(8)――全く、俺の相棒は、なんて格好良いのだろう。

「――祓!!」

 凛とした声が、中庭に響き渡る。

 アサカゲさんの声だ。

 今ほどのアサカゲさんの霊術によって靄が怯んだのか、微睡んでいた意識が途端に覚醒する。

「ろむ、無事か?!」

 あっという間に俺に纏わりついていた靄を一掃したかと思うと、アサカゲさんは俺の腕を掴み、引っ張り上げていた。

「ア、アサカゲさん……!」

「こんの、クソ馬鹿野郎が!」

 助けに来てくれたアサカゲさんに感謝の言葉を口にしようとした刹那、凄まじい剣幕で怒号が飛んできた。

 怒りのあまり肩を震わせ、目には涙を滲ませながら、アサカゲさんは言う。

「あんな遺言みてえなこと言い残して、話を中断すんじゃねえよ馬鹿!」

「え? いや、そんなつもりは……」

 アサカゲさんとのリストバンド越しの会話を思い返し、咄嗟に否定する。

「いいや、あったね。声に諦めが混じってた。最悪、オレが間に合わなくても良いと思ってただろ。実際、碌な抵抗もしないで呑み込まれてたじゃねえか」

 アサカゲさんに掴まれたままの腕に、ぐっと力が籠もる。

「勝手に諦めて、謝って、それで終わりにするなんて、オレは許さねえ」

 そう言って、掴んでいたオレの腕を投げるようにして手を離すと、アサカゲさんはこちらに背を向け、迫り来る靄の迎撃態勢に入った。アサカゲさんの繰り出す護符と靄が激突する度、バチバチと火花のようなものが舞う。

「本当に嫌なら、最後まで活路を探し続けろ。オレが今、必死こいて勉強してるのと同じだ、すぐに諦めようとすんな。あんな靄に捕まった程度で、お前が消えるわけねえだろ」

 靄からの攻撃をいなしながら、アサカゲさんは首だけをこちらに向けて、不敵に笑う。

「お前には、オレっていう相棒が居るんだ。どんな窮地にだって駆けつけてやるに決まってんだから、最後の最後まで足掻けっつってんだ」

「……うん、そうだね」

 まさか、暴力的な存在の消滅と、赤点回避の為の勉強を同列に語られるとは思わず、俺は力なく笑った。いや、本人の望まないことを強制されるという意味では、同列かもしれないけれど。

 全く、俺の相棒は、なんて格好良いのだろう。

「お前にはまだ言い足りねえけど、それは後だ。ろむ、あの靄の元は、なにか言ってたか?」

「ええと、職場で起きた火事で亡くなったって、言ってた」

 俺はアサカゲさんの切り替えの早さに驚きつつ、記憶を辿って答えた。

 アサカゲさんは迎撃の手を緩めることなく、しかしなにか思索しているのか、小さく唸る。

「となると、死神連中は現場のほうからしばらく動けねえだろうな。ここで一度封印するしかねえか。……っと、萩森先生も来たな」

 アサカゲさんの視線の先には、腰に負担をかけないようにしつつも全力疾走でこちらに駆けてくるハギノモリ先生が居た。先生自身も護符で自衛しているが、アサカゲさんがそこに自身の護符を飛ばして護衛する。

「遅くなりました。状況は?」

 そうしてアサカゲさんの隣に駆けつけたハギノモリ先生は、息こそ乱れてはいるが、至極冷静にそう言った。

「〈あれ〉は、喫緊で亡くなった魂が、ここの空気に当てられて暴走してるみたいです。ろむが一度〈あれ〉に呑まれかけました。オレは問題ないです」

「ふむ。それでは、ろむ君の応急処置と〈あれ〉の足止めは僕がやります。朝陰さんは、これを使って封印をお願いできますか?」

「了解です」

 簡潔なやり取りの末、先生はアサカゲさんに、手のひらほどの大きさの人形を渡した。

 先生は一旦俺のほうを向くと、地面に何枚からの護符を張り巡らせ、俺一人がすっぽりと入るほどの小さな結界を作ってくれた。すると、それまで重苦しかった身体が、随分と楽になったのがわかる。

「ろむ君は、ここから出ないでくださいね」

「動きたくても動けないから、ご心配なさらず……」

 アサカゲさんのおかげで意識ははっきりとしていたが、身体のほうは未だに脱力感が抜けきらない。ここは結界の中でじっとしているに限る。

「さあ、朝陰さん、準備は良いですか?」

 再びアサカゲさんの隣に立った先生は、凄まじい勢いで護符を展開させていった。

 ここから〈あれ〉までの動線を作り、校舎に被害が及ばないよう、中庭に面する窓や壁に護符を貼りつけ、同時に自身の護りも怠らない。

 流石、長い間一人でこの学校を霊的な意味で守ってきた人だ。

 歴戦の猛者、という言葉が、今の先生にはとてもしっくりくる。

「いつでも行けます」

 アサカゲさんは左手に人形、右手に数枚の護符を携え、頷いた。

「お好きなタイミングでどうぞ。貴女に合わせます」

 先生にそう言われ、アサカゲさんは余計な力を抜くよう、小さく息を吐いて、それから駆け出した。

 同時に、風がごうごうと唸りを上げながら中庭に吹き込んでくる。さきほどとは打って変わって、アサカゲさんの追い風になろうとせんばかりに、それは力強い勢いを保っていた。偶然とはいえ、自然を巻き込み味方につけているようで、彼女が失敗なんてするはずないと思わせてくれる。いっそ、神々しささえ感じる姿だ。

