第4話 今日の宿が決った 古い民家を改造して作った民宿
「このお店って時計が無いんですね」
梢は初めて来た店なのに、なぜかここでは何でも平気で聞ける気がした。
「時計?ああそういうの置いてた時も昔はあったなあ」
店主は、時計という物の存在など忘れていたという感じで答えた。
そういうばこの人は腕時計もしていないと気がつく。
つい最近まで梢はカフェに勤めていたので、店を開ける時間、モーニングの時間、ランチの時間と区切って、出すメニューも変えないといけないので時間は常に気にしていた。
マスターもママも、常連のお客さんには少し融通をきかしたりする人だったけれど。
それでも一応時間は決まっていた。
(ここって何から何まで他と違う)
「この奥が家なんやけど、そう言うたら家にも時計ないわ」
店主は笑いながらそう言った。
「ここは開ける時間も適当やで」
カウンターに座っていたお客さんが言う。
「適当に開けて適当に閉めるんや」
「それで誰も困らへんしな」
外は歩く人もまばらで暇になっている店も多いというのに、この店は満員だ。
時間をきっちり決めないこのやり方を、好きだという人が多いからこそ流行っているのだろうと思える。
「今日はどこか泊まり?」
向かいに座っている女性が梢に聞いた。
「泊まるとこ見つけて適当に泊まるか、泊まるとこ無かったら日帰りで帰るか決めてなくて。私もてきとうですね」
店の皆んなが笑う。
「それやったら俺らのとこ民宿やで」
帰ろうとしてさっき立った若い男性が梢の方を向いて言った。
「そうなんですか。嬉しい。ここの近くですか?」
「歩いて20分ぐらいかな」
「行きたいです。一泊っていくらなんですか?」
「素泊まりで3000円、食事2回付き5000円」
泊まるとしたらこれくらいまでと予定していた額より、少し安いくらいだった。
「行きます!」
梢はすぐに決めた。
さっきの野菜といい、ここの店に集う人達の雰囲気といい、心地良さしか感じない。
この感覚は大事だと梢は思う。
食事と水分補給を終えた巨大な犬は、まだ猫と戯れている。
「ファルコン。行くで」
年配の男性の方が声をかけると、犬がゆっくり立ち上がってこっちに来た。
あまりに大きいので最初はびっくりしたけれど、人懐っこい性質の犬のようで初対面の梢にも友好的だった。
「ファルコンなんですね」
古い映画が好きな梢は、映画ネバーエンディングストーリーに出てきた生き物の名前だとすぐ分かった。
そういえば似ている。
「なんかほんまに飛びそう」
民宿に到着すると、梢は荷物の中身を鞄から一旦全部出して、部屋に置いてあるカゴの中に入れ直した。
荷物は少ないとは言っても、泊まりの可能性を考えて2日分の着替えと洗面用具、水筒、お菓子、スマホ、筆記用具、スケジュール帳、タオル、財布、読みかけの本、雑誌など全部出して並べてみるとけっこうあった。
泊まっても2~3日と思っていたので、スーツケースを持ってくるほどでもなく普通の肩掛け鞄なのでかえって重かった。
まだ時間は早いし出かけようと思うけれど、この時間から部屋に入れて荷物を置けるのはありがたい。
ここは全部で8部屋あるそうで一人旅の人が多く、この日は梢以外にも5人宿泊客がいると聞いた。
古い民家を改造して作った木造の建物で、どっしりした木の扉を開けると広めの土間がある。
元はここが台所だったもので、改装した時玄関にしたのだと教えてもらった。
この土間の先は、靴を脱いで一段上に上がるようになっていて、二階に向かう階段があった。
けっこう急な階段で、慣れないと少し怖い感じがした。
二階に上がると広い廊下の両側に、宿泊客用の部屋の扉が4つずつ並んでいる。
梢の泊まる部屋は一番手前、階段寄りの角部屋で窓が二つあった。
窓の外には遮る建物もなく、遠くまで景色が見渡せる。
窓を2つとも開けると、気持ちよく風が通った。
この部屋の窓は大きく、天井が高めで解放感がある。
部屋はフローリングの六畳間で、木製のベッド、小さな木製のテーブルと椅子が置いてあり、エアコンも付いている。
共同浴場もあるらしいが、部屋で済ませたければユニットバスもあり、小さな冷蔵庫と電気ポットもある。
クローゼットも大きめで、長期連泊の人にはきっと嬉しいだろうと思われる部屋だ。
一人暮らしの自分のアパートよりずいぶん豪華だと思って、梢は大いに満足だった。
食事つきの2泊分の料金を先に払ったが、これで二泊一万は安いと思う。
部屋に着いた時、焼き菓子と冷やした麦茶を出してくれて、それもとても美味しかった。
もう一つ気が付いた事は、さっき行ったカフェと同じくここにも時計が無かった。
時間を忘れて楽しんで下さいという意味なのかなと、梢は思った。
そして、ビジネスホテルでも旅館でもほぼ絶対に置いてあるテレビがここには無かった。
インターネットの使用は不自由なくできるとの事なので、普段からテレビを観ない梢にとっては何の問題もない。
ここに着くまでの途中、今日会ったばかりの二人と自然に話が弾んだ。
最初この二人は親子かなと思ったがそうではなかった。
