三 智鋪

 その時、降り注ぐ雨の向こうに松明の火影が見えた。吸い寄せられるようにそちらへ足を向けた夕星は、男の話し声を耳にした。


「見つかったか」


 松明のわきに立った初老の男が、もう一人の小柄な誰かに尋ねた。赤々と燃える炎は対になって置かれ、その間に黒木の堅牢な門が口を開けていた。


 門の奥にもいくつも松明が見える。これだけの明かりを灯す油があるなら、よほど豊かな者の住居に違いなかった。


「ううん、いなかった」


 声変わりしていない少年が、男の問いに答える。


「逃げ出してからすぐ追って行ったけど、見失った。高良彦(たからひこ)様に何と言うべきか」


 初老の男は諦めたようにかぶりを振った。


「いずれにしろ、今宵はこれ以上探せまい。もう戻ろう」


 彼らが門のなかへ消えた後、自分も忍び込めるだろうか――その考えが、最後の希望のように瞬いた。この規模の館なら、身を隠す場所も見つかるかもしれない。ところが夕星の姿は、すでに火明かりに照らし出されてしまっていた。


「誰だ」


 見とがめた男が、すぐさま誰何した。少年もこちらを振り返った。


「ここで何をしている」


 汚れた身なりを咎めるように見つめられ、たじろぎながら答えた。


「雨や雷をしのぐ場所を探しておりました」

「雷など鳴っていない」


 相手は露骨にいぶかった。その通りだが、夕星には迫りくる雷雲の足音が聞こえていた。


「雷は、夜更けにここに至ります。この雨も三日は続くでしょう。どこかで軒をお借りしたいのです」

「三日も雨が?」


 少年が不思議そうに尋ねた。夕星は頷いた。


「谷底にもいずれ、川の水があふれてしまう」


 町に着くまで辿った川は、野をゆるやかに蛇行していた。あの川床から平野に水が氾濫するまで、時間はかからないだろう。


「なぜそんなことがわかる?」

「それは――」


 男が顎を突き出すと同時に、夕星は静かな羽音を聞いた。あ、と少年が声を上げると同時に、誰かの手が夕星の肩を掴む。しかし振り返ると目に入ったのは、人の手ではなく太い鉤爪だった。悠々と止まった鷹が、長い翼を器用に折りたたむところだった。


 思わず身を強張らせたが、炎に照らされた琥珀色の目は不思議と恐ろしくない。まだらの羽を伝う雨粒が、音もなく地へ滴った。


 少年が嬉しそうな声を上げた。


「良かった。自分で帰ってきたのか」


 どうやら彼らは、この鷹を捜していたらしい。呆気に取られ突っ立っていると、別の声がかかった。


「どうしたのだえ」


 門の内側に、笠を差しかけられた白髪まじりの女が立っていた。白練色の衣に、三角の紋を刻んだ帯と襷を締めており、一見して巫女とわかる。何連もの頸珠くびたまをつけているところを見ると、相当に身分が高そうだ。皴の刻まれた顔は凍てついたような無表情だった。


 男が途端に狼狽して答えた。


「この者が、館に忍び込もうとしたのです。雨が三日続くとか雷が鳴るなどと、怪しげなことも申していて」


 巫女は濡れねずみの夕星を上から下まで眺めた。


「この者は、追い返さずともよい」

「しかし――」


 少年が明るい声で男を遮った。


「良いじゃないか。逃げ出した鷹も戻って来たんだし」


 そう聞いて、大鷹を見やった巫女の口元がほころんだのは、気のせいだったろうか。


「そうだったか。鷹は鷹所へ納めてやりなさい」


 は、と頭をさげた男の脇から、少年がそっと夕星に寄った。鷹は恐れる様子もなく、差し出された彼の手頸へと移った。巫女が夕星に言った。


「其方はこちらへ。雨宿りの許しは得ている」


 事情はわからないが心底ありがたいと思いながら、夕星はうなずいた。歩き出した巫女に、粛々とついていく。


 松明に照らされた外廊は見たことのない長さで、黒木の柱も床も、戸口に下がる薦の網目までが美しかった。この状態を保つだけでも、相当な数の人間が働いていることは想像がついた。


 一体ここはどれほどの大国で、長はどのような人物なのだろう。


 思考は長く続かなかった。雨宿りのできた安堵から、夕星は巫女の背後を歩きながら気を失ってしまったのだった。





 夕星は三日三晩、熱にうなされた。その間、国じゅうが大水で騒ぎになっていたらしい。目覚めた夕星を世話してくれた采女うねめが、そう言った。


 白露しらつゆという名の彼女は他の采女同様、地方の良家からこの館へ出仕していた。彼女は夕星を甲斐甲斐しく看病してくれただけでなく、知りたかったことをすべて聞く前に喋ってくれた。曰く、夕星を館に招きいれた女は巫女の長であったらしい。


「私たちも巫女長様も、日向大王ひむかのおおきみにお仕えしているの。智鋪ちほのすべてを治める方の館だから、広くて驚いたでしょう」


 大国智鋪を統べる長――大王は、日の神天照あまてらすの末裔だという。


「采女も衛士えじも何百人もいるわ。大王のお住まいだから当然だけど」


 ふっくらとした頬を緩ませ、白露は得意げに呟いた。その彼女から水の入ったつきを渡され、夕星はすぐに口をつけた。ひどく喉が渇いていた。


 目の前には朝餉の膳が置かれていたが、まだ食欲のない夕星は半分近くを残していた。代わりに白露が、手つかずの栗や貝をつまんだ。


 彼女が空腹を満たすあいだに、夕星は自分の服を見下ろした。いつの間にか、清潔な白練色の衣と裳に替えられている。白露と同じものだ。腰帯は信じられないほど鮮やかな赤で、染めの均一さは見事だった。下働きがこれほど美しい染物を身に着けられることひとつとっても、この国の豊かさが透けて見える。


「貴女の衣と裳は、ましの女たちに洗ってもらったわ。汚れがひどくて、あまり綺麗にならなかったけど」


 白露の指さした部屋の隅を見ると、夕星の衣服と月読の短剣が重ねて置かれていた。衣と裳は煤や土にまみれて元の色を失っていた。変わらないのは短剣の鈍い輝きばかりだ。


「ありがとう。ひどく汚れてしまったから、致し方ない」

「大水の夜に、大変だったわね。王弟の高良彦様も、被害に遭ったあちこちの里へ手当てに行かれているわ」


 夕星がここへ来た経緯が気になるのか、白露は少し遠慮がちな口調で続けた。


「大雨の少し前に、水分みくまりの里が熊襲くまその軍勢に襲われて、たくさんの人が土地を追われたと聞いたわ。もしかして、貴女も逃げてきたの?」

「――ああ」


 水分の里も熊襲も、どこの何かさっぱりわからなかったが、夕星はうなずいた。ひとまず安全な場所に辿り着いたとはいえ、身元を明かすことには抵抗があった。


 夕星の思惑をよそに、白露は何もかも心得たというように頷いた。


「着ていたものが血まみれだったから、いったい何があったのかと思ったけど。里を追われて、嵐にも遭ったなんて大変だったわね」

「うん」


 聞いた話から身分を言い繕うことができて、夕星は内心安堵の息をついた。

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