ひと夏の輝き

馬刺良悪

序章 7/27

 風の止んだ、静寂のひととき。コツコツと、まばらに通り過ぎる足音だけが聞こえる。

 どこかレトロな雰囲気を感じさせる木造の駅舎は、夕陽の淡いピンクに染まっていた。寂れている田舎の駅で、通勤ラッシュの時間帯なのに人の出入りは多くない。

 そんな駅舎を、わたしは近くの小さな公園から眺めていた。ぬるい絵の具の匂いに誘われて、ふと隣を見る。そこではスタンドに立てかけられたキャンバスに、泰輝くんが集中して筆を走らせていた。いつもの帽子を被って、もう片方の手にはパレットを持って。研ぎ澄まされた横顔が夕陽に染まっていた。

 ああ、いい時間。わたしは泰輝くんの絵ができあがっていく途中のこの時間が好きだ。キャンバスに静かに色がつけられていく過程を、そばでじっと見るのが好きだ。泰輝くんの真剣な横顔が好きだ。目の前に広がる景色が、どんな絵になるのか想像するのが好きだ。

 そして、その想像を遥かに越える絵が完成する瞬間が、たまらなく好きだ。

 胸がドキドキして、わたしは堪らず踊りだしたくなる。

 けれど、ぐっと我慢。あまり近くで動いたら、泰輝くんの集中を乱してしまう。

 そうして夕陽が沈み、すっかり暗くなった頃、泰輝くんがぐぐーっと背伸びをした。絵に一段落ついた合図だ。


「お疲れさま、泰輝くんっ。どう? 完成した?」

「完成したよ」


 泰輝くんは帽子で目を隠して答えた。帽子で目を隠すのは、泰輝くんの癖みたいなものだ。胸の中でわっと喜びが湧く。


「おおっ! 見せてっ」

「ここは暗いから、家に帰ったらな」

「ええ、今がいい! 今見たい!」


 わがままを言うと、泰輝くんは溜息をついた。


「しゃーないな。駅の明かりで見せてやるよ」

「やった!」


 駅の構内に生身の絵を持ち込むのはどうかと思ったので、駅前の自販機が密集しているコーナーで見せてもらうことにした。中途半端なネタバレみたいな形で見たくなかったので、ギリギリまで足元ばかり見ていた。


「見ていいぞ」


 眩しい自販機の前。泰輝くんが言ったので、顔をあげた――その瞬間、息を呑んだ。

 頭上を覆うように、淡いピンクと紫の空が広がっていた。公園の木々も古びた駅舎も、凪いでいる空気まで同じ色に染まって、世界が夕方に覆われていた。寂しい匂いが漂う。カラスが鳴きながら山へ帰っていく。わたしはゆっくりと息を吸って、全身で夕方の色を感じて、世界の一部になって――


 ふう、と長く息を吐いて、もとの世界に帰ってきた。夜空の下、目の前にあったのは、自販機の光に照らされた一枚の風景画だった。夕陽に染まった駅舎の絵だ。


「やっぱりすごいなぁ、泰輝くんの絵は」


 二時間の映画を一秒の間に体験したような余韻に浸りながら、感嘆の息を漏らす。何回味わっても新鮮で、胸の奥が震える。泰輝くんの絵でしか味わえない喜びだ。


 ――わたしと泰輝くんは数日前、この町で偶然出会った。きっとそれはまったくの偶然なのだけれど、わたしはどうしようもないくらい強く、運命めいたものを感じた。

 ずっと探していた何かに出会えたような。これに出会うためにここに来たような。

 あるいはただ単に、泰輝くんの絵に一目惚れしてしまっただけなのかもしれない。

 自分でもわからないけれど、ここで一つだけ確かなことがあるとすれば――


 泰輝くんの絵には、見た人をその中に引き入れる力がある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る