二十九話
どれだけ走ってもまるで進まなかった。
病院のスリッパを放り捨てる。こけないようにバランスをとりながらもがくように足を踏み出す。
だがそもそもこの義足は運動用に作られていない。普通に歩くので精いっぱいなのだ。
それでも必死に走る。左腕が痛んでも、全身の筋肉が悲鳴をあげても、頭が霞がかっていても。人気のない、広すぎる空港をただ走る。足を失う前はあれだけ走り込みをしていたのだ。身体が走り方を覚えている。
サッカーに費やしたあの時間は、無駄じゃなかった。
案内板によると東京行きの飛行機の搭乗時間が近づいている。もうすでに間に合わないかもしれない。それでもうまくいくと信じるしかない。
エスカレーターの手すりをつかみつつ駆け上がり、また走る。白を基調に近代的なデザインをされている空港内部は、掃除が行き届いているのか床が滑りやすい。もどかしい。
ギシギシと左足が嫌な音をたてた。装着部に鈍い痛みが走る。
頼む、もってくれよ、俺の身体!
頭のなかはすでに混沌としており、悪夢の中にいるようだった。
それでも立ち止まる恐怖に突き動かされて前に進む。
「あっ――」
バランスが崩れた。
義足の足裏はしっかりと地面をつかめない。滑りやすい床もあって体が前に倒れた。
折れているであろう左腕への追い打ちだ。痛みで一秒ほど意識が飛んだ。立ち上がろうにも右腕も疲労の限界を迎えて体を起こせない。
「くそが! 起きろ! 起きろよ望月朔夜!」
叫びがこだまする。大声を出して肺が焼けるように痛んだが気にしていられない。
「起きろよ! みんなが……みんながここまで連れてきてくれたんだろうが!」
ずっと俺のバイトを支えてくれた親父。ここまで送ってくれたソラ。身代わりになった拓海。病衣を貸してくれた母ちゃん。由紀の足止めをしている委員長。
そして、俺の隣にいてくれた由紀。
みんなの祈りでここまで来た。みんなが愛してくれたから、俺は走ることができる。
俺はこんなにも恵まれているのに。こんなにも祈りを受けているのに。それに応えられないなんて、そんな間抜けな話があってたまるか!
魂を燃料にかえてもいい。今この瞬間、立ち上がれるのならば――‼
だが現実は非情なもので、地に伏した俺の身体はピクリとも動かなくなる。
意識ももう終わりが近い。世界がだんだんと白い光の中に消えていくようで――
ふいに、幻を見た。
『よかった……よかったよぉ、さくや……』
七年前の病室で、由紀が泣いている。
『おおげさなやつだな。俺は死なねーよ』
『だって……だってぇ……』
『あ~も、抱きつくな腕は痛いんだから!』
『だって……足が……』
『足の一本くらいなくたってなんとかならぁ! いいんだよ。由紀が巻き込まれなくてよかった。もし由紀が寝坊しなかったら死んでたかもしれないんだぜ?』
『ううぅ……さくやぁ……』
『あ~泣くな泣くな! 俺の胸に鼻水をつけるな~っ!』
『わたし頑張るからぁ。さくやを支えるから……。ずっと一緒にいるからぁ……』
『……ああ。じゃあさ、俺も由紀を支えるよ。ずっとそばにいてやるよ』
俺は由紀を抱きしめる――
そこで幻は霧散した。目の前は病院のベッドでも過去でもなく、無機質な作りの空港だ。
頭はまだ泥水が詰まったように朦朧としていたが、不思議なことに身体を起こすことができた。
足を失くしたばかりの俺が強がっているのに、泣き言なんて言っていられない。
俺はまた、走り出した。
またこけた。けれど立ち上がり、再び走る。
身体は痛いし、心もしんどい。当たり前だろ。走ってるんだから。
大きく息を吸い込んだ。
「ゆきぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!」
この空港のどこにいても聞こえるように、魂から声を絞り出す。
「俺は――ここにいる!」
再びあの日の誓いを取り戻すために。
「約束を破っちまったけど! 裏切っちまったけど! もう一度だけ、もう一度だけでいいからさ!」
足がガクガク震えて不格好な走り方だとしても。
「だから――‼」
お土産コーナーを抜けて、搭乗ゲートの前にたどり着く。
そこには少女が二人。委員長と由紀がいた。
俺の叫びで気づいたのか二人ともこちらを見る。由紀は驚いたように目を見開いた。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
息がくるしい。過呼吸になりかけて必死に整えた。
由紀は信じられないような顔をして、恐る恐る、こちらに近づいてきた。
「なにしに……きたの……?」
制服にキャリーバッグを持っている。手にはチケットが握られていた。本当にギリギリだった。
「由紀を幸せにするためにきた」
