子供のころ

『母親はキッチンに立たないひとだったから』


『そうなんだ』


『父親はいつも料理してたけど、家では何もしない』 


『もしかして、料理人さん?』


『そう』


 父子そろって料理好き。なんか、良いな。一緒に料理したりするんだろうか。


『お父さんに料理を教わったの?』


『独学』


 意外な返答に、思わず画面をタップする手が止まる。


『いつだったか、気を張る店が苦手って言ってたじゃん』


『うん』


『父親の店、めちゃくちゃそんな感じの店で』


 思わず冷や汗をかく。


『ご、ごめん! 悪く言うつもりはなくて!』


 ガツガツ食べたいがゆえの言葉というか。つまり私の食い意地が上品さを欠いているだけで。


『ぜんぜん。俺も同意見だから。なんか、気取ってるっていうか。客を選んでる感じがイヤだ』


 郡司の父は、銀座にある高級店のオーナーシェフらしい。郡司が幼い頃ころから、不在がちだったという。


『お仕事、忙しかったんだね』


『女だよ』


『え?』


『ずっと愛人がいんの』


『そう、なんだ……』


 それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。


『俺は、誰でもウェルカムな店をやりたい』


『店って、ごはん屋さん?』


『そう。でも』


『うん?』


『何料理の店にしたいか、そこまでは決まってなくて』


『うん』


『どんな料理を作りたいか、考えてて。今のとこでバイトしてる』


 もしかしたら、父親への反発もあるのかもしれない。たとえそうだとしても、自分がやりたいと思える仕事があるのは良いことだ。


『将来のことを考えているなんてすごいね』


 私は、特にやりたいことがなかった。奨学金を借りて大学へ進学したものの、返済のことを考えると気が重かった。


 ずっと犬を飼いたいと思っていたし、動物は好きだった。働き甲斐もあるし、環境にも恵まれたと思う。今は、入社して本当に良かったと思っている。


 就活の際、何社か面接を受けて内定をもらえたのが、わんにゃんスマイルだった。弟妹たちのことを思うと母親には頼れず、とにかく就職してがむしゃらに働いた。


 役職がつき、それに伴い収入も上がった。完済のめどが立ったときは嬉しかった。いや、安堵した。誰かと遊びに行くこともなく、自分なりに節約して暮らした。


 料理が苦手だから、ごはんはコンビニや外食を頼ってしまったけれど。


 自分のことも、ぽつりぽつりと郡司に話す。途中でタップする手が疲れたので、会話に移行した。喉の調子は良くなったらしい。それでも、『まだ本調子じゃないから、うつる』と言って、アプリを通しての会話になった。


『今日ね、ごはん作りながら思ったんだけど』


『わたあめの?』


『どっちかっていうと、郡司くんのほう』


『うん』


『楽しかったんだよね』


『うん』


『買い物してるときも、レシピ探してるときも。材料を切って、手ごろな大きさの鍋を探して、棚を見てたら土鍋があって。コトコト煮込んでる時間も、楽しかった』


『うん』


 郡司の掠れた声が耳に届く。相槌の「うん」は、全部違っていて、低かったり、よく聞こえなかったり、とぎれとぎれだったりした。


『うちはIHキッチンだけど、ここはガスコンロじゃない?』


『そうだね』


『火をつけるときの、チッチッチっていう音とか、ぜんぶ楽しかった』


『音が楽しいの?』


 くすくすと笑う声が、耳の奥にダイレクトに響く。


『私、どうして、料理が苦手だと思ってたんだろう』


 上手に作れないというより、嫌いだというニュアンスを多く含んでいたことに、今さら気づいた。


 わずかな沈黙のあと、郡司が言葉を発した。


『無理やり、作ってたからじゃない? 子供のころ』


『あー……、うん。でも、正直に言うと、郡司くんには多少オーバーに伝えていたというか』


 誇張していたことを恥ずかしく思いながら詫びる。


『でも、料理を担当してたのは本当なんでしょ』


『まあね』


『それって、週にどれくらい?』


 ほとんど、毎日だった。だからこそ、たまに母親が作る和食ごはんが好きで。


『弟妹さんたち、いるんだよね』


『うん、でもね。私が一番上だったから』


『……何歳違うの?』


 郡司が、言葉を選んでいるのが分かる。慎重に、私の中に足を踏み入れようとしているのを感じる。


『私と弟は一歳違いで、妹とは三つ離れてる』


『ほとんど変わらないじゃん』


『子供のころの一年は大きいんだよ』


 そう言いながら、自分でもおかしいなと思い始める。


『じゃあ、杏さんが主導して、弟妹さんたちに手伝ってもらう感じ?』


『……そういうのは、なかったな』


 どうしてだろう。手伝ってもらえばよかったのに、ぜんぶ自分の役割だと思っていた。そうしなければと、思って、ひとりでがんばって……。


『掃除とか、洗濯とかも……?』


『う、うん。私がやってた』


『それで、弟妹たちの面倒もみてたの?』


『そ、そうだね……』


 面白がって、自分の過去を誇張したつもりだった。


 話を盛って郡司に聞かせたつもりでいた。でも、違った。彼に伝えていたことは、ぜんぶ真実に違いなかった。


 なにひとつ、大げさなことはなかった。


 ぐらぐらと、信じていたものが急に崩れていくような気がした。世界がぐるりと反転したような、でもその世界に自分はまるでついていけなくて。


『もしかして、私って、けっこう頑張ってたのかなーー!』


 わざとらしいくらいの明るい声が、行き場を失ったみたいに宙に浮く。

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