第16話 再起をかけて
コールセンターでの日々は、正義の代弁者とばかりに声を張り上げるカスタマーどもと、どうにか固定費を削って会社を守りたい経営陣どもとの間で削られる日々だった。
一生分の「申し訳ございません」を発音し続けるうちに、葉介の口数はぐっと減った。夫として父親として、仕事上の不愉快はいっさい家に持ち帰るべきではないという理屈ではあったが、ひと度口を開けば取り戻せない栄光を縷々と語り出してしまいそうで、どちらかと言えば自分のために葉介は足元だけを見つめることにした。
「自分の運の悪さを家族に当たり散らすぐらいみっともないことはないですからね。とにかく家族を養っていくことだけに集中して余計なことを考えないようにしていました」
情けなさが込み上げてくる前に葉介はさっさと笑ったが、しかしその言葉尻を捕らえたN氏から思わぬカウンターパンチをお見舞いされた。
「どうしてご家族にあなたの苦しみを共有しなかったのですか?なにが自分だけの劇場ですか!その正義を娘さんたちに胸を張って言えますか?」
薄ら笑いが消えた。挫折も憤りも全てひとりで背負い込み、家族には何も共有しようとしなかった。それは夫として父親として正しかったと言えるのか。その追求に葉介は口をつぐんだ。
「娘さんたちがあなたの真似をしてイジメに遭っていることをひとりで抱えていたらどう思いますか!」
言い返しようのない正論だ。
葉介は「運が悪かっただけ」とつぶやくことで、痛みや苦しみと直接向き合わないように生きてきた。コールセンターでも40過ぎの所帯持ちが派遣社員なんてとウワサされていることは知っていた。人は他人の見えない部分をゴシップで埋めたがるものだ。「いいえ、コロナ前まで豪華客船でマジシャンとして活躍していたんです」などと答えれば、結局は自分が傷つくことも痛いほど分かっていた。
もう「運が悪かった」と騙せるのは自分自身だけだった。家族も含めとにかく壁を作ることでどうにか崩れるのを必死に防いでいた。しかしそうしたプライドの高さが、やがて妻から離婚を迫られる原因になっていったことも含めると、果たしてそれは本当に正義だったと言えるのか。
しかしそうした図太さが評価されてか、コールセンターで働き始めてから1年後に馬喰横山にある合弁会社を紹介され、そこの薬局向け機器を取り扱う部署のチームリーダーとして迎えられることになった。
楽しかった。コールセンターで鍛えられた丁寧な対応や高いプレゼン力が、後日感謝の手紙として戻ってくることもあった。来る日も来る日も必死で学び、少しずつ会社にとってなくてはならない存在として信頼されるようになった。
あっという間に3年が過ぎ、いよいよ派遣期間満了まで3ヶ月というタイミングで、今度はそこの得意先であるシステム会社に移ることが決まった。
とりあえず契約社員からという立場ではあったが、ついに上場企業で正社員という道も期待できるポジションにまで来ることができた。
ショービジネスしか知らない葉介の社会的な価値を見出すのは困難だったと思う。しかしあちこち頭を下げてくれた上司のおかげでようやく人並みの暮らしを取り戻すことができる。卒業の日、「あなたのきめ細やかな対応力は必ず必要とされます」とみんなに送り出してもらった。
新しい職場となった44階の窓からは西新宿の高層ビル郡が見下ろせた。
かつてショーをしていたハイアットリージェンシーやヒルトンが眼下に見えた。マジシャンという天職を失ってから苦節4年、ようやくここまで這い上がってきた。過去の栄光を断ち切り、ふたたび家族を養っていけるという自信に胸が熱くなった。
ところが入社して間もなく、体に現れた小さな異変が葉介を黒い沼へと突き落としていった。
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