第35話 想脈(選考対象外)
名を呼ばれた王妃――グレイスは、蝋燭の灯りを吸収してペリドットのように輝く瞳に喜色を堪えていた。
「『なんの用だ』だなんて、随分な言い草ですわね。数日ぶりにこうして出会えたというのに」
グレイスは、実年齢よりも幼く見える花の顔を曇らせて、はぁ、と小さくため息をつくと、薄化粧の滑らかな頬に左手を添えた。
「お話は聞きましてよ? あの小娘と諍いを起こしたのですってね?」
どこか嬉しそうに微笑むグレイスに、イリオスは眉をひそめる。
「……そのような事実はない」
「あら。誤魔化さなくてもよろしいのよ? わたくしは、あの小娘とあなたが決別することを願っているのですもの」
グレイスは、歌うように言葉を紡いで、1歩、2歩とイリオスに近づいた。そうしてゼロ距離まで来ると、カンテラを大理石の床に置いて、イリオスの胸にしなだれかかった。
「ああ、わたくしのイリオス……。あなたの腕に抱かれる日を、心待ちにしていたのですよ? さぁ、いつものようにきつく抱きしめてくださいませ……」
しかしイリオスは、グレイスの身体を抱きしめることはせず、ただその場に佇んだ。それを訝しんだグレイスが、イリオスの逞しい胸板に両手を添えたまま、顔をふり仰いだ。
「……イリオス?」
その瞬間、グレイスの髪からバニラに似た香りが漂い、イリオスの鼻腔をくすぐった。イリオスの脳裏に頬を染めたミレイの顔が浮かぶ。
「――離れてくれ!」
「きゃっ」
イリオスは反射的にグレイスの身体を引き剥がし、後ろに3歩後退する。
恋人関係になってから、初めてイリオスに拒絶されたグレイスは、信じられないものを見る目を向けてきた。
イリオス自身も自分の行動に戸惑い、グレイスを拒絶した両手のひらを、困惑しながら見つめる。そうしてお互いの間を沈黙が支配し、先に正気にかえったグレイスが、足元のカンテラを拾い上げた。
カンテラの金属音で我に返ったイリオスは、ハッとしてグレイスに目を向け、驚愕に目を見開いた。
グレイスが手にしたカンテラの蝋燭がゆらりと揺れて、宝石のように輝いていたオリーブグリーンの瞳に影が落ち、
(これがパラディンが言っていた『想脈』か! ミレイの神力の影響で、俺にも視認出来るようになったのか……?)
イリオスは想脈を千切ろうとしたが、ただ視認出来るだけで、掴むことは出来ない。
「くそっ」
想脈が見えていないグレイスは、イリオスの行動を不審に思いながらも、再びイリオスに近づいた。
「イリオス……何故わたくしを拒絶するのですか? まさか、数回同衾しただけで、あの小娘のことを気に入ってしまったの?」
怒りと悲しみが
「……イリオス。なにかおっしゃってくださいな」
そう言って、グレイスが褐色の肌へ手を伸ばしてきたが、イリオスはふぃっと顔をそむける。
行き場を失った手を握りしめたグレイスは、カンデラを放りだして、イリオスの手を取った。
「っ、おい、グレイス! どこへ行く!?」
「…………」
イリオスの問いかけを無視してグレイスが向かったのは、パーティーホールの近くに位置する休憩所だった。一言に『休憩所』と言っても本来の使い道は、男女が逢引きや密会に使うベッド付きの客室である。
グレイスはブリオーの腰紐から鍵の束を外して客室の鍵を開けた。早めに披露宴を終わらせたせいか、使われた形跡のない室内には、灯りがともっている。
「グレイス! 何を考えている? やめるんだ!」
イリオスは抵抗するが、未だ流れ続ける想脈の穢れに気を取られ、グレイスに本気で抵抗することが出来ずにいた。そうして2人は客室に入り、グレイスは素早く部屋の鍵を閉めると、たたらを踏むイリオスに抱きついた。
「グレイス……ッ、んっ」
イリオスが抗議の声を上げようとした隙を狙って、グレイスはイリオスをベッドに押し倒して唇を奪った。
「ぅ、ん……っふ、ちゅ……っ、め……! っ、やめろ!」
イリオスはグレイスの肩を思い切り押しやって、ベッドから起き上がり、ベルベットのカーペットを踏んで距離を取る。
一方ベッドに倒れ込んだグレイスは、ゆっくり身体を起こすと、瞳に涙を溜めながら腹部へ手を当てた。その動作を見て、イリオスはハッとする。
『グレイスの腹には儂の子がいる』
イリオスの脳裏に、父王――ディセオの言葉がよぎった。
「グ、グレイ――」
「わたくしの初めては、イリオス。あなたに捧げたかった」
グレイスは、まだ平らな自身の腹をなでさすりながら、イリオスを見上げた。澄んだ色を取り戻したオリーブグリーンの瞳から、はらはらと涙がこぼれ落ちるのを、イリオスは苦い思いで見つめる。
「……俺だって、お前と……グレイスと夫婦になりたかった」
そう言って
「『よく考えて選べ。グレイスへの気持ちを断ち切って、ミレイを愛し続けるか。それともミレイを神に奪われて、エクリオと共に消滅するか』」
グレイスは涙を流しながら目を丸くした。
「なんですの、それは」
イリオスは、「信じられないだろうが」と前置きをして、嘲笑うように言った。
「とある親切な神が教えてくれてな。ああ、その親切な神の名はヴァートゥルナと言うんだが」
「……なんですって?」
しばらくの間、イリオスとグレイスは無言で見つめ合った。
「……グレイス。君も、俺も、承知していた筈だ。この想いは、いつかは断ち切らなければならないと」
「イリオス……」
グレイスはくしゃりと顔を歪めて、胸元のドレスを鷲掴んだ。
「グレイス。君が父上に見初められ、母上が自害した時から、俺は君を憎んでいた」
「っ、」
「君は拒むこともできたはずた。父上は権力を振りかざすような人ではない。……けれどグレイス。君は、王太子である俺よりも、国王である父上を選んだ。君は愛よりも、権力を選んだんだろう……?」
「それは……!」
言葉の続きを紡ごうとして何度か口を開閉させたのち、グレイスはギュッと口を引き結び、今日始めてイリオスから視線を逸らした。
イリオスはフッと寂しげに笑い、
「……胡蝶の夢を見ていたんだ。俺たちは」
そう言って扉へ向かい、ドアノブを握りしめる。
「お腹の
グレイスがグッと息を詰める姿を一瞥し、イリオスは廊下へと足を踏み出した。
カツカツと己の足音だけが反響する大理石の廊下に、「イリオス!」と鈴を落としたような叫び声が響き渡り、イリオスはぴたりと歩みを止めた。
しかし振り返ることはせず、グレイスに背中を向けたまま言葉の続きを待つ。だが、いくら待ってもなんの反応もなく、再び歩みだそうとしたその時――
「愛していたわ。……心から」
グレイスの言葉に胸の奥がチクリと痛んだことに苦笑して、
「俺もだよ。……さようなら、グレイス」
そう言って歩き出した背中に、「さようなら、イリオス王太子殿下」と声が掛かった。それに対して微笑を浮かべたイリオスは、今度こそ止まることなく、仄暗い廊下を歩み進める。
2人の薬指を繋ぐ想脈は、跡形もなく消え去っていた。
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