R.I.P.雨音那由多の普通な恋愛

歩くよもぎ

第1話 どうしてこうなった。



 深夜、2時21分。


 雨音那由多は半ば呆然と、或いは諦めたように真っ暗闇の中に光るスマホを握り締めていた。


 どうしてこうなってしまったのか。


 スマホがはるか遠くの声を導く。イヤホンから無機質な電子基板から媚びへつらうような女の声が出力されていく。


「……ぁいすき。だいすきだよ、だいすき」


 甘い。吐き気がするほど甘い感覚が脳内を支配する。絞り出すように、零れた言葉はじっとりと濡れている。


「すき。すきすきすきすきすき。ねぇ、すきっていって?」


 甘く囁くその声は、留まるところを知らない。とろける砂糖の蜜だ。からまりかたまり、そして離れない。


 ここですきって言わなければ、どうなるのだろうか。ここ最近、そう考えることも珍しくない。もっとも、1回試した後ではあるが。


「……僕も好きだよ、みぃちゃん」

「っぇへ、えへ。わたしもだいすき……♡」


 何の生産性もない、ただお互いの好きを確認するだけの会話。初めは楽しかった。非日常で、異常で、これまでにない、暴力的なまでの愛の感覚。


 それは那由多にとって次第に重苦しいヘドロのように感じられるようになってきた。


「もう寝ちゃう……?」

「うん、明日も早いからね」


 明日は高校に入って丁度1週間が経った頃だ。早いうちから遅刻は避けたい。


 未だにクラス内は知らない人間とのコミュニケーションに慣れていないものばかり。お互いがお互いの距離感を探りあっている状態だ。


「ゃぁだ……ゃだ。寝ないで、ずっと一緒がいい」

「そう言われてもなぁ……みぃちゃんも明日バイトでしょ? 早めに寝ないと」


 那由多は無表情で、論理的に今すべき最適解を通話相手に説き伏せる。が、しかし。那由多にはこの説得の結果が目に見えてわかっていた。


「やだあ……っひくっ、ひくっ……そんなにわたしとお話したくない……? ご、ごめんなさ__」

「ううん、話したいよ。みぃちゃんと話してると落ち着くから……朝まで繋げておくから、一緒に寝てくれる?」


 一般的な家庭で、小学生までは普通の人生を歩んできた。彼女欲しいと幾度となく思い、そして友達と可愛い同じクラスの女の子について話し合ったりして、少しだけ見栄を貼ったり。


 何の変哲もない恋愛をしようと思っていたのだ。


「ぅん。一緒に寝よ……♡ すきだよ、なぁくんだいすき。ちゅっ」

「……」


 スマホからリップ音が響く。ぴちゃぴちゃと水音が響き、いやらしい音をたて続ける。唇が弾き出す音が止まらない。


 愛が重い。ここまで他人の感情が存在感を持ち、ヘドロのように心を縛り付けてくるなんて、中学までの那由多は考えたこともなかった。心が踊って、軽い駆け引きなんかしちゃって、最後にキスとか……そういう恋愛が那由多はしたかったのだ。


 那由多の自室を暗く染め上げている闇に、僅かに遥か遠くの女の子の愛情が混じっている気がした。ねっとりとした吐息がスマホから直接漏れているような錯覚さえ覚えてしまう。


