読むことのスリル──ひだかたけし小論
白石多江
はじめに……時間について
秋の夜長です。こんな夜には美味しいアップルティーでもほしい……と思うのは、贅沢なのでしょうね。というのは、わたしは今、一人の詩人の批評という仕事を任されているからです。かつて、批評家の小林秀雄は言いました──一人の生きた詩人と接するのはどんなに辛いことだろうか──と。もちろん、この言葉は彼が書いた一字一句そのままではありません。わたしは、身近に本を置かなくなって以来、正確な引用、というのをあえてしずに来ました。情報過多なこの時代、正確な引用とは、何を意味するものでしょうか。典拠でしょうか、エビデンスでしょうか。世の中では、「脱真実」ということも叫ばれて久しいです。ですが、こうしたことに関する議論は、一人の詩人、その詩群を前にしては無用なことでしょう。ただ、わたしはひと時のやすらぎのために、一杯の紅茶がほしいな、と思うのです。
人が一人の詩人と対峙する時、人は二つの思いに引き裂かれるでしょう。ひとつは、その作者に共感すること。もうひとつは、その作者に圧倒されること。という思いです。わたしが、この「ひだかたけし」という詩人(*1)に対する時、わたしを襲うのは後者の感情です。つまり、わたしはひだかたけし氏の詩に圧倒される。……それだからこそ、迷うのです。この批評をどのように書き始めたら良いか。この批評をどのように進めて行けば良いか、と。
この序文に「時間について」などという副題を付けたのも、わたしが未だこの詩人の著作、あるいは詩人自身に対する批評の姿勢が整っていないためです。つまり、わたしはひだかたけし氏の詩を正面から読む準備が出来ていない──と。このことは、評者としてのわたしの姿勢を否定するものでしょうか? いいえ、そうは思いません。人は、卓越した創作を目にする時、真には、沈黙を持ってしかそれと対峙しえないものです。すなわち、真の芸術は人を沈黙させる力を持っているのです。「これを前にして、何をか言わんや」です。
人を沈黙させる芸術としては、例えばロダンの彫刻などを思い浮かべることができます。「考える人」という一個の彫刻を前にした時、その鑑賞者は自ら「考える人」たらざるを得ない。しかし、これは「考える人」という一作品に限ったことではありません。ロダンの彫刻作品のすべてが、人を「考える人」たらしめるのです。……これは、唐突ですが、ひだかたけし氏の詩作品に対しても言えることです。
ここで、氏の詩作品のなかから、気の利いた一句でも引用できれば良いのですが、先にも書いた通り、わたしは未だ氏の作品を正面から読む準備が出来ていません。この依頼は、急に依頼されたものであり、わたしが氏の作品を批評することは、もっと先であろうと思っていたからです。どうか、読者はここでわたしの言い訳に、あるいはわたしの準備不足に不満を言いますまいことを。わたしも、紅茶を片手に、有り余る情報を他方の手に、氏の作品を批評できるのであれば、どんなにか楽だったでしょう……。
この序文の副題に、わたしは「時間について」という題を付けました。これは、何も読者を哲学の世界に誘おうとしているためではありません。わたしは、氏の詩を読んだ時、次のようなひとつの疑問に突き当たったのです。すなわち、「生まれながらの詩人はいるのか?」と。
「生まれながらの詩人はいる」「生まれながらの詩人などいない」──どちらも、もっともに思えるテーゼです。わたしは、わたし自身の信念に従って、「生まれながらの詩人などいない」という考え方に一票を投じたいとも思うのですが、この論考を書くにあたっては、わたし自身の意向は留保しましょう。どちらも、正当な考え方であり得るからです。……ここで、「時間とは何か?」という命題が、このパズルを解く鍵になって来ます。
わたしは、ひだかたけし氏を「生まれながらの詩人」である、と思っています。このことは、氏の作品を最初に読んだとき、いいえ、それは正確ではありませんね。この詩人の作を読み進めていくうちに思ったことです。わたしは、以前には、人は成長するものだ、その成長の過程において詩を綴るものだ、と思っていました。ですが、ここにどうしようもない才能──ひだかたけしの作品──というものに出会ったとき、「生まれながらの詩人はいる」という命題を突きつけられてしまったのです。
ここで、副題にもした「時間」というものが登場してきます。いいえ、本当のところを言えば、こうしたテーマは二次的に現れてきたものなのです。わたしが、ひだかたけし氏を「生まれながらの詩人」だと思った。その才能、技術に圧倒された、そのことが、わたしに対してひとつの疑問を喚起し、ひとつの解答を出すことを要求した。事実は、そのようなことです。
事は、命題をこのように変換すれば単純なものになります。「詩人のなかには、生まれながらにして、詩人になることを運命づけられた者がいる」──と。わたしが、「生まれながらの詩人などいない」と言いたかったように、生誕直後から詩を書き始める人などいません。その後成功するか否か、ということを鑑みても、人は早くても十歳前後からしか、詩を書き始めることはできないでしょう。それ以前の詩は、いわば「手習い」の範疇に属するものです。
ですが、わたしが言いたいのは、そういうことではないのです。例えば、四十歳、五十歳を過ぎて、人が詩を書き始めた時、そして、それが歴史的な賞賛に値するような詩であった場合、その詩人は「生まれながらの詩人」として評価されるべきものではないのか、といった問いです。この問いは、表面的には易しく、深く考えれば難しい問いです。そこに、「時間」というものが関係してくるのです。
