第36話 買い物?
ゲーアノルトとメンデルトの話し合いの間、エウリアスはイレーネとともに応接室で待つことにした。
エウリアスが応接室に着くと、イレーネがカチコチに固まっていた。
「悪かったね。一人にしてしまって。」
「い、いえっ……。」
コルティス商会が結構大きい商会だと分かったので、イレーネはそこのお嬢様ということになるだろう。
それなりのランクの生活をしていたはずだが、イレーネは貴族と接する機会はなかったのかもしれない。
そのため、応接室の豪華さというより、貴族の屋敷という雰囲気に飲まれ、緊張が頂点に達しているようだった。
「そんなに緊張しないで。話し合いが終わったら、ちゃんと学院に送るから。」
「だ、大丈夫です! 歩いて戻れますから!」
イレーネのその返答に、エウリアスは苦笑してしまう。
おそらく、緊張で何も考えられないのだろう。
エウリアスの屋敷ならばともかく、この別邸からは学院は相当に離れている。
歩いて帰れないことはないが、時間はかなりかかる。
出されたお茶にも手をつけていなかったようで、冷めてしまっていた。
エウリアスは
「お茶でも飲んで、少し落ち着いて。」
「は、はいっ。」
イレーネはカップに手を伸ばすが、少し震えているようだった。
この震えは、緊張からくるものだろうか、それとも……?
(話し合いの結果次第では、家に連れ戻されることになるんだもんな。緊張もするか。)
そして、それは顔も知らぬ相手との婚約を意味していた。
緊張するなという方が、無理な話かもしれない。
話題を変えて、少し緊張を解す方がいいだろう。
「イレーネは、確か隣のクラスだよね。剣術の時間とかで見かけた憶えがある。」
「は、はひっ!」
イレーネは相変わらずカチコチに固まって、声が裏返ってしまう。
だが、すぐにしょんぼりと肩を落とした。
「私…………騎士に向いてないのかな……。」
そんなことを漏らす。
「どうしてそんな風に思うの? こう言ってはなんだけど、学院に来る子たちは、みんなこれまで剣を使ったことのない子ばかりだよ? そういう子を一人前に育てるために、学院があるのだから。」
剣術を習ったことのある子など、むしろごく少数だ。
エウリアスやトレーメル、ルクセンティアのような貴族の縁者。
親や兄弟が騎士をやっている場合は、教わったことのある子もいるだろう。
だが、裏を返せばそのくらいしかいないとも言える。
入学して一カ月二カ月の技量など、これからの五年間でいくらでも引っ繰り返せる。
そう伝えるが、イレーネの表情は晴れない。
「クラスの子とも上手く馴染めなくて…………私が下手だから、誰も剣の練習の時に組んでくれなくて……。」
どんどん沈み込むイレーネに、エウリアスは苦笑すら作れない。
ちょっとした愚痴かと思ったら、結構深刻なことになっていたようだ。
どうもイレーネは、子供の頃から周りには、商会に勤める従業員やその子供しかいなかったらしい。
そうすると、商会の会頭の娘として、周りが接することになる。
まあ、言わば接待のような感じだ。
周りにいる人は、基本的にイレーネのやることを全肯定。
誰もイレーネに、注意をしてくれる人などいなかった。
家庭教師が付いて、勉強や礼儀作法は習ったが、今思えば友人関係のようなものは結べなかったらしい。
そして、騎士学院だ。
寮生活で初めて、
慣れない寮生活で、ちょっとした祖語からギクシャクした雰囲気になり、そのまま周囲から敬遠されることになってしまったらしい。
イレーネの表情が、暗く沈み込む。
「私、やっていけるのかな……。お父さんの言うように、家に戻った方がいいのかな……。」
さすがにこれは、デリケート過ぎる問題だ。
いや、すでに婚約というもっとデリケートな問題に首を突っ込んでいるのだが、本人がとても気にしていることに何と言えばいいのか。
(確かに、見かける時は一人でいることが多かったか……?)
