(5)――嫌だなあ、消えたくないなあ。

 イスルギさんがとっくの昔に去ったあとの屋上で、俺は一人、ぽつねんと考えていた。

 予想だにしなかったイスルギさんの言葉に、なにかの間違いではないかと思って聞き返しはしたのだが。

『昔から何度も会ってる人の気配はわかる。間違えてない』

『姿は昔と違うけど、気配は一緒。あなたが土地神』

 というように、間違いなく俺がここの土地神であるの一点張りである。

 そうして俺が動揺から立ち直れないうちに、イスルギさんは俺との会話自体が面倒臭くなったのか、さっさとと立ち去ってしまった。

 イスルギさんが嘘を言っている可能性がないわけではない。けれど、俺の質問に首を振るだけで答えていた彼女が、わざわざノートに書いてまでした言葉が嘘であるとは思えない。髪で表情はほとんど隠れていたけれど、進んで騙そうとしているようには見えなかった。

 それに、心のどこかで納得している自分が居るというのも、理由のひとつである。

 ずっと抱いていた違和感に筋の通った説明がついた、と言っても良いかもしれない。

 それは、俺がこの学校の構造について、異常なほど詳しかったことだ。

 生前の記憶は全く思い出せない癖して、どうして学校の構造については誰よりも詳しいのか、甚だ不思議だった。しかしそれも、学校の創立当初から見守り続けてきたのだとすれば、得心がいくというものだ。

 今思えば、俺が自分を「ろむ」と名乗ったとき、イスルギさんが俺を指差して怪訝そうな表情を浮かべていたのも、なにを言っているんだお前は、と言いたかったのかもしれない。

「ていうか、ついでに俺の本当の名前も訊けば良かったんじゃ……」

 いまさらのように思い至ったが、後悔先に立たず。

 いや、仮にイスルギさんが教えてくれたとして、それをもってなお記憶が戻らなかったら、本当に自分がいたたまれなくなってくるから、訊かなくて正解だったかもしれない。

 土地を守る神様の、弱りきった末の、残り滓。

 人間から忘れられ、自分自身さえ保てなくなった、空っぽな「俺」。

 安直に、土地神が姿を現したら信仰がそこに集まると思っていた。けれど、なんの能力も持たず、幽霊よりも希薄な存在が神様を自称したところで、誰からも信じてもらえないであろうことは、火を見るより明らかである。

 どうしよう。どうすれば。

 無意味な言葉ばかりが頭の中を占拠する。

 自身の両手のひらを眺めていたところで、なんの力も沸き起こらない。

「……――む、なあ、ろむってば」

「えっ、あ、アサカゲさん?!」

 真横から覗き込んできたアサカゲさんの顔に驚いて、俺は思わず数歩飛び退いた。

「珍しいじゃねえか、屋上に居るの。調子はどうだ?」

「……うん、平気」

 反射的に、今しがた判明した衝撃的な事実を話そうとして、喉元で言葉を押し留め、口を噤んだ。

 しかし案の定、隠しごとをしていることが顔に出ていたのか、アサカゲさんはじっと俺のほうを見つめ、白状するのを待っている。

「……言う。言いマス」

 小さく両手を上げて、降参のポーズを取る。

「さっき、ここで死神のイスルギさんに会ったんだよ。だけど、イチギくんの呼びかたに引っ張られて『ちーちゃん』って呼んじゃって、出会い頭にすごい勢いで舌打ちされてさ。マジで怖かったから、ここで心を落ち着かせてたんだ」

 肝心の核心は隠したままだが、嘘は言っていない。

「ろむのこと、なんか言ってたか?」

「なんにも。イチギくんと同意見だって」

「ふうん……?」

 アサカゲさんはなにか言いたげな雰囲気を纏いながらも、それ以上言及することなく相槌を打った。これ以上この話題を続けるとボロが出てしまいそうで、俺は強引に、それよりさ、と方向転換することにした。

「アサカゲさんこそ、体調は大丈夫? 疲れてない?」

「これくらいどうってことねえよ。オレは昔から澱みに対して耐性が強いんだ。……ただまあ、校内を駆けずり回って疲れてるのは確かだな」

 だから、とアサカゲさんは俺の右手を掴むと、自身の頭部へと運んで、言う。

「頑張ってる……から、褒めろ。撫でろ」

「うん」

 即答し、アサカゲさんの頭を撫でた。

 前にこうして頭を撫でたとき、妙に懐かしい感覚に襲われた。

 もしかしたら、昔はこうして人間と交流する機会も多かったのかもしれない、なんて可能性に思い至る。そういった日常がいつの日からか薄れ、ゆっくりと忘れ去られてしまったのか。

 だから誰も――俺自身でさえ、土地神を知らない。

 忘れられるべくして忘れられたのなら、時の流れに身を任せて消えゆくしかないのではないか。

 嫌だなあ、消えたくないなあ。

 これからも、この子たちの成長を見守っていきたいのに。

「お疲れさま。明日からも頑張ろうね」

 嘘のように静まり返った校内で、屋上に吹きつける風の音だけが、なにかに抵抗するように唸っていた。

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