第10話 宮廷女医イヴォンヌ・セージライト

 結局のところ、半月以上経ってもクロードの境遇はさして変わらなかった。


 一回だけマダム・マーガリーにお呼ばれしたが、ただの夕食会だったため収穫はなく、アンドーチェが何かと宿まで世話を焼きに来てくれたため思考整理のための話し相手には不自由しなかったが、『行方不明のクラリッサ嬢』事件等の真相解明に関する進展はほぼなかった。


 せいぜいが、クロードがゾフィア中を散策して美味しいカフェを見つけたことと、興味本位でイアムス王国で流通するあちこちの新聞を買っていたおかげで新聞屋台の店主と仲良くなったくらいだ。


 古来より果報は寝て待てと言うが、いい加減クロードもゾフィア滞在がつまらなくなってきていたころ、ある変化があった。


 それは雨季も終わりに差し掛かる、夏の夕方のことだ。


 宿の部屋のランプに火が灯り、二階の角にあるクロードの住処と化した部屋にも宿の主人がやってきて、手持ちのろうそくから各所のランプに火を移していって、少ししたころ。


 備え付けの執筆机から顔を上げたクロードが背伸びをして、今日の夕食はどこで食べようかと思案していたら、部屋の扉がノックされたのだ。


 クロードが返答する間もなく、まだ姿の見えない来客は扉越しにこう問うてきた。


「失礼、Dr.ドクター・クロード?」


 それは、聞いたことのない重低音の男声だった。なのに、クロードの名を知り、わざわざ訪ねてきたのだから——怪しいことこの上ないが、クロードご指名で用事がある以上、居留守を使っても無意味だろう。何度も訪ねられても困る。


 クロードは少しだけ扉を開け、訪問者を覗き見る。


 ほぼ無意識に視線が捉えたのは、白髪まじりのアッシュブラウンの髪をした初老の男性だ。五十代に差し掛かったばかりくらいだろうか、昔は筋骨隆々だっただろう肩幅の広さに、少し緩んだいかつい顔立ち。マントを羽織った旅装の上からでもよく分かる体格のよさは、威圧感がある。さらには、眼光鋭い視線もまたクロードを見据え、何者かを見定めようとしていた。


 つまりは、相手もクロードとは初対面で、互いに警戒せざるをえない状況だ。


 だからと言って黙っていても埒が開かない。クロードはおずおずと尋ねる。


「……どちらさま?」

「イアムス王国王宮付武官のアルキスと申します」

「えぇ……? 何でそんな立場の方が、ここに?」

「私の護衛だからよ」


 突然クロードとアルキスの会話に入ってきたのは、打って変わって聞き覚えのある女性の声だ。


 クロードは目を見張り、男性の背に隠れていた二十代後半の女性——金髪の引っ詰め髪に、快活そうな大きな青の瞳、ジャケットの上に首に巻いた金刺繍の長い襟巻きを見れば地位の高い人物だと分かる——を視界に捉え、わざとらしく驚きの声を上げた。


イヴォンヌイヴ? うわ、真面目になって」


 つい半月ほど前に手紙を送った相手が、手紙を返さず本人が来た。


 それはお節介な元学友ならばありえなくもないが、それにしたって異常事態だった。


 イヴォンヌはふん、と鼻息荒く、胸を張る。


「私はいつだって真面目よ。だから、お馬鹿なアーニーへ忠告しにわざわざ来てあげたの」

「王都から? ロロベスキ侯爵領までどのくらいあると思っているんだ。手紙でも寄越せばいいのに」


 ところが、イヴォンヌからは意外な答えが返ってきた。


「あなた、ジルヴェイグのスパイじゃないの?」


 これは本当に、クロードにとっては意外な答えだった。もはや心外を通り越して呆れの表情が勝手に浮かぶ。


 イアムス王国の一大不祥事たる『行方不明のクラリッサ嬢』事件を探る、隣国ジルヴェイグ大皇国の学者。それだけ聞けば確かに怪しいが、しかしクロードはマダム・マーガリーに招待されてわざわざ来た身分だ。スパイなどありえないが、ありえないことを証明する手立てがないこともまた事実だ。


 とりあえずクロードは、ジト目で見てくるイヴォンヌからかけられたスパイ疑惑を否定した。


「違う違う。そもそも何で僕が? そんなことできるとでも?」

「どうだか。酒場の店員が隣領のスパイだったなんて話もよく聞くし、ある日突然貴族の家のメイドがいなくなることだってあるわ」


 その返答でようやくクロードは理解した。からかい半分、真剣味半分での確認だったようだ、と。


 宮廷女医としての栄達をほしいままにするイヴォンヌは、このイアムス王国に忠誠を誓う立場だ。当然、怪しい外国人に対しては、自国に害を与える人物ではないかと疑わざるをえない。


 もっとも、大学の旧友であるクロードのことをよく知るイヴォンヌがそんな建前を使うのは、同僚の王宮付武官アルキスの手前だから、という理由もあるのだろう。


 イヴォンヌはすぐに、軽口を叩いた。


「アルキスさん、事前に話したとおり、アーニーは頭は切れるかもしれないけど体はポンコツもいいところよ。何かあったって逃げられやしないわ」

「そのようですね……こほん、失礼」


 ちょっとこのアルキスさんは素直すぎて失礼じゃないだろうか、そんなクロードの思いはそっと胸にしまわれる。事実、クロードは根っからの運動音痴で、それを見抜かれただけだ。


