第2話 婚約破棄、そして行方知れず
王城の大広間で、クラリッサは玉座に座る国王の隣に立っていた。
すでに王妃は亡く、第一王子名代であるクラリッサがもしものときの摂政にと定められていたため、妥当な位置にいると言えるだろう。最近ではまるで国王の後継者のようにすっかり王城の面々に受け入れられつつも、クラリッサは頑として固辞し、ここにいるのは王子の代役としてだとの立場を崩さなかった。
そんなことよりも、やっとデルバート王子の帰国だ。クラリッサは常に彼の身を心配していたし、便りがないのは元気な証拠として自分に言い聞かせてきた。
だが、大広間に入ってきたデルバート王子を見るなり、国王もクラリッサも驚きの表情で出迎えざるをえなかった。
未だ豪奢な礼服に着られているようなデルバート王子の隣に、一人の女性が侍っていた。すみれ色のドレスに薔薇の刺繍入りのショールを纏い、まるで配偶者のように寄り添っている、真紅の髪の女性——いや、少女と言ったほうが近いかもしれない。しかし、その風格はデルバート王子とは比べ物にならず、ただそこにいるだけで自身が身分の高い生まれであることを存分に知らしめていた。
ざわめく大広間の人々の前を横切り、玉座の前にやってきたデルバート王子は、胸を張って凱旋を宣言する。
「デルバート・オヴ・ソルウィングダム、帰国いたしました。ご無沙汰しております、父上」
「うむ……壮健そうで何よりだ、だが」
「私を支えてくれた女性がおりましたので。それに、父上の隣に平然と立つ恥知らずな女の正体を知った今、居ても立っても居られず」
そう言いながら、デルバート王子はクラリッサを険しい顔で睨む。
いきなりの罵倒に、クラリッサをはじめとした大広間にいる人々はどう反応していいのか分からない。一応は王子であるデルバートの言い分を鼻で笑うこともできず、さりとてクラリッサが恥知らずなどと罵られる謂れはないだろう。
困惑の空気を変えようと、国王はデルバート王子を諌めた。
「口を慎め、お前は一体何を言い出すのだ。クラリッサはお前がいない間、大変な働きをしてくれたのだぞ」
しかし、デルバート王子は確信があるとばかりに一歩も引かない。
「それは王国を乗っ取るためでしょう。その女は、ヴェルセット公爵が送り込んだ簒奪のための道具です。第一、その女はヴェルセット公爵の実子ではない! 公爵の知己であり、かつて隣国で王家に弓引いた反逆者の娘なのですから!」
しん、と静まり返った大広間の人々の中には、二つの思惑があった。
古参の廷臣を中心とした、妄言を吐くデルバート王子を咎め、黙らせねばならないと息巻く者たち。
貴族を中心とした、好奇心からデルバート王子の道化を期待して、その発言に耳を澄ませる者たち。
どちらにせよ、デルバート王子の評価はさして変わらない。クラリッサに比べて大した才覚もない王子が何を言おうと、その身分に比べ低劣な立場が好転することはない、と見られていた。
ところが、デルバート王子の隣にいるすみれ色のドレスを着た少女が、その名と身分を明らかにした途端、状況は些か奇妙な方向へと転がっていく。
「こちらが隣国ジルヴェイグ大皇国の皇女であるキルステンです。その女の父である反逆者ポーラウェーズ伯爵のことを知っており、隣国で反乱を起こそうとしたポーラウェーズ伯爵が失敗の末に自害したことを教えてくれました」
おそらく、デルバート王子はここで皆の驚きの声が上がることを期待していたのだろう。実際には誰一人ため息すら漏らさず、それぞれの思惑を胸に秘めたままだ。
何より、ここイアムス王国と違って隣国であり大国のジルヴェイグ大皇国には腐るほど貴族がいる。この場にいる人間がそのすべてを把握するなど不可能で、さらにはポーラウェーズ伯爵やその反乱など聞いたこともない。であれば、どうにも誰も反応できないのだ。
しかし、キルステン皇女の刺激的なほど耳朶を打つ言葉が、大広間に響き渡る。
「我が名はジルヴェイグ大皇国第二皇女キルステン、貴国の諸侯は顔を見知った者もおろう。今更真贋の問いは不要である。余の来訪の目的はただ一つ、反逆者ポーラヴェーズ家の野望を阻止することにあるゆえ、決して貴国と
大広間に、貴族たちの口から短い感嘆の声が発せられた。
デルバート王子の言葉よりも、キルステン皇女の言葉ははるかに人心を動かしていた。何せ、大義名分があるのだ。それが正しいか間違っているかではなく、彼女の身分や態度、主張はとてもではないが国王でさえ一蹴できないものだからだ。
もし、クラリッサの本当の出自がキルステン皇女の主張どおりであれば、何もかもが引っくり返る。醜聞どころの騒ぎではない、隣国の反逆者の娘を匿って、第一王子の婚約者に上手く仕組んだヴェルセット公爵の意図はどこにあるのか明々白々となるまで
