24.王子様は内心複雑です(2)
イグナーツはわずかな動揺も表に出さなかった。
昨日の結婚式が行われたのは第二城砦の西棟で、ここは城主や城砦の政務に関わる者とごく一部の上級使用人しか立ち入ることが許されていない。
特に口止めもしていなかったが、いつのまにか第二城砦の東棟から出ることのない医務官や負傷兵たちの耳にも届いていたようだ。
「……本当だ」
しかたなく肯定すると、「うわあ」だの「えええ」だのと遠慮のない声があがった。
「なんで教えてくれなかったんですか!」
「俺らにお祝いさせてくださいよ!」
「水くさいじゃないですか!」
「でもおめでとうございます!」
「……おめでとうございます」
好意的な反応のほとんどが兵士たちからで、医務官たちは驚いたように顔を見合わせたり、不満げに眉をひそめたりしている。
口では祝辞を述べつつも、手放しには祝えないという態度がありありとうかがえた。
特にハイネは表情も声音もひややかだった。
「ご結婚、つつしんでお祝い申し上げます……もう一つだけ、おうかがいしてもよろしいでしょうか?」
なにやら視線にとげとげしいものを感じる。何が不満なのかわからないが、ここからが本題かもしれない。
臣下に何でも遠慮なく進言するようにと言い続けてきたのはイグナーツ自身だ。だから内心で身構えつつも「ああ」と許可をする。
「第一城砦でメイドのアリーとお戯れになっていたという噂は本当でしょうか?」
メイドに変装したアリーセの肌に軟膏を塗っているところを目撃された件だ。
頬が引きつりそうになるイグナーツの耳に、自称聖剣の精霊ののんきな声が届く。
「まあ、あれだけ騒がれれば噂にもなるよねー。どうするの、これ?」
兵士たちは「殿下に女ができた!」と大盛り上がりだった。
口止めをすればかえって信憑性が増す。それでしかたなくそのままにしておいたら、第二城砦まで噂が広まってしまったようだ。
(なるほど、そういうことか……)
さきほどからハイネをはじめとする医務官たちの視線がひややかだった理由がわかった。結婚前に他の女性に手を出したと思われていたのだ。
「それは誤解だ。彼女が怪我をしたのに医務官の手をわずらわせたくないとかたくなだったから、俺が手持ちの軟膏を塗ってやった」
「……ああ、あれですか」
ハイネは思い当たることがあるようだったが、まだ半分くらいは納得いっていない様子だった。
一方兵士たちは「なあんだ」「早とちりかよ」とイグナーツの弁明を受け入れはじめる。彼らだけでも黙らせられれば御の字だと思っていると、
「なぜ殿下がメイドのためにそのようなことを?」
ハイネはしつこく食い下がってきた。
確かに、使用人の手当てなど城主がみずからすることではない。アリーが本当にただのメイドならばの話だが。
あの日、アリーセに変装をさせたのはイグナーツだ。当時はまだアリーセと結婚するか決めかねていたから、念のための処置だった。
まさか、アリーセがゴルヴァーナに来た当日にメイドと間違われて、療養所の手伝いに駆り出されていた挙げ句、ハイネやゲルトたちと仲良くなっていたなんて知らなかったのだ。おかげで話がだいぶややこしくなってしまった。
(どこから説明したらいいんだ……そもそも俺が話すべきことなのか?)
軽い苛立ちをおぼえ、イグナーツは左眼の下を掻いた。
レンがそれを見とがめる。
「その癖、直しなよー。聖剣には主の負った傷を自動的に修復する力があるのに、そうやって掻いちゃうからそこだけ痕が残っちゃったじゃんか」
うるさい、とイグナーツは心の中で罵る。いまは傷跡どころではない。
(難しいな。アリーセが療養所の手伝いをしていたことについては、本人の口から説明した方が後腐れがないだろうし……)
「そもそも、アリーを第一城砦へ連れて行かれたのはなぜですか?」
ハイネは追及の口を緩めない。あきらかに結婚前の火遊びだと思われている。
イグナーツは多少ムッとしつつも、答えられる範囲で弁明した。
「本人が見たいと言ったからだ。みずから行きたいと申し出る者は少ないから、見せてやろうと思っただけだ」
「一介のメイドの要望になぜ殿下みずからお応えに? しかも馬にも乗せたそうですね。なぜですか?」
なぜなぜとしつこい。
ハイネの物怖じしない性格は気に入っていたが、この状況ではうっとうしいと言わざるを得ない。誤解で女の敵認定をされているのも腹が立った。
イグナーツが不本意な叱声を飛ばそうとしたときだった。
「――お待ちください」
凜とした声が、集団の後ろの方から響いてきた。
それほど大きな声だったわけでもないのに、ハイネや兵士たちにかき消されることなく聞こえてきたのは、正しく美しい発音の賜物だろう。
人垣を作っていた集団が声の主に道を譲るように左右へ崩れると、思っていたとおりの女性がしずしずと品の良いドレスの裾を引きずって進み出た。
アリーセだ。
すっと背筋を伸ばした姿勢も、頭をまったく揺らさない歩き方も貴族令嬢として洗練されている。背後にいつもの侍女を従えているところを見ても、自身の存在を見せつけるために現れたとしか思えなかった。
「アリー……その格好」
「私がアリーセ・ヴェルマーです」
驚きの目を向けたハイネに、アリーセはスカートをつまんで一礼してみせた。
一片の動揺も見えない落ち着いたしぐさ。やはり彼女はハイネたちに自分の正体を明かしに来たのだろう。