「……ねぇ、きすして? こわいの。おねがい、きすしてほしいっ」

「……また? あぁ、いや。いいよ。ちゅ」


 身の毛のよだつような自身の湿ったキス音にさえ、那由多はもはや慣れてしまった。自己嫌悪に陥ることもあったが、それはもう過去のこと。


「ぇへ、すき、すきすき。っぁ♡、こうふんしてきたぁ……♡ きいてくれる……?」

「……ぅん。親もいるし、僕はあんまり声を出せないけど……だまってきいててあげるね」

「んっ、んん、ありゃとぁ……♡」


 気持ち悪い。ただただそう思った。


 甘い声に、聞きたくもない水音が混じり始める。寝不足の頭に響く鈍痛が強まり、ついにイヤホンを外して、静寂を聴く。


 那由多は嘘をついていた。親はここ数日出張で出かけているのだ。みぃちゃん、否。空野みやびとの通話を阻むものはいない。


 果たして、腐った愛の果物も人間は等しく食べなければいけないのだろうか。据え膳食わぬは男の恥というが、その据え膳に毒が混じっていたとしたら。


 那由多はカーテンを掻き分け、ミュートにしてから窓の外に顔を出した。


 夜空に浮かぶ星は見えない。曇天が月の光さえ遮ってしまっている。それでもゆっくりと深呼吸をすれば、夜の冷たい冷気が茹だった頭を冷やしてくれる。


 時間を確認する。


 2時35分。


 今日の時の流れは遅いらしい。諦めたようにため息をつき、那由多は再びベッドに倒れ込んだ。













「っぁあ……つかーれたぁ……」

「おっす、おつかれ! おまえフラフラしすぎなw? マジ寝不足って感じやべーって」


 1時間目の授業が終わる。各々生徒たちは薄く喋り初め、それは那由多とて例外ではない。


 軽く伸びをした那由多の後ろから、快活な声が掛けられる。


「いや、最近マジで寝れてなくてさ……」


 那由多が振り返ると、そこには短髪のそこそこイケメンが立っていた。


 鳥羽天智。この高校に入ってから話すようになった相手だ。誰にでも好かれるような好青年っぷりは那由多からしても好ましい。


「ちゃんと寝ろって、隈とか凄いぜお前。それに……ほら、お前の隣ってアレだし……」

「……言いたいことはわかるけどね?」


 途中で小声に切り替わる天智。耳元に同級生の囁き声が聞こえるのは結構気持ち悪いが、言ってることは伝わっている。


 那由多の隣には、入学早々にして学校トップ3に入ると謳われるほどの美少女が存在していた。


 名前は夜波見やはみ麗子。キューティクルが輝く長い髪に、顔の輪郭を隠す髪の触角。ただでさえ小さい顔が更に小顔効果で可愛い。


「? どうかした? 雨音くん」


 那由多の眺めている視線に気付いたのか、こてんと顔を傾け、大きな目を那由多に向ける。


「いーや。髪の毛綺麗だなって……こちらの天智くんがですねー」

「殺すぞお前、まじでおまえさぁ!」

「じょーだん、そんな恐れ多くないって。実際僕も夜波見さんの髪綺麗だと思うしね。もっと気安く接して欲しいでしょ、夜波見さんも」


 煌めく美少女相手にでも、どこまでも適当に接する那由多。


 那由多の中の女に対する緊張は、濃密すぎる空野みやびとの絡みによって消え去ってしまっていた。


 最悪嫌われてもいいという根底にある考えから生み出される言動は、天智から見て恐ろしいものだったようだ。


 泡を食って慌てる天智を見てくすりと笑う夜波見。


「うん。そんな凄い人じゃないよ、私。仲良くしよ? 鳥羽くん。あっ、雨音くんもね」

「はっ、はい!」

「流石にそれは草生えるよ天智。さーいえっさーじゃないんだから」

「お前もう殴るよ???」


 那由多と天智のやり取りが面白かったのか、「ふふふっ」と笑い出す夜波見。


 割と上手く行きそうだな。薄く心の中で喜びが生まれているのを、那由多は感じていた。


「夜波見さんは! 何か好きなことありますか?」

「んー、……なんだろうね。言われてみると少しわかんないかも。鳥羽くんは?」

「俺は……ウ〇イレにバスケとか、あと友達とサッカーも結構やります。野球観戦も好きっすね」

「おー、凄いねー! オオタニとか?」

「そうそう! あの人マジですげぇから」

「体育のときの天智凄いんだよ。ほら、この間オリエンテーションで鬼ごっこしたでしょ? あのときクラスの男子連中全員捕まえたんだ。僕からしたらオオタニより天智の方がすごい」

「よせやい! 照れるじゃねぇか」


 普通の女の子との会話がここまで楽しいものとは、これはヤンキーに子猫理論と似たようなものか。寝不足でフラフラしながらも考える那由多。しかし、心のどこかで何故か違和感も感じていた。


 微かに、だが確実に会話する2人を眺め、時おり那由多が茶化しに入ることで停滞を防ぐ。こうして3人の間に会話できる雰囲気が出来上がっていった。


 マナーモードのスマホを開く。通知48件が映し出された。


 普通の会話を楽しんだと思いきやこれだ。那由多は少しげんなりしつつ、みぃちゃんから送られたメッセージを流し見る。



>>みいちゃん


>おはよ

>おーはーよー!

>おきた?

>おはようのボイメほしいなっ

>ねぇ、ねてるの?

>ねぇってば

>わたしもそろそろ起きないとかなっ

>ほんとに寝てるの? 今日学校でしょ?

>送信が取り消されました

>さびしい

>少しだけつうわしよ

>昨日少し不機嫌だったよね

>だから無視してるの?

>ごめん

>だいすき

>すき

>送信が取り消されました

>送信が取り消されました

>送信が取り消されました

>送信が…………



>ごめんなさい



 那由多は思わず遠い目をした。今日はやけに重たいな……昨日少し面倒臭がったからかな。


 こういう女に説明はほぼ意味を成さないことを那由多は既に身をもって体感していた。全てが自分本位の彼女たちに、まともな言い分など通用しない。


 頬杖をつきながら、那由多は返信する。


『怒ってないよ。授業中だっただけ。おはようみぃちゃん』


 送ったメッセージは瞬時に既読がつく。引き攣る顔にも慣れてしまった。おそらくずっとトーク画面を開きっぱなしだったのだろう。


>おはようっ!

>寂しい

>つらい

>バイト先の店長きもいし

>なぁくんに会いたい

>これからおふろ

>メイクするから待っててね


『学校終わるまで返信遅れるかも。先に言っとく、バイト頑張ってね』


 トーク画面を閉じる。



「ふぅ……」

「スマホ弄るのもいいけど、次体育だぞ? はよ行こうぜ!」

「お、体育か。天智何しても強いからなぁ、今度運動の秘訣教えてよ」


 待ってくれていた天智に話しかけ、那由多は体育館へと急いだ。


 ちらりと教室を出ていく際に目を走らせると、物憂げな夜波見が、ゆっくりと振り向き真っ黒な瞳でこちらを眺めていた気がした。


 気のせいかな、きっと気のせいだ。


 背筋に走った悪寒をなかったことにする。ここは、普通の高校なんだから。


 

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