エウリアスも、トレーメルとルクセンティアと組むため、誰か一人は休憩したりといった感じだった。
てっきり、同じような感じで練習をしているのだと思ったが。
「………………。」
エウリアスは少し考え、イレーネに提案することにした。
「じゃあ、一緒にやる?」
「…………………………へ?」
エウリアスの言うことが理解できず、イレーネが目を瞬かせる。
だが、すぐに手をぶんぶん振って断った。
「そ、そそそ、そんなことできませんっ! お、お貴族様と、れれ練習なんてっ!」
まあ、これは普通の反応だろう。
機嫌を損ねれば、どんなことになるか。
それを思えば、とても「うん、やろう」とは言えない。
だが……。
「君の気持ちも、分からなくはないからね。他の子と組めるようになるまで、練習相手になるくらい何でもないよ。」
エウリアス自身、領主の子。
それも嫡男として、周りから接してこられた。
それを当たり前として受け入れてきたが、少しだけ領民たちと距離を縮めることもできた。
師匠のおかげで。
(俺もきっと、師匠がいなければ領民と自分は違う世界にいると思い込んでいただろうな。)
だが、実際は距離を縮めることができた。
勿論、エウリアスが領主の子であることに変わりはなく、周囲もきっとすごく遠慮していただろう。
それでも、一緒に笑ったり、失敗して悔しがったり。
そんな、ラグリフォート領の民たちとの関係が、エウリアスにとってはかけがえのないものになった。
エウリアスはにっこりと微笑む。
「そのうち、剣の試合なんかもすることになるみたいだし、今から慣れておけば後が楽だよ?」
「そ、そうかもしれませんが……やっぱり、私なんかじゃ、お貴族様の練習相手なんて……。」
イレーネは俯き、唇を震わせる。
「じゃあ、俺がイレーネと組みたいから組む。次の授業では誘いに行くから、他の子と組んじゃ嫌だよ?」
「え、ええぇぇえっ!?」
強引に話を進めるエウリアスに、イレーネが大きな声で驚く。
口をぱくぱくするが、言葉が出てこない。
しばらくそうして固まっていたイレーネだが、やがて力が抜けたのかふにゃふにゃになった。
「…………エウリアス様は、やっぱりお優しいんですね。」
「ん?」
イレーネの言っていることが分からず、エウリアスは首を傾げる。
イレーネは困ったように複雑な笑みを浮かべ、上目遣いでエウリアスを見た。
「エウリアス様は、憶えてらっしゃらないかもしれませんが……。」
イレーネはそう言って、とても柔らかい笑みを浮かべる。
「私が困っている時、前もそうして助けてくださいました。」
「前?」
「火を起こす練習の時です。みんなができるのに、私だけできずに……。」
「…………あ。」
思い出した。
確かに、周りがみんな終わって談笑している間、一人だけできないで困っている女の子がいた。
「そうか。君は…………あの時の。」
「はい。」
イレーネは微笑みながら、軽く目元を拭った。
「私、やったことがなくて……誰にも聞けなくて……どうしようって、すごく怖かったんです。」
裕福な家で育ったため、炊事を手伝ったことがなかったイレーネ。
すでに周囲とはギクシャクしてしまっていたため周りに聞くこともできず、どうすればいいのかも分からず、とても悲しく、怖かったと言う。
「あの時、本当に嬉しかったんです。お貴族様って、もっと怖い方ばかりだと思っていましたから。」
普通に話しかけ、微笑みながら教えてくれるエウリアスの態度が、とても嬉しかったらしい。
「じゃあ、今度も優しく教えてあげるね。」
「…………ほ、本当にやるのですか?」
微笑むエウリアスに、イレーネが恐るおそる確認してくる。
エウリアスは、ただにこにこと微笑むだけ。
そんなエウリアスを見て、イレーネが諦めたように肩を落とす。
そうして、深々と頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします、エウリアス様。」
「うん、こちらこそ。」
こうして、次から剣術の時間はイレーネと組むことになった。
それから少しして、ゲーアノルトとメンデルトがやって来た。
メンデルトが、とてもにっこにこしていたのが印象的だ。
「本当にありがとうございました、エウリアス様。」
「商談は上手くいったみたいだね。」
「はい。」
そうして、イレーネはメンデルトが学院まで送ることになった。
ゲーアノルトと並んで、玄関で二人を見送る。
「それでは、ラグリフォート伯爵。これからよろしくお願いいたします。」
「うむ。こちらもすぐに動く。そちらも準備を進めてくれ。」
「心得ております。」
馬車に乗り込むまで、メンデルトとイレーネが何度も振り返って頭を下げた。
メンデルトの馬車が動き出したのを、エウリアスは見送る。
そこで、ゲーアノルトが口を開いた。
「さすがに、今日みたいなことは感心せんな。」
「すみませんでした、父上。」
エウリアスが謝罪すると、ゲーアノルトが頷く。
「まあいい。今回は
「…………買い物?」
あれ?
そんな話だったっけ?
「何か買われたのですか?」
「ああ、ちょっとな。」
そう言って、ゲーアノルトは口の端を上げる。
「なかなか研究に熱心な職人が揃っているようだ。これで、ラグリフォート産家具をもう一段引き上げることができるようになる。」
「研究に熱心……。」
満足げなゲーアノルトを見て、エウリアスはもやっとしたものを胸に感じた。
(まさか、商会ごと買ったとか、そんな話じゃないよね……?)
さすがにそれはないと思うが、それではゲーアノルトは何を買ったのだろうか。
詳細を語らない父に、エウリアスは頬を引き攣らせてしまうのだった。
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