「騙すつもりはありませんでした……と言っても、信じていただけないかもしれませんね。メイドに間違われたときはともかく、その後に打ち明ける機会はいくらでもあったはずですから」
「……」
「でも、どう説明すればいいのかわからなかったんです。あのときの私は妹のクラーラのふりをして輿入れしてきたばかりで、殿下に嘘がバレて追い出される可能性がありましたので。殿下の名誉も関わっている以上、軽率な発言はできませんでした。その名誉を傷つけたのも、私の妹なのですが」
当時の状況を思い出してか、申し訳なさそうに眉尻が下がり、唇が引き結ばれる。
「それでもお話しできる範囲で打ち明けるべきだったと思います。そうしなかったのは、みなさんが親切にいろいろと教えてくれるのが嬉しくて、つい甘えてしまったからです……ごめんなさい」
ハイネや他の医務官たちが神妙な面持ちになる。
アリーセの登場によって、場の空気が一変していた。
日頃から無遠慮に物を言いがちな兵士たちですら、言葉を選びかねて静まり返っている。ここらが頃合いだろう。
「ハイネ、これで納得したか?」
「えっ? あ、はい……」
さきほどの勢いはどこへ行ったのか、一気に歯切れが悪くなった。その目は貴族の令嬢然としたアリーセを信じられないものを見たように眺めている。
「ハイネさん、本当に申し訳ありませんでした」
「いっ、や、それは……っ」
頭まで下げられると思わなかったらしく、ハイネはしどろもどろになって無意味に手を虚空でパタパタさせる。
「お、お気になさらずっ。手伝っていただけてとても助かりましたし、あたしはそういうの平気なので……みんなもそうよね?」
「も、もちろんだともっ!」
「手当ても上手かったし……なあ?」
医務官たちも兵士たちも総意を確認するように顔を見合わせながら、どこか必死の様子でこくこくとうなずいてみせる。多少ぎこちないが、アリーセの謝罪を受け入れるということで話がまとまりつつあった。
ひとまずこの場は収まったと見ていいだろう。イグナーツが内心胸を撫で下ろしていると、
「――ということは、第一城砦でイチャついていたのは事実ってことですよね?」
嫌な感じに蒸し返す声があがった。
「あー、気づかれちゃったかー」
とどこか愉快げにつぶやいたのはレンで、彼は虚空に浮かびながら頭の後ろで腕を組み、高みの見物を決め込んでいる。
イグナーツが思わず固まる中、一同は「言われてみれば」という顔になる。
「殿下がみずから特別に軟膏を塗られた相手が、結婚直前の婚約者となると話が変わってくるな?」
「つまり、治療からはじまるイチャイチャだったと……」
「ち、違――」
慌てて否定しようとした言葉は、するりと腕に絡みついてきたたおやかな手によって、喉の奥に引っ込んだ。
アリーセがイグナーツの腕にそっと抱きついてきたのだ。人前で見せつけるような大胆なしぐさと毅然とした笑顔に反して、耳まで真っ赤になっている。
羞恥心をこらえてこんなことをしてくるからには、何か案があるのだろう。イグナーツはアリーセに任せてみることにした。
「みなさん、ここは殿下の城です。城主の個人的な行いについて、それが人の道に逸れたことでもないというのに、話題にする必要があるでしょうか?」
アリーセの発言で、とたんに場が静かになった。
みな思い出したのだろう。本来、使用人や兵士はその存在を主張することも、主人の私生活について口外することもあってはならないのだと。
イグナーツはゴルヴァーナ城砦の人々との信頼関係を築くために、多くの礼儀作法を取り払った。しかし無礼まで許してしまったせいで歯止めがきかなくなっていたところもあった。
そこに高位貴族としての作法を叩き込まれてきたアリーセは気づいたのだろう。
城主がみずから指摘すれば、前言を撤回したことになって角が立つ。そこは外部から輿入れしてきた夫人の役目だととっさに判断したようだ。
やはりできた女性だとイグナーツが感心している中、アリーセは続けた。
「それに城主が婚約者に手ずから治療を施そうと、あるいは婚前に味見をしようと、なんの問題もないと思うのですけれど、いかがかしら?」
「……んっ?」
その発言は引っかかり、イグナーツは思わず変な声で聞き返してしまった。
(アリーセ!?)
ぎょっとして横顔をうかがうと、アリーセはにっこりと気丈な笑みを振りまいている。本人に余計な一言を言ったという自覚はないらしい。
嫌な予感がして見渡してみれば、ハイネも医務官たちも負傷兵たちも、みな「理解のある笑顔」になっている。
「もちろんでございます!」
「あらためてイグナーツ殿下、アリーセ妃殿下、ご成婚おめでとうございます!」
「おめでとうございますーっ!」
わあああああっ、と歓声とともに拍手が沸き起こった。
「いやーおめでと、イグナーツ!」
レンまでわざとらしく手を叩いている。悪乗りの便乗だ。
イグナーツはまだ事態が飲み込めない。
アリーセの助け船のおかげで事態は丸く収まった。かに思えた矢先、逆に「お戯れ」を事実と裏付けられた上に、反論の機会まで奪われてしまった。
はたして本当に助けられたのか、それとも。
万雷の拍手と歓声を真正面から浴び、隣からは大切な新妻に抱きつかれながら、イグナーツは
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