第133話 怪物
逃げた賊を追うのを邪魔するように、長い黒髪の女が立ち塞がる。
女は微笑みながら髪を掻き上げ、微笑んでいた。
「…………何かしら、今の手応えは。」
そう言うと右手を見つめ、軽く手を開いたり閉じたりする。
女はエウリアスに視線を向けると、肩を竦めた。
「もう……、何で坊やがこんな所にいるのよ。」
エウリアスは強い衝撃を受けた左肩を摩りながら、何とか立ち上がった。
「坊ちゃん、ご無事ですか!? お怪我は?」
「ああ、俺は大丈夫だ。」
強い衝撃を受けはしたが、
不思議な感覚だった。
とはいえ、馬上から転げ落ちたため、あちこち痛いことには変わりはないが。
エウリアスは、女を見る。
その異様さは、一目で分かるというものだ。
何人も斬られ、殺伐とした襲撃現場。
殺気を放つ騎士や兵士たちの前に立ちはだかり、平然と微笑んでいられる女が、普通なわけがなかった。
「今日は、坊やの相手をしに来たわけじゃないのよ?」
エウリアスは、女のその言葉にピクリと眉を動かす。
「今日『は』――――?」
エウリアスがそう言うと、女がますます笑みを深めた。
「俺は、貴女に会った憶えはないのだが……。」
そこで、エウリアスの勘が囁く。
「……お前か? 裏でこそこそ襲撃させていた奴は。」
「えっ!?」
「それは、どういう……!」
エウリアスの言葉に、タイストたちがぎょっとする。
エウリアスも、特に根拠があるわけではない。
この女は異様だ。
それだけで、
斬っても倒せない、人ではなくなった存在。
何度となく襲撃を受けた。
しかし、裏で企てる者は一向に掴めなかった。
この女は、エウリアスのことを知っている。
まるで、これまでエウリアスに「何か用事があった」ように言う。
エウリアスの
エウリアスの冷えた目を受け止めながら、女はおかしそうに笑う。
「フフフ……随分と鼻が利くワンちゃんね。」
「否定しないのか?」
「いえ、否定させてもらうわ。何のことかしら?」
今更すぎるその返答に、エウリアスの方が笑ってしまいそうになった。
エウリアスは女を睨みながら、ゆっくりと左足を引く。
「…………ようやく、姿を見せたな。」
「だから、何のことよ?」
「自分で心当たりがあるだろう? オリエンテーリングで賊に襲撃させ、ラグリフォート家やホーズワース家も襲撃させた。騎士学院では六人もの学院生を操り、モルデンを殺害した。」
「ひどい濡れ衣ね。」
そう言いつつ、女は楽しそうに目を細める。
「下っ端の王子を襲わせて、私に何の得があるっていうの?」
「さあな。……まあ、百歩譲ってトレーメル殿下襲撃は違うとしようか。」
そこで、エウリアスはジャリッ……と右足を僅かに進めた。
「けど、なぜ貴女はオリエンテーリングで襲撃されたのが、王子だと知っている?」
エウリアスがそう言うと、タイストやグランザが目を瞠る。
トレーメル殿下襲撃事件は、一般には公表されていない。
それを知るのは、犯人と貴族、捜査関係者。
人数が絞れるわけではないが、この女が関係者であることは確定した。
女が、ますます口の端を上げた。
エウリアスは女から視線を外さず、タイストたちに警告する。
「気をつけろ。こいつも首を刎ねても倒せない可能性がある。」
「あら。さすがに首を刎ねられたら死んでしまうかもしれないわね。――――
その言い方で、人ではなくなった存在のことも知っていると、エウリアスは確信した。
女とエウリアスの距離は二十メートルほど。
少々近いが、ぎりぎり【
「お前たち、無理に仕掛けるな! 囲え!」
「「「はっ!」」」
エウリアスの指示に、兵士たちが女を大きく包囲するように動く。
しかし、そうして指示を出しながら、エウリアスは別のことを考えていた。
「【偃月斬】いくぞ!」
エウリアスは、小声で鋭くクロエに伝える。
二十メートルも離れた場所で、エウリアスが長剣を薙ぐ。
ブシュッ!
「…………ッッッ!?」
突然女の首から血飛沫が上がり、包囲に動いていた兵士たちがぎょっとした。
「…………ッ!? ……ッ!」
女はよろめきながら、右手で喉を押さえる。
兵士を展開するように見せ、その実エウリアスは、【偃月斬】で首を刎ねることを考えていた。
普通に斬っても、倒せるかもしれない。
だが、倒せないかもしれない。
ならば、いちいち試すようなことはせず、初手で
女はよろめきながら
しかし、倒れることはなかった。
「ぎっ……ぎざまぁぁああ……なにをぉぉおっっっ!!!」
女が、凄まじい形相でエウリアスを睨む。
ブワッ……!
女が手で押さえた喉から、黒い靄が噴き出した。
「なっ……!? 何だ、こいつは……っ!」
あまりに異様な光景に、包囲に動いていた兵士たちの足も止まってしまう。
やがて、その黒い靄が止まり、出血も止まった。
女が、喉を押さえていた手を下ろす。
エウリアスは、その光景を唖然として見ていた。
「切断、し切れなかったのか……?」
「どうやらそのようじゃ。呆れるくらい頑丈じゃのう。」
まさか、【偃月斬】でも斬れないとは。
何より、その傷もすでに塞がってしまったようだ。
喉が切れた状態では、まともに声を出すこともできないはず。
女の、ぎらぎらとした目が、エウリアスを真っ直ぐに射貫く。
その狂気を宿したような目に、エウリアスの心は竦みそうになってしまった。
「あんまり、
そう言いながら女は、血だらけの顔を右手でべったりと拭う。
その仕草一つにも、まるで現実味がなかった。
血だらけの顔で、女が嗤う。
「ンフフ……だめ……だめよ。あぁ……もう…………、だめなのにぃ……!」
女が、左手をわなわなと震わせる。
時折ビクンッと震え、ぎこちなく動く。
ゴキッ……ボキッ……!