ここで、読者を退屈させないために、氏の詩から一節を引用しましょう。何を引用するか迷ったのですが……
薄暗い
漠然と広がった
空間のなか
台形の
ノッペリとした
大人の背丈半分程の
鉛色の工作機械が
等間隔で何台も
一列に並べられている
これは、「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖」(*2)という詩の、最初の一連です。詩に詳しい人、あるいは詩に興味のある人であれば、この一連だけで、魅了されることは間違いないと思います。こうした表現は、昭和初期のクラシカルな詩、あるいは戦後詩にもまま見られるものですが、それでも氏独自の表現であることが、それに続く詩全体を読むとき、見えてくるからです。
序文があまりにも長くなりすぎることを避けるために、氏の詩を引用しましたが、ここからさらに論を進めれば、序文自体が本文になってしまいます。ですから、ここでは、氏の詩を紹介するにとどめ、「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖」の解説については、後の章に譲るとしましょう。ですが、心ある読者であれば、この一節を引用しただけでも、この「詩人」に興味が湧くことと、わたし自身は考えています。後は……評者としてのわたしの力量が問われることになるのですが、いかがなものでしょうか。
さて、わたしはこの序章の副題を「時間について」としましたが、そのことを忘れてはいません。時間とは、物理学の世界では空間の三次元に対するもうひとつの次元、すなわち第四の次元だとされています。わたしたちが右にも左にも、また北にも東にも行けるように、過去にも未来にも行けるのが、物理学の世界での常識とされています。
ですが、このことは真実でしょうか。わたしたちは、現在というものを認識し、未来には行けるものの、過去に赴くことはできません。このことには、「時間の矢」というものが関係しています。熱力学の第二法則に基づき、「物事が乱雑に向かう方向に進むのが未来である」というのが、現在の物理学の答えです。そして、生物の脳はこのように、熱力学的な「時間の矢」にそって、未来というものを認識している、と。
そのため、例えばブラックホールの内部のように、すべてが収束と秩序に向かう世界のなかにあっては、わたしたちが未来と思うものが過去として認識され、過去と思うものが未来として認識されるのです。……時間とはこのように、あいまいかつ流動性を持つものです。わたしたちが空間を自在に移動できるように、なぜ時間というものは自在に移動することができないのか? この問いに対する答えは、物理学ではなく、形而上学や哲学が与えてくれるものでしょう。「わたしたちは、時間という存在をつかみきっていない」──これが、現在のわたしたちの姿勢であり、限界です。
ここで、もうひとつ氏の詩を引用しましょう。
アスファルト割り紫の花咲かせる野草
水銀灯に足下遥か底光る無機質な虚無
夕陽燃え上がり橙に染まる白壁の陶酔
遠い地平の唸りと無表情な街のザワメキ
大河に崩落していく氷河は何億年もの時間を経て
これは、「分裂」(*4)という詩のなかの一節です。わたしはなんということもなく、この詩を引用したのですが(氏の作品群を検索して、最初に出てきた「時間」という言葉が、この詩のなかに表されていました)、読者はこの詩を読み、氏の詩がどんな詩史にも属さないこと、すなわち模倣ではないことに気づかれることでしょう。氏は、常々「てにをは」を省略した詩を書くという傾向があるのですが、2016年4月30日に書かれたこの詩(比較的初期の詩)にも、その傾向が表れています。
ですが、ここでは「時間」ということに焦点を絞って書き進めましょう。この詩は主観と幻想とが一体となった詩ですが、言い換えれば、氏の人生観と世界観とが一体になった詩だと言うことができます。アスファルトを割り、花を咲かせる野草とは、何の花でしょうか。氏はそうした細部の叙述を拒みます。ただ、そこには季節を通り越した「変化」だけがある。「水銀灯」「夕陽」「白壁」……そのどれもが、(あるいは失われた)過去、すなわち「時間」そのものを表しています。いくつかの抒情、または叙景が「何億年もの時間を経て」という一点に集約されているのです。
いささか序文が長くなりました。ですが、ここに引用した二篇だけでも、氏の詩世界に誘うためには十分なものでしょう。わたしはこの小論を通して、氏の詩がまさしく現代詩であることを証明したいと思っているのですが、果たしてうまくいきますかどうか。どうか、読者諸氏もわたしがこの論を進めると同時に、ひだかたけしという詩人の詩を読み解いてゆくスリルを味わっていただけたらと思います。
*1) 氏の詩はここに置かれています。https://po-m.com/forum/myframe.php?hid=11286
*2) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=370872
*3) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=317802
*4) https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=317802
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