Lの昇天

白石多江

1/9 Lは雑踏の中にたたずんでいる

    ……小曲は終わった。

    木枯のような音が一しきり過ぎていった。

    そのあとはまたもとの静けさのなかで音楽が鳴り響いていった。

        ――梶井基次郎「器楽的幻覚」




*Lは雑踏の中にたたずんでいる



 Lは雑踏の中にたたずんでいた。季節は3月。Lは空を見上げていた。雪。無数の淡雪が舞い降りて、そのうちのいくつかが彼女の薄い化粧をした顔に触れ、体温で溶けていく。


 Sの街でもこの季節に雪が降ることは珍しい。それは、ほぼ一カ月ぶりの降雪だった。だからと言って、人々は慌てることもない。


 Lは何も考えてはいない。雑踏の中にたたずんていることも。時折誰かの肩や手が彼女の肩や手に触れていくことも。気がかりなことは何もない。……そう、何もなかった。


<哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。>


 Lは、昔読んだそんな文章を思い出していた。何に出て来た言葉だったっけ――と、Lは考える。そうだ、「Kの昇天」という小説だった。Lは思い出す。内容はあまり覚えていない。たしか、誰かが入水自殺をし、その観察者が主人公(?)は天に向かって昇っていってしまったのだ、と思う話だった。


 それも、今のLには関係がない。ただ、空から落ちてくる雪がイカロスの羽根の欠片のように思えていた。


 いつまでもそうしていたかった。空は全くのグレーで、そこに吸い込まれてしまいそうに思える。そう、小説の主人公が昇天してしまったように、Lは死にたいと思っていた。理由はない。ただ何となく、という理由でそうしたかった。


(小説の主人公のようにこのまま天に昇れたら)


 と、Lは考える。しかし、それは「死」だろうか。あるいは「死」ではないのかもしれない。あくまでも、Lが望んでいるのは生命を絶つことだったから。


 そのことにも理由はない。生活には満足していたし、それなりに暮らしていけるだけの貯えもある。Lは実家に住んでいるから、今どきの若者たちのように日々の稼ぎで苦労することもなかった。苦労知らずの自分――それが今は恥ずかしくもなく、ましてや誇りでもない。


 この世の何割かの人間は貧しさの中で生きているし、この世の何割かの人間は豊かさの中で生きている。その中間で生きている人間もいるだろう。自分もそのうちのたった一人だと、Lは思う。生きることに理由はないし、同様に死ぬことにも理由はない。


 自分が物語の主人公だったら――と、Lは考える。主人公が死のうとしている場面から始まるような小説は、そう多くはない。今思いつくのは、パウロ・コエーリョの「ベロニカは死ぬことにした」くらいだ。その小説も、最後は主人公は救われてしまう。きっと、今の自分なら違った結末になるだろう。


(わたしには先というものはない)


 そう一人で決めつける。


 こんな気持ちを認めてくれる人を求めていたわけではない。不安定な自分と一緒に暮らしていくのであれば、それは介護と似たようなものとなるだろう。Lは看護師を探しているのではなかった。未知な道を一緒に冒険してくれる相手を求めているのでもなかった。


 彼女にとって「死」は魅力ではなかったし、何かの結論のようにも思えなかった。ただ、それは決められていて、今の彼女が雑踏の中にたたずんでいるように、何かの必然のように思われた。


(「死」は来るんだ、確実に)


 ただそう思っていた。


 雪の降っている空から、Lは前方に目を移す。その動作もあらかじめ決まりきったもののようだった。街の中にいる以上、人は何かをしなければならない。街の中にいて、何もせずにいるということはホームレスにだけ許された特権だ。そして、この街にホームレスは少ない。


 Lの目の前には、点滅する青と赤の信号が存在していた。それは何か、自己の存在をアピールしているもののように思える。「生きようとしている人々」にとって、それは何かの意味を持つのだろう。しかし、今のLには点滅する信号が抽象画か何かのように感じられた。存在することで存在している、それ以外の意味はない。


 そして、地下鉄の駅へと降りていく人々。移動にも何かの意味がある。帰宅するために、仕事へ行くために、娯楽に出かけるために、人は移動をする。つまり、そこには目的があるのだ。目的がないものは、地下鉄にも乗らない。

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