三 再会

「貴女を守れる場所が、智鋪にあればいいのだけど――只人の国長が、大王に逆らうなんて無理だわ。只人でなくても、大王の周囲と姻族になっている国は、どこも安全と言えない。きっと高良彦が手を回す」

「うん」


 高良彦がいかに智舗じゅうの婚姻に目を光らせているかは、良く知っていた。筑紫洲全土に大王の姻戚が連なる中、そのいずれからも逃れるのは至難の業だ。


 多岐都の言うとおり高良彦は、夕星の味方であるとは限らない。熊襲の呪いで憔悴した夕星を伊都へやることにも不満そうだった。


 だが、日向大王は違う。


 夕星がそう信じるのは、大王が落ち延びた自分を拾ったからだけではない。仮の名を与えられたおかげで、熊襲の渠師者に囚われずに済んだ。呪いに苛まれていた自分を、伊都へ出してくれた。


 多岐都にとっては信じがたい話だろう。でも、何度も不思議なやり取りを交わした夕星は、どうしても彼女を敵と思えなかった。


 不意に多岐都が鋭い目でこちらを見た。なにか、看過できない物事が見つかった時の顔をしている。


「つれない返事ね」

「そんなことはない」


 図星だったが、努めて冷静に答えた。しかし相手は多岐都である。


「どうせ短いはずだった命だから、黄泉に行っても良いと思っているんでしょう」


 あまりにあけすけな物言いに、夕星は絶句した。それ見たことか、と多岐都が顔つきを険しくする。


「娘を産んで死のうがそうじゃなかろうが、短い命なのは同じと思っていない?」

「多岐都――」


 多岐都と葉隠が違うのは、こういうところだ。彼なら決して訊かないようなことまで、多岐都は正面からぶつけてくる。


 思わず気おくれしたが、怒っていると思った多岐都が急に涙ぐんだので驚いた。


「憶えていてよ。私は、また会えるかわからなくても、貴女に生きていてほしいの」


 筑紫洲で出会った者の中で、多岐都は特別だった。


 互いに一国の姫でありながら、智鋪の傘下で生かされる身分だった。だが、細かな状況は違うなかで二人を結び付けたのは、彼女の不器用な温かさだったと思う。


 その多岐都が無事を望んでくれたことが、意外なほど夕星を揺さぶった。本当の意味で満ち足りた繋がりなど二度と手に入らないと、どこかで思っていたことに気づく。


「最初に思い描いた姿じゃなくても、生き延びることはできる。智鋪にくだって、昔は考えられなかった形で生きる身像の者は、そう思っている」


 苦しそうな声だったが、偽らざる本音には違いなかった。国を亡くすということがどういうことか、多岐都は夕星の話から充分に知っていたはずだ。


「――叔母様という犠牲はあったけれど」


 多忙な国長の母に代わり、多岐都を育ててくれたのは叔母だったと以前聞いた。


「あんな思いは一度でいい」


 夕星は多岐都の肩を静かに抱いた。言葉を探しながら口を開く。


「前にも言ったけれど、黄泉で私を待つ者などいない。だから急いで行くことはない。それに、ながらえる理由もある」

罔象みつは姫のこと?」


 水脈読みの姫君の死について、多岐都と話したことがある。智鋪に来て間もないころ会ったあの泥だらけの子どもは、水分の里の姫だったと、いまや夕星は確信していた。


 罔象姫のような者が出ない世にするには、智鋪の安寧を保つ日向大王に仕えることが自分にできることだとの思いは変わっていない。だが、そのほかにもながらえたい理由があることは、誰にも打ち明けていなかった。


「それも一つだけど」


 煮え切らない言い方をした途端、尋常でなく勘の鋭い多岐都はなにかを感じ取ったらしい。まじまじと夕星を見つめた後、ありがたいことにいつもの調子で言った。


「生きながらえる望みになるなら、私は貴女が誰に抱かれようと構わないわ」


 思わず噴き出した夕星を、多岐都は拗ねたような目で眺めた。


「本気よ。でも高良彦だけはやめて」


 追い打ちをかけられ、夕星は声を出さずに笑うのに苦労した。多岐都に縋るようにして肩を震わせていると、呆れたような顔をされた。


 自分が長らえる限り、葉隠は生きられる。夕星は彼に生きていて欲しかった。


 次に会えたら彼のことを多岐都に打ち明けよう、と思った。また饗の祭祀で多岐都に会えると、その時はまだ信じていた。





 大王の館へ着いたのは黄昏どきだった。


 高良彦と日向大王が待ち構える広間は、薄闇に沈もうとしていた。外廊の脇に篝火が焚かれているところを見ると、熊襲の呪いを心配しなくても良くなったのかもしれない。


 二人を見た夕星は、小さく息を呑んだ。日向大王の面に、明らかなやつれが見て取れたからだ。漆黒だった髪には白いものが混じり、顔には深い皴が刻まれている。驚いた理由はそれだけではなかったが。


 努めて平静に大王と高良彦の前に進みでた夕星は、膝を突き頭を垂れた。


「ただいま伊都国より戻りましてございます」

「面を上げよ」


 言われてあらためて目を据えると、大王の顔は夕闇の中にも蒼かった。眼だけが以前と変わらない強さを宿している。


「よくぞ戻った。台与の世話を良くしてくれていると、饗で伊都の祝から聞いていた」

「ありがたいお言葉にございます。身像の多岐都姫と、台与様にお仕えできたのは身に余ることでございました」


 多岐都の名を出すと、高良彦の険しい表情がさらに曇った。大王は、やつれた分だけ鋭さの加わった微笑で言った。


「伊都での務めが順調なところ、呼び立ててすまない」

「いえ」


 言ったところで、高良彦がやにわに口を開いた。


「そなたにはふたたび、ここで暮らしてもらう。ただし、新たな任が始まるまで、誰にも姿を見せず過ごすよう」


 夕星は眉を顰めた。一方的な命に、疑念が頭をもたげる。


「新たな任とは? いつ始まるのです」


 静かに尋ねると、なにかを言い淀んだ高良彦に代わり、日向大王が答えた。


「私が死した時だ」


 瞠目する夕星の前で、大王は表情を変えなかった。高良彦がふたたび口を開いた。


「そなたには、日向大王の影となってもらう。大王が高日たかひ知るときより、其方が大王として生きよ」


 高良彦は容貌も声も、昔と変わりなかった。ただその顔には深い疲れが滲んでいた。

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