第6話 少年執事アンドーチェ
東屋での密談の翌日、クロードはロロベスキ侯爵家が出資して設立したという私立図書館群に出向いた。
ロロベスキ侯爵領都ゾフィアには、ロロベスキ侯爵家——多くはマダム・マーガリーが建てた無数の文化施設がある。劇場、庭園、美術館や博物館、多種多様な学校、それに図書館。どれも首都たる王都にあってもおかしくない巨大さと壮麗さを兼ね備え、内容の充実ぶりたるやジルヴェイグ大皇国にある有名大学の収蔵館にも比肩する。
そのことに、クロードははじめこそ驚いたが、感激する類の性分ではない。そんなことより、いくらでも知りたいことを知り、調べたいことを調べることができる、とその利便性と実用性の高さに喜んだ。一日かけて数館の図書館を巡って見極め、宿からも近く便利そうなカレヴィンスカ学術図書館を使うことに決めた。
使うとは、何に——当然、クロードの持つ疑問の答えを得るための知識を集める、そのために使う拠点を定めたのだった。
最初の疑問は、こうである。
「なぜロロベスキ侯爵夫人は『行方不明のクラリッサ嬢』にこだわるのだろうか?」
たとえクラリッサが可愛がっていた義理の姪だったとしても、かなり機微な問題に首を突っ込むことになる。そのリスクを背負ってでも解決、もとい納得いく真相を探りたい、その理由が他にあるのではないだろうか。
クロードはそう見たが、その答えは、自分から来た。
雨が降り続く午後、クロードはカレヴィンスカ学術図書館の閲覧室に赴き、ロロベスキ侯爵家について詳細記事の載った紳士名鑑を広げていた。
図書館は、ゾフィアでは珍しく石造りのドーム状の建物で、誰でも自由に閲覧できる開架には合計五つのドームが、さまざまな理由から閲覧に制限のある閉架はそれらドームに囲まれた高塔にある。閲覧室はドームにそれぞれいくつも付随する小部屋で、そこにも本棚の蔵書は天井まで詰め込まれている。
早朝から頑丈な黒オーク材で作られた大きな閲覧テーブルと椅子に張り付いたままだったクロードのもとへ、見知った客人が現れた。
気配に気付き、顔を上げたクロードが見つけたのは、マダム・マーガリーに付き添っていたあの少年執事アンドーチェだ。そんじょそこらの貴族の子弟より身なりがよく、清潔感ある執事服と首元の赤いシルクタイが目を引く。何よりも、とにかく中性的で端正な顔をした彼は、一度目にすればそうそう忘れられやしない。
何よりも、その瞳は珍しく、緑色をしている。キャスケット帽はその珍しい瞳を隠していたのかもしれなかった。
アンドーチェはクロードへ会釈し、微笑みかける。
「ここにおられましたか」
たおやかな口調は、アンドーチェを一層上品に見せる役目を果たしている。
クロードは背筋を正し、できるだけ気さくに対応する。
「やあ、アンドーチェ君、だったか」
「はい。宿の主人に尋ねましたら、この図書館にいらっしゃると聞いて。当面の滞在費をお持ちいたしました」
「わざわざすまないね。宿に預けておいてくれてもよかったのに」
アンドーチェはジャケットの懐から封書を取り出し、クロードへ手渡す。ロロベスキ侯爵夫人から預かったであろう封書のその厚みは、少なくない額の札束が入っていることは明らかだ。
しかし断る理由はなく、クロードはありがたく受け取るのみだ。そそくさとボロ鞄の奥底にしまい、待っていたアンドーチェにちょうどいいとばかりにこう言った。
「聞きたいことがあるんだが、今、時間はいいかな?」
「はい。談話室へ向かいましょう、個室があります」
アンドーチェに案内を頼み、クロードはボロ鞄を持ってついていく。利用者が少ないとはいえ、図書館の閲覧室で長話をするのはマナー違反だ。
ドームを出て、渡り廊下の先には高塔があった。魔法使いでも住み着いていそうな
暖炉付きの、ビロード絨毯といくつかのソファが並ぶサロン然とした談話室に入り、クロードは暖炉近くのソファにのそりと座り込んだ。アンドーチェも向かい合う隣のソファに座る。
さっそく、クロードは少しばかりの愛想を出して、アンドーチェへ話を切り出す。
「さて、アンドーチェ君は、昨日の僕の見解と同じことをすでにマダム・マーガリーへ答えていたようだが、君もそう思ったのかい? すごいね、その年齢でそこまで推察できるとは」
クロードとしては、アンドーチェを褒めたつもりだ。もちろんアンドーチェの持つ情報を聞き出す意図もあるが、まだ年端もいかない少年が三十そこいらの学者と同じ結論に至ったのだから、その思考力は純粋に称賛すべきだとクロードは思っていた。
ところが、アンドーチェは首を横に振った。
「違います」
「え?」
「私は、知っていただけです。クラリッサ・ジョセフィン・マーガリー・ヘイメルソンが
アンドーチェは凛とした雰囲気のまま、そんなことを言い放ったのだ。
果たしてそれは
クロードは慎重に、砂上での棒倒しの砂をどけていくように、アンドーチェへ質問する。
「というと……クラリッサ嬢とどこかで会ったとか?」
「いえ、記憶にはありません」
「うん? 奇妙な言い回しだが、どういうことだい?」
