第5話 呻く雄風

(1)――「そ、そんなに良くない状況なの……?」

 厄災の始まりは、夏休み最終日だった。

「おいろむ! 居たら出てこいっ! ろむ!」

 午前十時、アサカゲさんの焦る声に、俺は意識を覚醒させた。

 目を開けると、そこは第一教室棟一階の廊下で、すぐ近くにはアサカゲさんの姿もあった。

「ど、どうしたのアサカゲさん。ゴキブリでも出た?」

 微睡む意識を強引に呼び戻したそれに、緊急を要する事件が発生したのかと思ったのだが。

 そこにはアサカゲさんが直立しているだけで、妙なものは見当たらない。

「居たか。居るなら良い」

 俺の姿を確認すると、アサカゲさんは安堵するように肩を竦めた。しかし、その顔色は、それこそ本当に害虫にでも遭遇したときのように蒼白としている。

「ど、どうしたの? なにかあったの?」

「ろむ、この空気の澱み具合、わかるか?」

 質問に質問で返されたことに訝しみつつ、俺は周囲を見回してみる。

 校内の風景に変わった様子はない。夏休み中だから普段よりがらんとしてはいるが、それだけだ。

 しかし、空気の澱みという点では、霊能力を持たない俺でさえ感じ取れるほど、校内全体が剣呑としていた。

「なにこれ……ちょっとしんどいな……」

 それは、期末テスト前に起きた中庭での一件を彷彿とさせる感覚だった。

 あの黒い靄ほどではないが、あれを校内全体に稀釈して広めたような感じがする。走馬灯が流れるほどではないけれど、倦怠感が常につき纏う。

「見た感じ、悪霊化の気配もなさそうだけどよ。なにが起きるかわかんねえから、そのリストバンド、絶対に手放すなよ」

「そ、そんなに良くない状況なの……?」

「今朝、オレが学校に来たときには、既にこうなってた。昨日の夜から今朝にかけて、なにか起きたことは間違いねえ。今、オレと萩森先生で手分けして教室を見て回り始めたところだ」

 そう言って、アサカゲさんは歩き出した。

 俺もいつものように、それを追う。

「結界は?」

「無事……というよりかは、まだ壊れてはない、ってところだな。加えて、こんだけ空気が澱んでやがるから、異常の発生源がわからねえんだ」

 夏休みに入ってから、それまで以上にペースを上げて取り掛かった結界の補強作業。期末テストを無事乗り越え、補習免除になったこともあり、数日前に校内全てに護符を張り終えていた。これで校内の空気がいくらか澄み、アサカゲさんにも校内の異常を正確に感知できるようになったというのに、なんとも虚しい話である。

「それなら、俺も手伝うよ。この澱みが一等酷い場所があったら報告、で良い?」

「助かる。けど、危ねえからあんまり近寄らねえようにしろよ」

「りょーかい」

 出過ぎた真似をしたらどうなるのかは、既に身をもって知っている。異常を発見したら、現場離脱の上で報告だ。

「それじゃあ、くれぐれも気をつけてな」

「うん」

 アサカゲさんから情報共有してもらい、俺は第二教室棟へ向かうことにした。

 早足に移動しながら、この重苦しい空気では、嫌でも黒い靄に呑み込まれたときに見た走馬灯が思い出された。

 あれはきっと、生前の俺の記憶の断片だ。

 だが、あれ以降、未だにそれ以上のことは思い出すことができずにいる。

 それどころか、時間が経つにつれ、あれは本当に俺の記憶だったのかさえ怪しくなってきている有様だ。

 ――じゃあ指切りげんまん! 約束したからね? 忘れちゃ駄目だよ?

 ――……わかった。

 確かにあれは、誰かの声と俺の声だと思ったはずなのに。

 滲んで、ぼやけて、消えていく。

「……いや、それは今考えることじゃないや」

 思考を切り替えよう。

 今は、この異常事態の原因を突き止めなければ。

 第二教室棟は、一年生と二年生の教室を主とする四階建ての校舎だ。一階と二階が二年生、三階と四階が一年生となっている。

 俺はするりと壁をすり抜けつつ見て回り、一階の確認を終え、二階へ上がる。

 この校舎の難所は二階だ。

 というのも、この校舎において、一番構造が複雑化しているのは二階なのだ。隠れてなにかするとすれば、二階の可能性が高い。

 こういう嫌な予感は、外れてほしいと願うばかりだが。

 果たして。

「――アサカゲさん、先生! 第二教室棟の二階、二年四組に来てっ! 今すぐ!」

 その光景を目の当たりにして、俺は血の気が引く思いがした。

 しかし、硬直してばかりもいられない。

 なににも触れられない俺では、どうすることもできないのだから。

 早く状況を二人に伝えろと言わんばかりに背後から風が吹き込んできて、俺ははっと我に返り、喉から声を絞り出す。

「生徒が何人も倒れてる!」

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