年配の男性の方は、喜一といってここのオーナー。
豊かな白髪で、口髭と顎髭を生やしている。
この年齢の人にしては珍しく背が高くて、がっしりとした体格だった。
服の上からでも分かる筋肉の盛り上がり、背筋を伸ばして歩く姿から、年齢による衰えは全く感じられない。
体も声も大きくて豪快な感じの人だけれど、不思議と威圧感は無くて話しやすい。
親の代からこの地域に住んでいて、数十年前に、空いていた古い建物を買い取って民宿を始めたということだった。
若い男性の方は、健太といって梢より少しだけ年上だった。
喜一と同じくらい上背があって、体格はもう少し細いけれど筋肉質。
特別にイケメンというわけでもないけれど人懐っこい笑顔がとても魅力的で、すごく感じがいい人だと梢は思った。
健太は施設の出で親はいない。十代から一人暮らしだった。
その頃からずっと飲食店で働いてきて、三年ほど前にこの民宿に転職。住み込みで働いている。仕事は主に料理を担当していた。
この二人の関係は、オーナーと従業員というより対等な友達のように見えた。
実際、社員として健太が雇われているのでもなく、その日その日売上の中からお金をもらっているとのこと。
今の世の中で一般的な会社の形態とは、何か違う感じだった。
健太は喜一に対して、一応さん付けで呼ぶ程度で敬語すら使わない。
でもそれが何とも自然な感じで、喜一もその方がいいと思っているのが分かった。
この二人以外に、ここにはもう一人住み込みの少年がいた。
梢より4歳年下のその少年は侑斗といって、今年からここで働いていている。
梢達が着いた時、侑斗が留守番でここに残っていた。
侑斗はこの年齢の少年の平均的な体格よりは少し小柄で細身。
それでも筋肉はしっかり付いていて、よく日に焼けて健康そうに見える。
健太と同じ施設の出身。
健太がここを紹介したということだった。
侑斗と健太の間も対等な感じで、侑斗は健太に対して一応「健太さん」と呼びはするけれど敬語も無し。
家族のような、友人のような、それでもお互いにあまり干渉はしないあっさりした関係のようだ。
それぞれが自由に自分の得意な事をやっていて、それでうまく成り立っている。
民宿の仕事はやる事が多い。
駅からここまでの客の送迎、客室と共有スペースの掃除、畑の世話、外の掃除、洗濯、料理、後片付け、花や観葉植物の世話など。
外での、野菜や自家製漬物の販売もしているので、三人で回してもけっこう忙しいらしい。
コロナ騒動が始まって一時期は少し暇になったが、また客足が戻ってきて今ではほぼ満室近い日が続いている。
健太がここで働き始めたきっかけは、旅行に来て客としてここに泊まったことだったというのだから、人生何が起きるか分からないものだと梢は思った。
梢を部屋まで案内した後、喜一は民宿の裏の畑で収穫した野菜を車に積んで売りに行くと言っていた。
健太は、これから夕食の仕込みに入るらしい。
梢は、鞄に必要最低限の物だけ入れて、部屋の鍵をかけて出かけた。
鍵は昔ながらの作りとものだったが、なんだか鍵さえかけなくても大丈夫そうなほど、のどかな雰囲気の場所だと思えた。
ホテルのフロントのような場所も無く、客室の棟とスタッフ住居は隣り合っている別棟で、宿泊客は勝手に鍵を持って出入り自由だった。
夕食は6時で、部屋で一人で食べたければ運んでくれる。
皆と食べたければスタッフ住居側の一階が食堂になっている。
風呂もそちらにあり、一般家庭にある風呂場よりも少し大きめの風呂で、宿泊客が順番に使うらしい。
1時間毎で予約できるので5時から風呂を使う予約をし、夕食は皆んなと食べたいから6時に行くと伝えてきた。
もし道に迷った時は電話してくれたらいいと言われているし、安心して出かけられる。
せっかくだから色んな場所に行ってみたいと思い、梢はさっき三人で歩いてきたのとは逆の方向に向けて歩き出した。
ここに来る前に軽く下調べをしていて、こっちに行けばたしか海が見られる方角だった。
しばらく歩いていくと、一番暑い時間帯の炎天下にも関わらず途中すれ違う人はやっぱり皆んなマスクを着用しているし、途中で見かける店の前にも感染対策の立て看板が目立つ。
今朝行ったカフェ、さっき三人で歩いてきた間は、そんな事は忘れていたのにまた思い出して現実に引き戻された気がした。
そういえば、よく思い出してみると三人で歩いている間も、すれ違う人がマスクを着用している事には変わりなかった。
でも不思議なことに、喜一も健太も人並み以上に声が大きいし三人で話しながら歩いているのに、誰にも注意されないどころか嫌な顔をされた事もなかった。
何と表現すればいいのか、すれ違う人達からは自分達の姿が見えていないのではないかと思えた。
梢は、一人で歩いている時ですら、マスクをしていないことでもろに嫌な顔をされたことがある。一体何が違うのだろうと思った。
夕食は何かなあなどと考えながら歩いていると、風に乗って塩の香りがしてきた。
海岸が近いらしい。
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