「たっだいまー!」

 玄関の開く音とほぼ同時に、泉澄の屈託のない声が聞こえた。リビングでタブレットをいじっていた俺の指が一瞬止まってしまう。

「お母さん、夕飯なに~?」

 バッグを肩に引っかけたまま訊ねる泉澄を、俺は肩越しに窺った。我ながら態度が怪しい。

「わ、これもしかして角煮? いつから煮込んでたの?」

「ゆうべ仕込んでおいたの。会社の後輩に詳しい子がいて、美味しくする方法教えてもらったのよ。こうするとすごく味が染みる、って言われたんだけど……どう?」

「……うん、美味しいぃ~♪ すっごい、お店で出してる料理みたい!」

 とたた、と軽やかな足音が駆けてきたかと思うと、俺の目の前にいきなり、小さく割いた角煮をつまんだ箸が差し出された。

「はいお兄ちゃん、あーん♡」

「っ、あ、あー……む」

 反射的に開けてしまった口に、箸を差し込まれる。舌の上で柔らかな肉が解れ、煮汁がとろり、と滲んだ。

「ね? お兄ちゃん、美味しいよね?」

「……うん。美味しい」

「お母さん、泉澄にも作り方教えて! こんど作ってみたい」

「え~、やだ。泉澄が料理上手になったら、早くお嫁に行っちゃいそう」

「いまどき、お料理の腕だけでお嫁になんてもらってもらえないもん。ね? お兄ちゃん」

「あ……う、うん。そうだな」

「……どしたの? お兄ちゃん、ボーッとしてる」

 泉澄は肉汁がついた箸をぺろ、と舐めながら小首を傾げる。俺は少しためらってから、思い切って訊ねた。

「……泉澄。きょう、惟花からなにか言われてないか?」

「ふえ? 惟花ちゃん? 別になにも言われてないよ」

「……そうか」

 少なくともあのあと、惟花は泉澄に接触はしていない、らしい。ただそれが、惟花が泉澄の行き先を特定できなかったからなのか、泳がせているだけなのか、は泉澄の言葉だけでは解らなかった。

「そういや今日、例の校内放送、聞いたぞ」

「え?! ウソ、聞いちゃったの?! 恥ずかしいな~……」

「声優目指すんだろ? 家族に声、聞かれた程度で恥ずかしがってたら、仕事にならないぞ」

「声優って、ひとに見られながらする仕事じゃないし……それに、お兄ちゃん――家族に聞かれるのは、やっぱり照れるよ~……」

「でも、悪くないと思うぞ。型通りのアナウンスじゃなくて、ネタみたいにしたのは、泉澄のアイディアなんだろ?」

「う……そ、そうだけどぉ……それだから、恥ずかしいんだってば~……」

「そのために最近、部活で頑張って稽古してるんだろ? 職業になったら、俺だって年中、テレビとか配信とかで泉澄の声を聞くことになるんだから、早く慣れた方がいいぞ」

「ん……頑張る」

 泉澄は両手を胸許に置いて、こくん、と頷く。

 見た限りでは、泉澄の態度に嘘はない、ような気がした。

 実際、生真面目で努力家の泉澄なら、夢を叶えるために怠けはしないだろう。稽古してることは間違いない、と信じたかった。

「おかーさーん、今日も私、先にお風呂もらうね~」

 キッチンの方に向かって宣言すると、泉澄はリビングを出て、階段を上がっていく。帰宅するなり部屋に荷物を置いて、部屋着やタオルを抱えて浴室に入り汗を流すのが、最近の泉澄のルーティンになっていた。

『一所懸命稽古すると、けっこう汗掻いちゃうんだよね』

 なんて話をしてたから、少なくとも汗が滲むようなことはしてるんだと思う。

 ――でも、もし“汗が滲むようなこと”が、稽古以外だったとしたら?

 突如として脳裏をよぎった疑念に、は、っとする。

 急に、いても立ってもいられなくなった。ソファから立ち上がったものの、自分でも何をしていいのか解らない。

 気がついたら、浴室の前に立っていた。

 正確には、洗面台と洗濯機を置いた部屋の前。ふたつ扉を挟んだ向こうで、湯を掻いているらしい物音がしている。俺はにわかに動悸が激しくなるのを感じた。

(……俺、何しようとしてるんだ?)

 ――ここで泉澄に直接、訊くつもりか? 問い詰めるにしても、いったいどんな風に訊けばいい?

 俺の知る限り、妹に男女交際の経験はない。兄の俺が言うのもなんだけど、相当に可愛いほうだと思うが、生真面目な性格ゆえか、浮いた話はまったく聞かなかった。

(……もしかしたら単純に、俺が鈍いだけかも。泉澄、頭はいいほうだから、案外したたかに、彼氏の存在を隠し通しているのかも知れないし……)

 でも、それでもまだ不自然な気がする。もし泉澄がそこまで計算高く行動していたのなら、部活のない日に稽古をしてる、なんて簡単にバレるような嘘をつくか?

 考えるほどに混乱した。それならやっぱり、直接問いただすべきなんだ、と思う――けど、踏ん切りがつかない。

 泉澄だって、もうお年頃なわけだから、彼氏が出来てもおかしくない。そして兄貴としては、妹の幸せを考えれば、相手の素性ぐらい確かめたくなるのも当然、だと思う。

 ――なのに、何故かドアの前でまごついてしまう。

 俺自身、己の感情を量りかねていた。なにに怯えてるのか、なにを警戒して、泉澄に呼びかけるのをためらってるのか。

 ……えぇい、くそ。

 ここでグスグズしていても埒があかない。ようやく腹を括って、俺はドアを叩くために拳を上げる。

 途端にドアが開いた。

「――ふぁ?!」

「うわあ?!」

 同時に悲鳴。俺は思わず飛びのき、後ろの壁で軽く背中を打った。

「……お兄ちゃん、どうしたの?」

「あ……い、いや……その……」

「もしかして、お兄ちゃんもお風呂、早く入るつもりだったの? ゴメンね、泉澄、早く汗を流したかったから……」

「いや――そうじゃなくて……ちょっと、手を洗おうと思ってさ、でも泉澄が入ってるから……」

「そ、そうなんだ。ゴメンね、待たせちゃって。いいよ、使って」

 そう言って、泉澄は脱衣室を出て、俺に道を開ける。引っ込みがつかなくて、俺は身を縮めて泉澄の前を通った。ゆったりとした部屋着姿の泉澄の身体から、湯気と共にボディソープの華やかな薫りがふわり、と漂う。妙に緊張した。

 脱衣室のドアを閉じると、念のため、真面目に手を洗う。特に汚れてるわけではないけれど、あんまり早々と済ませると怪しまれるような気がして、丁寧に石鹸を泡立て、じっくりとゆすいだ。

 視界の端に、洗濯籠がある。我が家は基本、全員が同じ籠に脱いだ服を入れて、まとめて洗濯するようにしていた。だから、もし汗がじっとりと染みていたなら、泉澄も下着を放り込んでいるはずだった。

 ……神に誓って言うが、普段はいくら家族でも、洗濯籠のなかを覗きこんだりしない。ただ、視線の端に入ってしまったから、思わず確かめてしまった。

 さすがに、中身を取り出して漁ることはせず、溜まったままの状態を観察する。

 泉澄が脱いだ下着らしきものは、見当たらなかった。


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