 走り出したアサカゲさんから、あの黒い靄の塊までは、直線にして十数メートルほどの距離がある。だが、中庭には花壇やベンチがあり、それらを避けつつとなると、最高速度は出せそうにないだろう。

 加えて、〈あれ〉は錯乱を極め、靄がそれぞれ意思を持った触手のように暴れ回っている。先生が足止めをしていてなお、この暴れようだ。先生が来てくれなければ、中庭は惨状と化していたに違いない。

 時折、靄の隙間から男性の呻き声が聞こえ、この世のものとは思えないほど目をぎょろぎょろと忙しなく回転させている姿が垣間見えた。

 先生による結界で守られている俺でさえ恐怖するそれに、アサカゲさんは一切怯む様子を見せることなく突っ込んでいく。

「――っらあ! 祓っ!」

 ベンチや壁、それから先生が補助で放った護符を足場に、アサカゲさんは空高く飛び上がった。ちょうど靄の真上である。

 アサカゲさんは勢いそのまま、右手に持っていた護符を靄に向かって、投げつけるように放った。すると、護符が触れたところから次々と霧散していき、遂には男性の姿が露わになったではないか。

 その一瞬をアサカゲさんは見逃すことなく、今度は左手に持っていた人形を、男性に向ける。

「――封印!」

 アサカゲさんが叫ぶようにそう唱えると、男性は人形の中へと吸い込まれ始めた。

 悲鳴にも似た音すら、共に呑まれていき。

 そして。

 靄ごと全てを呑み込んだ人形が、ぽとりと地面に落ち。

 アサカゲさんが難なく着地に成功すると。

 風も止み、辺りは静寂に包まれた。

「……はあ、終わった終わった」

 厳かとも言える無音を容易く破ったのは、アサカゲさんの気の抜けた一言だった。

 ひょいと人形を拾い上げると、すたすたと軽い足取りでこちらに戻ってくる。

「それじゃあ先生、これ、後のことはお願いします」

 そう言ってアサカゲさんは、先生に人形を渡した。

 とんでもないものが封印されている人形を、先生もいつもと変わらない様子で、

「はい、確かに。朝陰さん、お疲れさまでした」

なんて言って、受け取った。

 今しがた、霊能力者として悪霊を圧倒した直後とは思えないやりとりに、なんだか気が抜けてしまう。いや、でもそうか、この学校に霊能力者として居る以上、二人にとってはこれも日常の一部でしかないのか。

「そうだ、ろむ君はもう十五分ほどは、その結界の中で浄化を受けていてください。あの靄の影響を受けて悪霊化しない為にも、そこでじっとしていてくださいね」

「ひえっ、わ、わかった」

 そんなことを言われたら、十五分と言わず、念入りに小一時間はここに居たくなる。

 ハギノモリ先生は、怯えながらに頷いた俺を見、次に、中庭に面している校舎に目を向けた。そして、先生がすっと両手を広げると、それまで展開されていた護符が、自らその手元に向かって移動し始める。

 ふと、護符の剥がれた校舎の窓に、生徒の姿が見えた。

 あれだけの大立ち回りだったのだ、授業中とはいえ、好奇心に負けて野次馬をしに来た生徒と、それを諌めに来た教員の姿が、どの階にも散見される。そのうちの一人とハギノモリ先生の目が合ったのだろう。先生は声を張って、

「もう大丈夫ですよ」

と言った。

 すると、それを聞いた生徒たちが、一斉に窓を開け、数人は興奮気味に身を乗り出したではないか。

「萩森先生、すげーかっこよかったー!」

「朝陰さんも、かっこよかったぞー!」

「なんか、すごいもの見たね」

「朝陰さーん! せんせーっ! お疲れさまー! ありがとーっ!」

「怖い人と思ってたけど、誤解してたかも」

「わかる。あんな怖いのに立ち向かって行くって、すごい人じゃんね」

 みんなが口々に、先生とアサカゲさんを称賛している。

 そしてそれらは、いつの間にか、拍手の渦へと変わっていった。

 先生は慣れた様子でにこにこと微笑みながら、時折会釈している。

 一方でアサカゲさんは、バツの悪そうな顔でそっぽを向いていた。だがそれは、人々の声を嫌悪しているのではなく、恥ずかしがっているが故の裏返しだろう。その証拠に、頬がいつもより紅潮している。

 しばらくは無視を決め込んでいたアサカゲさんだったが、いつまでも鳴り止まない拍手に根負けしたのか、渋々右手を上げてそれに応えていた。それにより、拍手はより一層音量を増していく。

「だー! うるせえ、授業中だぞっ! 散れ、散れ!」

 耐えきれず、アサカゲさんが噛みつくように叫ぶと、ようやく拍手は止み、それぞれ教員に促されて、生徒は教室へと戻っていった。

 中庭に、静寂が戻ってくる。

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