 前置きは終えた、とばかりにイヴォンヌはのしのしと部屋に押し入ってきて、目についた椅子にどかりと座ってさっそく本題に入った。


「それで、解剖大好きすぎて医師失格の烙印を押された法医学者様は何をお望みなの?」

「人聞きが悪い。何? 僕にそんなに恨みがあるのかい? 帝立大学の主席卒業を邪魔されたから? いいじゃないか、次席だって立派なものだ。世間様はそう見てくれる」

「邪魔した人間が! 偉そうなことを言うんじゃない!」

「抑えてください、Dr.セージライト」


 怒りだしたイヴォンヌを、扉を閉めて部屋に入ってきたアルキスが冷静になだめる。


 クロードの安い挑発を受け流せず、プライド高くしっかり反応してくるあたり、やはりイヴォンヌだった。大学で成績を競い合っていたころと何も変わらない、少しばかり歳を取っただけのイアムス王国出身の才媛。


 彼女は優秀だ。女性としてのハンデをものともせず、すべてを跳ね除けて自らの道を突き進むタイプの芯の強い女性なのだ。Dr.の称号を得て、宮廷女医というハイキャリアをものにした彼女は、おそらくイアムス王国でも重宝されているだろう。


 そんな彼女に、下手に言い繕ってもすぐに看破される。クロードはわざわざ来訪してくれた旧友へ、聞けるだけのことを聞くべきだと心に決めた。


 アルキスに机のそばの椅子を勧め、自身はベッドの端に腰掛けて、クロードはイヴォンヌへ問いかける。


「隠し立てしたってしょうがないから、単刀直入に聞く。イヴ、クラリッサ嬢の白骨死体は見たかい? 僕はスケッチを見たんだが」


 すると、イヴォンヌは少しばかり慎重に答えた。


「ええ、私も見たわ」

「なら、あれが二十歳のご令嬢の白骨死体だなんて信じられないだろう」

「そうね」

「であれば? 君の見立てでは?」


 イヴォンヌはあからさまに舌打ちして、機嫌悪そうに眉をひそめる。


「この国で一番機微な問題に土足で突っ込んでくるあたり、あなた本当に人の嫌がることを進んでやっていくタイプよね」


 そんなことはクロードも承知の上だ。そして、そんなクロードの性分を、イヴォンヌもよく知っている。


 しかし、イヴォンヌはイアムス王国の代弁者とばかりに、を繰り返した。


。それがすべてよ」


 まったく、とイヴォンヌは苛立ちながらため息を吐く。


 少しだけ興が削がれたクロードは、嫌味を口にする。


「イヴ」

「何よ」

「君、老人の陰謀とかに加担するタイプじゃなかったと思うんだがなぁ」

「お生憎さま。今の私は公務員よ。給料をくれる人の言うことを聞く、悲しき宮仕えの身だから」

「うっわ、白々しい。ねえアルキスさん、絶対イヴは上の言うことを素直に聞いたりしないでしょう!?」

「ええ、まあ」

「ちょっと、余計なことを言わないで!」

「申し訳ありません」


 クロードとイヴォンヌのやり取りはいつものとおりで、初参加ながらアルキスの素直さがそれに拍車をかけて愉快になる。


 一応は、クロードもイヴォンヌの立場を理解しているし、イヴォンヌを窮地に立たせたいわけではない。彼女は名誉や地位に執着しないかもしれないが、故郷イアムス王国への忠誠心は確かにあるのだから、問い詰めても無駄だ。


 互いの引き際が分かったところで、クロードはを取り出す。


「じゃあ、旧友の顔に免じてこの話はおしまいだ。次、ドゥ夫人について教えてくれ」

「全然話が終わっていないじゃない」

「ほう? 、それは知らなかった」


 イヴォンヌの顔が歪む。しまった、と顔にしっかり書いてあった。


 イヴォンヌは誤魔化すように立ち上がる。


「嫌になってきた。アルキスさん、私の代わりに話してやってちょうだい。下の食堂でお茶をもらってくるわ」

「分かりました。お早いお帰りを」


 アルキスは年下のイヴォンヌを礼儀正しく送り出し、部屋の扉は盛大に叩き閉められた。


 イヴォンヌは決して悪人ではないのだが、少し、いやだいぶ、気が強いところがある。そうでなくては今の世の中で女性が多数派の男性相手に立ち向かうことはできないだろうが、それにしても気性が荒いのは本人も否定しないだろう。


 部屋に男性二人で取り残され、クロードは立ったままのアルキスへ不器用な愛想笑いを投げかけた。


「大変ですね、護衛という名のお目付け役も」


 王族の病歴など、王城内の個人情報を握る宮廷女医イヴォンヌは、この国の重要人物の一員だ。護衛の一人も付けなければならない——それは建前で、アルキスの本当の役目はお目付け役だろう。イアムス王国にとって不利益な発言をしないように、外国へイアムス王国の機密情報を漏らさないように、そんなところだとクロードは見ていた。


 アルキスがふっと渋く笑い、こんなことを言い出すまでは。


「そうとも限りません。おかげで王都を脱出できました」

「へえ」

Dr.ということです」


 真面目そうな武官の、意外な発言だった。アルキスは懐から封書を取り出し、クロードに手渡す。


「これを。ヴェルセット公爵家に繋がる伝手です、あとはお任せします」

「……なるほど、重大な任務だ」

「はい。では、、ドゥ夫人についてお話しします」


 これもまたクロードにとっては意外どころの話ではなく、結局はドゥ夫人についての話にきちんと軌道修正された。


 。もしこれが本物だとすれば、とんでもないことになったものだ。


 クロードは素早く封書をボロ鞄に隠し、イヴォンヌには決して見つからないよう、表情筋を両手でほぐしておいた。


 王城からの情報源が二人、宮廷女医イヴォンヌとドゥ夫人が背後にいる王宮付武官アルキス、求めれば応えられるように、クロードは『行方不明のクラリッサ嬢』事件の渦中へ——引き返すことのできない場所へと、飛び込んだ。

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