不気味な音を立て、女が左手を震わせている。
「あぁ……んっ……! もう……我慢できないのぉ……。」
恍惚とした表情で、女が仰け反るように身を捩る。
左手をだらんと下げ、目を見開き、エウリアスを見下ろすようにする。
「…………ぁん……お願いぃ……。」
恍惚に蕩けた顔で、女が甘えたように声を漏らした。
「――――死んで。」
女が仰け反っていた身体を起こし、一瞬で左手を振るう。
開かれた巨大な手が、瞬きの間もなくエウリアスの目の前に迫った。
ガギンッッッ!!!
「グゥゥウウッ!?」
咄嗟にエウリアスは長剣を立て、その鉤爪のような手を受け止めた。
長剣に阻まれたその手は、ギチギチと音を立て、何とかエウリアスの顔面を掴もうと動く。
「何ぃ!?」
「坊ちゃん!?」
「エウリアス様!」
突然のことに動けずにいた騎士や兵士が、女に斬りかかる。
だが、女は左手を引っ込めると、素早く動いた。
長い左腕を伸ばし、最初に斬られた荷馬車の護衛を掴む。
そうして、ブウンッと投げつけてきた。
「ぐわあっ!?」
「おっぼぉ……っ!?」
エウリアスの前に立つ兵士数人が、その投げられた護衛に巻き込まれる。
「何だよ、あれは……!」
女の姿を、エウリアスは茫然とした面持ちで見ていた。
自らの血に、全身が真っ赤に染まる。
それでもピンピンしていることもおかしいが、女のおかしさはそれだけではない。
「……あの左腕は、何だ?」
女の左腕は、異様に長かった。
前腕と上腕が、それぞれ一メートル以上ある。
だらんと下ろせば、余裕で地面に着くくらいに。
そして、無理矢理に引き伸ばしたかのように、皮膚が裂けていた。
その裂けた皮膚の間からは、黒い靄が湯気のように溢れ、漏れ出ている。
しかし、腕の長さに関しては、それだけでは説明がつかないことがある。
女は、エウリアスと二十メートルくらい離れていたのだ。
それなのに、エウリアスの顔面を鷲掴みにするかのように迫った。
エウリアスからは、あの鉤爪のような手が邪魔して見えなかったが、もしかして伸びたのか?
「坊ちゃん! 我々が時間を稼ぎます! ここは避難してください! あれはどうやら、魔物の類のようです!」
タイストがエウリアスの下にやって来て、避難するように進言する。
馬を下りると、エウリアスに自分の馬に乗るように、手綱を差し出す。
そこに、グランザもやって来た。
「人の姿に化ける、魔物か……? あんなのは聞いたこともないな。」
グランザはそう呟きながら、女の方を見る。
女は、馬の首を掴むと、迫る兵士に投げつけていた。
確かに、魔物の類で間違いないだろう。
エウリアスは、頬を流れる汗を拭うと、首を振った。
「だめだ。
「な、何を言ってるんです! あんなのを――――!」
ドンッ!
反論しようとするタイストの胸に、エウリアスは拳をぶつけた。
「馬鹿野郎っ! あんなの野放しにできるかっっっ!!!」
「――――ッ!?」
エウリアスが大喝すると、タイストが息を飲んだ。
「あんな怪物がラグリフォート領をうろついてるんだぞ!? どれだけの被害が出ると思ってるっ!」
「坊ちゃん……!」
エウリアスは拳を下ろすと、グランザを見上げる。
「すまない、グランザ。お前たちの
エウリアスがそう言うと、グランザがドンと自分の胸を叩いた。
「勿論です。何なりとお命じください。」
グランザが頷くと、タイストが声を荒らげる。
「おいっ、何を言ってるか分かっているのか! 坊ちゃんの
「分かってねえのはお前だ、青二才っ! あれが……あんなのが、これまでも坊ちゃんを狙ってたんだろうが……!」
グランザが忌々し気に女を見る。
「逃げて済む相手なら、儂だって坊ちゃんに逃げてもらう。だがな、あれはだめだ。逃げて何とかなるような相手じゃねえ。」
そうしてグランザは、エウリアスを真っ直ぐに見る。
「何としてでもここで仕留めましょう。儂らの
「ありがとう、グランザ。すまない……。」
グランザの忠誠に、エウリアスはしっかりと頷いた。
あの怪物を倒すには、悔しいがエウリアス一人だけでは倒し切る自信がなかった。
奥の手の【偃月斬】を喰らっても倒れなかったのだ。
ならば、あとは死力を尽くして挑むしかない。
タイストは苦し気に顔をしかめ、やがてガリガリと頭を掻きむしった。
「くそったれめ……言い出したら聞きやしない……!」
普段は口にすることのない、エウリアスに対しての悪態。
これまでエウリアスが危険に向かって行っても、こんなことを言うことはなかった。
それだけ、今回の相手がやばいということではあるが……。
エウリアスが目を丸くして見ていると、タイストが苦し気に言葉を絞り出す。
「……いざとなれば、殴り飛ばしてでも離脱しますからね。」
「ああ、お前はそれでいい。頼りにしてるよ。」
エウリアスがそう言うと、タイストはもう一度「くそったれ……」と呟くのだった。
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