第3話 前

 二〇二八年の夏が来る。7月を迎えた今日はニュースで海水浴の解禁やらなんやらの朗報が飛び込んできたが、再び健児と離れ離れになったこはくにとって、気分の晴れない日である。


 昨日、彼女がひび割れた窓を見て失神してから、記憶がない。どうやら倒れた後にベッドへ運ばれ、そして夏の風が吹き込む部屋で一日中眠っていたようである。


 目が覚めてからこれまでに、健児へおくったメッセージは千通に至った。しかし、彼からの返信は来ない。


(どこに行ったのよ…?)


 と、スマホを置いて、枕に顔を沈めると、今まで気にしていなかったテレビのワイドショーで討論し合う評論家達の声が耳に飛び込んできた。


「連日から議題に上がっている北海道の処置ですが、今朝入った速報によりますと、ロシア側が九十九カ年に及ぶ租借権を要求したようです。相澤さん、これについてどう思われますか?」


「許せないですよね。何人死んだと思っているのか。これが認められたら、日本側の死者七万人はほとんど犬死にじゃないですか」


 こはくはベットの端においてあったリモコンを取ってテレビを消した。別につけていてもいいのだが、こういう話は健児との同棲生活によって、気付けば消すように癖づいている。


 静けさが当たりを包んだ。顔を伏せた枕から健児の匂いを嗅ぎつつ、再び眠りに落ちようとしたところで、ふと今のやるせない寂しさを無性に紛らわせたくなった。


 ムクッと体を起こして、スマホを手に取る。こういう時は、せき止めとかの風邪薬を大量に飲めばいい。それはいわゆるオーバードーズとか言われて、世間では未だ許容されていないが、彼女のような女性にとって、立派な生きるための手段であった。


 しかし、今の御時世、物価が上がり続けるこの社会で、大量の市販薬なんて貧乏人には到底手が届かない。だからこそ、スマホを取った。SNSで安価に売ってくれる人物を見つけるためである。


 薬の売人なんぞはSNSでごまんと活動している。今回見つけたのは、若干日本語が怪しいアカウント。怪しさと危ない臭いが立ち込めているが、こういう売人は他の連中と違って、格安で咳止めの風邪薬を売ってくれることをこはくは体感で知っていた。


 そして、こういうきな臭い輩に連絡を取ると、疾風のごとく返信が返ってくる。国家が国民による訴えなど、二年か三年後まで後回しにするのに対して、この迅速な対応。もしかするとこういう輩の方が真に国民の味方なのかもしれない。


 が、連絡を取り合う過程で、こはくは気付いた。


(これ、たぶんロシア人だなぁ……)


 日本語の使い方でわかる。この助詞の抜け落ちが激しいのは、最近首都東京で乱暴狼藉の限りを尽くしているので有名なロシアの駐在軍人、もしくは退役軍人に違いない。


 その輩達が指定する場所におめおめと一人で向かっていっても大丈夫なのだろうか。


 多少の不安はあったが、しかし、心の中でどこか


(危なくなったら、健児があのときみたいに助けてくれる)


 という期待感と、


(健児が私のことを雑に扱ったら、私はグレまくってこんなこともしちゃう。あの人、どんな顔して反省するかな)


 という高揚感も浮かんできた。彼女はまるで、敵に捕まるお姫様のような、そういうメルヘンチックな想像に取り憑かれて、十中八九危険である薬の取引現場に向かおうとした。


 もちろん、健児に「どこそこで薬を買ってくる」、と連絡を入れて。


***


 最近の東京は、昼間でも物騒だ。そこらに手足のない傷痍軍人が乞食と一緒に露命を路上で繋いでいるし、勝ち誇った露人が猿でも見下すかのように風をきって歩いている。


 学校では「日本は永久に平和」だと習ったが、他に習得させられた道徳と常識に同じく、すべて嘘であったらしい。そうでなければ、午前中だというのに警察がまともに機能しない国家があるはずもない。


 今はメイクすらしていない顔の半分をマスクで隠して、指定の場所まで向かっている。年頃の女子で、美容には人一倍気を使うこはくが化粧をしないのは、強姦事件にたいするささやかな対策であった。


 さて、彼女はもちろん知る由もなかったが、受取の指定場所は健児が闇バイトで薬を受け取ったあの路地裏の近くの大通りであった。


 彼女の場合もまた、市販薬とはいえ薬の売買なので、もっと隠れてこそこそやればいいのだが、こんなあからさまになる大通りで行うのは理由がある。


(あ、来た……)


 こはくの目にしたものが第一の理由である。売人は彼女が予想した通り、身の丈の高い露人であった。その数は五人。

 

 第二次日露戦争で勝利した露国の国民は、日本の領土内であっても、日本国の法律で裁けない。だから露人の売人は、事実上制約なしで違法薬物やらなんやらを売りまくり、ボロ儲けをしていた。


 今、都内ではそういう外国人の跋扈が最大の問題になっているが、碧眼に高い鼻を備えてた男の連中もずいぶんと売買に手慣れているのだろう、群衆の中で薬を欲しているこはくを見分け、手を振りながら近づいてくる。


 いまこの状況を健児が見たらどうなるだろう。きっと顔を真っ赤にして、日本国がどうたら言って激昂し、この上から見下ろす外国人に天誅を下すはずである。


***

 

 

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