由紀の顔が悲愴で歪む。キャリーバッグをぎゅっと握りしめ、肩は震えている。
震える口元を通ってかすれ声が出てきた。
「なんで……いまさら……。こんな時に限って……」
「準備に一年かかったからな。そうでもしないと無理だったから」
「もう遅いんだって。いまさら無理だって。朔夜なんて嫌いだし……」
――朔夜なんて嫌い。
その言葉はやはり半分は正しく、けれど半分は間違いだ。いま確信した。
声色には憎しみと愛情の両方が込められていた。だが由紀は愛情を否定している。
それは曖昧なものだから。ふとした瞬間に消えてしまうものだから。
ならば――具現化してしまえばいい。
「俺は間違えた。由紀を裏切った。どれだけ償おうともその罪は消えない。憎まれても仕方ないとは思う」
でも――と由紀の目を見据えた。覚悟を決めて、言葉に乗せる。
「頑張るよ。由紀がまた俺を好きになってくれる日まで。赦してくれる日は一生こないかもしれないけど、それでも、由紀のために祈り続ける」
けれど由紀はおびえていた。
「――無理。怖い。お父さんもお母さんも朔夜も信じていたのに裏切った。朔夜と付き合ってるとき、幸せだったけど、怖くて怖くてしょうがなかった。あんなのはもう嫌……」
布団をかぶり孤独な夜を超える弱い少女のようだった。
幸せでも不幸でも怯え続ける袋小路に迷い込んでいる。
「ごめん。私だって朔夜を信じたい。好きって言いたい。でも……怖い」
由紀はぽろぽろと泣いていた。腕を抱いて寒さに震えている。
「怖いんだよ……」
その震えを取り除いてあげたいと思った。
「俺が、由紀を幸せにする。だって、俺が一番、由紀を愛してるから」
「そんなこと理由にならない! 確かに今はいいかもしれない。でも、この先何十年と続くのに、変わらないものなんてない……」
この世は理不尽で、俺たちの大切なものを唐突に奪っていく。
家族を、身体を。
人間の力はちっぽけで、運命に抗うのは難しい。
いや、人間の中に潜むコントロールできない心こそ理不尽の源になることさえある。
それでも、人は祈るのだ。それしかできないから。
永遠の祈り。体が痛くても、心がしんどくても、走り続けるという約束。
「大丈夫だって。心配すんな」
俺は笑って由紀に近づく。
ポケットにしまっておいたケースを取り出して開き、作法に従って片膝をついた。
「――今度こそ、幸せを誓うから」
祈りは誓いになる。どんな理不尽に襲われようと走り続けると宣誓する。
「もう二度と由紀のそばを離れない。永遠を誓うよ。だから、受け取ってくれると嬉しい」
指輪を差し出す。光に照らされて輝く宝石は確かな実体をもってそこにあった。
輝きを前に由紀は立ち尽くす。信じられないといった風に茫然としていた。
「なに……これ……」
「俺の誓いの証だ。これがあるから一年もかかっちまった。何もできない俺だけどさ、一人前に働いてたんだぜ?」
「朔夜……そんな、だって……」
「俺は金魚の糞だからさ。これくらいしないと、高嶺の花は落とせないだろ?」
「だって……私は、家族なんて信じられなくて……」
「もう一度だけ信じてみてくれ。汚くて、卑怯で、醜い俺だけど、たった一つだけ美しいものを見せてやるって約束するから」
「そんなの無理だって……」
口ではそう言うが、うつむいて必死に涙をぬぐっている。
由紀の本音は言葉の端々からにじみ出る。幼馴染だから、わかること。
「俺が全力で幸せにしてやるよ。由紀を抱きしめていつか後悔させてやる。幸せを疑ってごめんなさいって。今の俺はまだまだ弱いけど、由紀と釣り合うように頑張るからさ」
「現実はそんなに甘くない。お金がなきゃ不幸になるし、朔夜の面倒をずっと見られるわけじゃなし、朔夜への愛が冷めるかもしれないし」
意地っ張りの由紀らしく言い訳を並べる。
「この指輪を見ても同じことが言えるのか? こんな俺でも、頑張って働いたんだぞ? 負けなかったんだよ。運命に」
俺はちっぽけだけど、お荷物だけど、それでも社会に認められたのだ。
「由紀の愛が途絶えても、俺は由紀を愛し続けるから。俺たち二人ともがダメになったら拓海や委員長、ソラが俺たちの愛を支えてくれるから」
由紀の言葉はそれ以上続かなかった。かわりに漏れるのは嗚咽ばかり。
やがて涙をぬぐうのを諦めたのか、黙って左手を差し出した。
そっと、指輪をはめてやる。
「ほら、やっぱり似合うじゃねえか。俺の言った通りだろ? 由紀は世界で一番かわいいんだから、当たり前だろ」
「朔夜……」
そっと由紀を抱きしめる。
冷たい身体を今度は俺が温めるのだ。
「二人で幸せになろうぜ」
「朔夜の……バカ……」
由紀は小さく、力強くうなずいた。
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