さらには、クラリッサにとって自身の実の父母を知らないことが裏目に出た。デルバート王子とキルステン皇女の主張を、彼女自身が否定できないのだ。ヴェルセット公爵夫妻が義理の父母であることは周知の事実、クラリッサは今まで自分が『大切な知人の娘クラリッサ・ジョセフィン・マーガリー・ヘイメルソン』である、としか聞いていない。
この場にいる人々と同じく、クラリッサもまた隣国のポーラヴェーズ伯爵家など聞いたこともなく、隣国の反逆者についていちいち首謀者から末端の名前まで把握できるはずもない。たびたび皇帝位が入れ替わるジルヴェイグ大皇国特有の事情も重なり、
反論の言葉もないクラリッサが観念したと思ったのか、デルバート王子は鼻高々に得意げだ。
「どうだ、言い返すこともできないだろう! お前は反逆者の娘だ、おまけにヴェルセット公爵はお前を利用して王国を操ろうとした! そんな女を王城にのさばらせておけるか! 衛兵、すぐにこの女を捕らえて、監禁しろ! この王城にどれだけの謀略を仕込んだか分からないからな!」
とりあえず、大広間においてデルバート王子の立場はわずかも変動はしなかったが、キルステン皇女に関しては話が別だ。たとえ異国の地にあろうとも、ジルヴェイグ大皇国の第二皇女という立場を国王以下全員が無視するわけにはいかない以上、彼女の主張を精査しなければならず、第一王子名代クラリッサへの疑惑が生まれる。
そう——それが、クラリッサにとっては、最後の一線を越えた行為だったのだ。
クラリッサの中で、何かが蠢いた。
堪忍袋の緒が切れた、程度の話ならまだよかった。怒りや悲しみに任せてこの場をやり過ごせたかもしれない。だが、クラリッサは冷静だった。いつもよりもはるかに頭は冴え、この場にいる誰よりも自身の未来を見通していた。
さらには、間の悪いことにクラリッサは、デルバート王子への愛想がきっかり尽きてしまった。
それはじわじわと失われたわけではなく、つい先ほど、デルバート王子の発言と態度がクラリッサの許容の閾値を超えてしまったからだ。百年の恋が冷めた瞬間、という表現が近いだろう。
クラリッサは、自分の身体の真ん中にあった芯が、砂となって消え去ってしまった感覚を覚えた。責任感、使命、義務、役割、責務、あらゆる『ヴェルセット公爵家令嬢クラリッサ』を構成していた基盤となるものが、風の前のちりのごとく、さらさらと吹き飛んでいった。
すると、その上に積み上げてきていた『完璧さ』も崩落していき、もうクラリッサは『ただのクラリッサ』となっていく。
クラリッサがずっとその重さに耐えてきた肩の荷が、降りたのだ。
「国王陛下」
クラリッサのささやきを、国王はしかと聞いて、恐る恐るクラリッサのほうを向く。緩やかに、クラリッサの顔を見上げて目を合わせるまでに、クラリッサは言いたいことを言ってのけた。
「今、一つだけはっきりしました。デルバート様は、私のことがお嫌いなのでしょう。きっと初めて会ったそのときから、ずっと。であれば、私はもう何も言うことはありません。どうぞ、この婚約は解消してくださいませ」
ただでさえ衝撃を受けたとばかりの表情を隠せていない国王は、クラリッサを見上げて、その両目を見開いた。
クラリッサの美貌に、一筋の涙が伝っていたのだ。
クラリッサは裾を払い、大広間の控え室への扉へすみやかに退出していく。
後ろで聞こえる有象無象の騒々しさは、もうクラリッサの耳に届いていない。何もかもを振り払うように、クラリッサは大広間を出ていく。
誰かがクラリッサの名を呼んだ。止まれと必死に叫んでいた。次第にそれらは怒号を孕む。しかし、そんなものはクラリッサにはもう関係ない。
クラリッサの心は、育ててくれたヴェルセット公爵夫妻への申し訳なさでいっぱいだった。
「……完璧であろうとしたのに、できなかった不出来な私をお許しください」
その日、クラリッサは姿を消した。
ヴェルセット公爵家の屋敷にもクラリッサは戻らず、王国中が『行方知れずのクラリッサ嬢』をしらみつぶしに探したが、とうとう見つかることはなかった。
『行方知れずのクラリッサ嬢』事件から十二年後。
増改築工事の最中、王城裏手の枯れ井戸の底で、白骨死体が発見された。
死体の着用していたような——生地が大きく裂けているが——仕立てのしっかりした翠緑色の詰襟ドレスと油紙に包まれた短い遺書から、身元はすぐに判明した。
その一週間後のことだ。
『クラリッサはあの日、井戸に身を投げていた』——王城はそう公表した。
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