第三章 崇拝者
崇拝者(1)
株式会社ハマコウフーズは、主に業務用の食品を扱っている会社らしい。病院や老人ホーム、事業所などのいわゆる休憩スペースに置いてあるウォーターサバーや自動販売機でたまにその名前を目にすることはあるが、全国展開しているわけではないので、一部地域でのみちょっと有名な会社だった。それが数年前に、社長の身内である専務と副社長のパワハラ・セクハラが問題となり炎上。そのせいで業績は傾いていたらしいが、刷新された経営陣が優秀なのかなんとか持ちこたえている不思議な会社————というのが、ネットで見聞きした情報である。兄がこの会社に転職したのは、炎上が起こる前ではあるが、それにしてもあの大企業から転職してまで入りたいような会社とは思えない。
ビルの外壁には大きな亀裂が入っているし、中に入ってみると電気を節電しているのか仄暗く、非常口の緑色のランプが点灯しているだけのようなものだった。それも、一部はパチパチと今にも消えそうに点滅していて、私は入るビルを間違えたのかと本気で思った。
「幽霊でも出て来そうでしょう? ごめんなさいね」
受付嬢は私を営業部販売促進課まで案内している中、そう言って笑った。
「いえ、その……はい」
「ここは建物自体が古いから、設置されている空調設備や照明が全然エコじゃないのよ。すごい電気を食うんですって。さすがにこの暑い真夏にエアコンを止めたら熱中症の危険があるってことで、じゃぁ照明を消そうかってことになったっていうだけよ。それに、こんな昼間から幽霊なんて出やしないから、安心して」
「はぁ……」
「それにしても、あの飛鳥くんにこんなに若い妹さんがいたなんて、びっくりだわ」
「え、兄のこと、ご存知なんですか?」
「そりゃぁそうよ。飛鳥くんはね、私たち女子社員の唯一の癒しだったのよ」
この受付嬢の話によれば、この会社には若い男性社員というのがほとんどいないらしい。二十代、三十代の社員は契約社員やパート社員など含めても女性ばかりで、正社員となると年齢的には兄が一番下だったそうだ。若くて優秀な社員が入ったとしても、みんな専務と副社長のパワハラのせいで辞めていってしまって、男性社員は全員、四十代以上の既婚者か、何度も離婚して独り身に戻ったようなおじさんしかいないのだとか。
「前は面接は副社長がしてたのよ。だから、一時期は副社長の愛人みたいな使えない女が入ったこともあったわ。すぐにやめちゃったけど……飛鳥くんは特別よ。ものすごくいい子だったから、女子社員みんなで結託してね、パワハラでひどい目に合わないように、最初は必死だったわ」
まだ高校生の私には、よく理解できない世界だなと思ったけれど、男の嫉妬というのが一番残酷だという話を何かで聞いたことがある。兄はあの顔をフル活用して、主に女性の経営者相手にバンバン営業を取って来たらしく、先輩の男性社員に目の敵にされていたようなこともあったそうだ。それも、陰湿ないじめのようなことを。
「確か、副社長が顔だけで選んだお気に入りの女子社員がいてね、その子が飛鳥くんに惚れちゃって、その嫉妬で————最初はそんな感じで、パワハラが始まってね……あの炎上も、飛鳥くんにやめられたら困るからって、ファンの子が告発したようなものなのよ」
「ファンの子?」
「……女子社員の一部でね、飛鳥くん親衛隊ってのがあるのよ。もうなんというかアイドル的扱いだったから、『みんなで飛鳥くんを守ろう!』みたいな。そういう感じで。でも、中には本当に飛鳥くんに恋をしちゃっている子もいたの。その子はもうやめちゃったけど……」
まさか会社内部にそんなものが結成されているとは思っていなかったけれど、あの兄なら仕方がないかと納得できてしまった。まるで推しのアイドルを応援するかのようなそれでは、兄に個人的にアプローチするようなことはタブーとなっていたらしい。そもそも、女性社員もほとんどが既婚者であったため、兄はこの会社の唯一の癒しの存在であり、色目を使って独り占めしようなんてことをしたら、それこそその女子社員がお局社員たちから嫌われて居場所を失うようなこともあったとか、なかったとか。きっと、これも兄のあずかり知らぬところで勝手にやられていたんだろうなと、容易に想像できてしまった。
「あ、社さん! お連れしましたよ」
エレベータを降りてすぐのところに、グレーのパンツスーツを着た眼鏡の女性が立っていた。この人が社さんか……と、思わずじろじろと顔を見てしまう。髪の毛と一緒に送られてきた写真と兄の葬式の人は別人だと思ったからだ。社さんは綺麗に切り揃えられたおかっぱ頭————というか、肩より少し上のボブで、写真の女性は髪を後ろで一つに束ねていた。眼鏡だってかけていなかった。
受付嬢は私を社さんに会わせると、すぐに戻って行った。結構なおしゃべりな人だったせいか、社さんは苦笑いをしながら私に謝る。
「ごめんね。あの人、普段受付に人なんて滅多にこないから、すごくおしゃべりなの。何か失礼なことを言われたりしなかった?」
「大丈夫です。それより、本当にご迷惑じゃなかったですか? お仕事中なのに」
「大丈夫よ。他の社員も、飛鳥くんの妹さんなら大歓迎だって。あんな事件が起きてしまって……本当に残念なことだけど、飛鳥くんがこの会社の社員であったことに変わりないわ。それに、みんな、いつか妹さんに会わせろって言っていたくらいなのよ」
「え? 私に?」
「うん。だって、飛鳥くんよく言っていたもの。『妹が世界一可愛い』って」
兄がそんな風に言っていたなんて思わなくて、嬉しかった。可愛がられていた自覚はあったけれど、他人にも話すほどだったなんて……それと同時に恥ずかしくもある。
「でも、あまり飛鳥くんとは似ていないのね。もっとこう……」
「ああ、ハーフっぽい感じだと思っていました?」
「そうそう。飛鳥くんって、本当に作り物みたいに綺麗だから————あ、いや、あなたが綺麗じゃないとかでは決してないのよ?」
「わかっています。兄とは半分しか血が繋がっていないんです。母親が違うので……私は純日本人なんですよ」
「そういうことなのね。お葬式でご両親とお会いした時、不思議に思ったの。聞くのは失礼かと思って……聞けなかったんだけど」
「よく言われます。外国の血が混ざっているからこそ、余計似てないように思われるんですよね。よく見たら似てるところはたくさんあるんですけど……それより————」
私はそんな話より、どうしても気になることがあった。神棚だ。会社の中に神棚がある……というのは別におかしなことではないとは思う。仕事始めのニュース映像とかで見たことがあるし、商売繁盛とか、そういうお札が置いてあるくらいならなんとも思わない。意味がわからないのが、その神棚の上に、どう見ても違和感のあるものが置いてあるということだ。それも、あるはずのところになかったもの。
「どうしてあのマグカップが、神棚の上にあるんですか?」
私の作った最高傑作のマグカップが、なぜか神棚の上に透明なケースに入って置いてあった。
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