事を知れて……」

「うん……うんっ……っ……」

「きっと……ううん、絶対朝日ちゃんも喜んでくれているよ。良かったって。お兄ちゃんが知ってくれて、知っても自分を責めないでくれて良かったって」

「っ……ありがとう……ありがとう嵐山さんっ……」

「ううん……っ……私も……嬉しいからっ……今優木が良かったと思ってくれているのに少しでも力になれて……本当に……っ……嬉しいから」


 優木の手が、彼の頭に回る私の腕を掴む。

 けどそれは外そうとしているんじゃなくで、回っている腕を確かめるような形だった。

 そうしてお互いに涙を流す私達を優木のお母さんもまた涙を流して、けれど笑顔で見てくれていた。


 この日、ようやく優木は過去の事故に対して、朝日ちゃんに対して、少しだけ前を向けた。

 長い時間がかかったし、これから優木が朝日ちゃんの事を忘れる日はないだろうし、忘れるべきでもないだろう。

 でも前を向けたのは大きな前進だった。


 そしてそのきっかけに、一部になれたことを、私は生涯で一番誇る。

 最愛の人の助けになれたことほど、私自身にとって嬉しいことはないのだから。

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