「その前に、クロード様は『クラリッサ』についてどれほどご存知でしょう?」
ふむ、とクロードは腕組みをして、
「ヴェルセット公爵家のご令嬢で、幼いころ公爵家へ養子に迎えられ、第一王子であるデルバート王子の婚約者だった。しかし、あー……王城での
そう言いつつ、クロードがアンドーチェの顔色を窺うと、自分の認識がさほど間違っていないらしいことが分かって安堵する。
「新聞情報だが、これで合っているかな」
「はい、おおむねそのとおりです。ですが、失踪当時からイアムス王国各地では彼女を見たという騒ぎが絶えませんでした。失踪しても生存を強く望まれるほど、彼女は人々に愛されていたのです。加えて、ヴェルセット公爵家が彼女の生存を裏付ける情報には多額の懸賞金を出すと公布したため、国中をひっくり返しての大捜索が続けられました。たとえ王族がいなくなっても、あれほど探し回ることはないでしょうね」
アンドーチェは皮肉たっぷりだ。クラリッサの失踪当時、同時期にほぼ表に出てこなくなったデルバート王子が誰にも探されていなかったことと合わせて、確かに皮肉な様相を呈していた。
案外
「つまり、実家であるヴェルセット公爵家は彼女の行方も、その死も知らなかった、ということかな」
「そうなります。完全に蚊帳の外に置かれていたようなもので、国王から多額の婚約違約金を受け取ってのち、ほとんど王家と関わりがありません。あの事件以降、ヴェルセット公爵領は半ば独立国として存在しています」
「ふぅむ、まあ、感情的には許せないだろうな……デルバート王子はその、
「国民からは蛇蝎のごとく忌み嫌われていますね」
「は、はっきり言うなぁ」
「名代として働いてきた婚約者を死に追いやり、隣国から連れてきた皇女とも結婚できず、今ではソルウィングダムの離宮に閉じこもって酒浸りと聞きます。遊ぶための小銭稼ぎにゴシップをばら撒くのもしょっちゅうですよ。王位を継ぐのは来年十五歳の成人を迎える第二王子か、まだ幼少の第三王子ともっぱらの噂です。もっとも」
アンドーチェは、声をひそめた。
「今の王城を取り仕切るのは、ドゥ夫人です」
「ドゥ夫人?」
聞き覚えも聞き慣れもしない、唐突に会話へ登場した人物名に、クロードは首を傾げる。しかし、アンドーチェはクロードの無知を責めはしなかった。
「ご存じないのも無理はありません。あの事件以降、王城の政治は秘密主義になってしまいました。選ばれた官僚たちと大臣たち、それに一部の王族だけが国政の舞台である
「それは……国王の怒りを買ったとか、そういうことがあって?」
「詳しくは分かりません。ヴェルセット公爵に国を乗っ取られないようにするための苦肉の策だったとか、クラリッサを崇拝していた官僚たちが二度と悲劇を起こさないためにその仕組みを作ったとか、巷を飛び交うのは定かではない説ばかりです。その中で、ドゥ夫人は国王の公妾として政治に参加しているそうです」
「それは確かな情報なのかい?」
「いいえ。誰も、ドゥ夫人が一体何者なのか、知りません。実在の人物なのか、どこの貴族の家の出なのか。こうも聞きますね、「王族ですら会ったことがない」と……これはデルバート王子の放言ですので、それ自体も信用なりませんが」
何ともはや、正体不明の人物、それも女性が王城の政治の舞台にいるとなれば——クロードの想像が口から突いて出る前に、アンドーチェは先手を打った。
「ああ、外見の情報は出ていますよ。ある官僚の話では、ドゥ夫人は総白髪の、老境に差し掛かるくらいの女性だそうです」
「そ、そうか。ならクラリッサ嬢じゃないな」
「はい、その説もあったことにはあったのですが、顔は似ても似つかないそうです。なので、まず別人かと」
クロードはホッとした。想像力で根拠のないことを口走って恥をかくことからは何とか逃れられた。
とはいえ、クラリッサが失踪し、デルバート王子がほぼ追放され、国王は王侯貴族を政治から排除した。その上、突如現れた何者とも知れぬ高貴で聡明な女性が、一度は舞台上から去った登場人物ではないか、と疑うのは当然の流れだろう。
何せ、クラリッサは失踪前、第一王子名代として国王の摂政と見られていたほどなのだ。それほどの才能ある人物は、そう簡単に再び現れはしない。
新情報と既知の情報、どこか接点はないか。クロードは考えた末に、まだクロードが触れていないあることに可能性を見出した。
——最初から、今日の話の本題がそこに帰結すると知っていれば、もう少しクロードも驚かずに済んだかも知れない。
「そういえば、白骨死体のそばには遺書があったはずだ。新聞では油紙に包まれていた、と載っていた。あれには何か手がかりは?」
あの遺書には何が書いていた? そう尋ねる前に、アンドーチェは昏い表情を浮かべ、口を開く。先ほどまでの凛とした雰囲気はなりをひそめていた。
「その遺書に、書いてあったのです。私が、アンドーチェが、クラリッサの実の
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