#25 笛と母の話
トラブルもなく、舟は下流の船着き場に到着した。桟橋と舟の間は相変わらず大きな段差があったが、ラインハルトは当然のようにリーシャに手を貸してくれた。
リーシャを引っ張り上げると、他の女性たちにも分け隔てなく手を貸し、中年女性たちに黄色い歓声を上げられていた。
「いい男だねぇ」
邪魔にならないよう岸辺で脇に寄っていたリーシャは、しみじみとした声に振り返った。
民芸品を敷物の上に並べた露天商の老婆が、目を細めてラインハルトを見ていた。深いシワの刻まれた小柄な女性で、かなりの高齢だ。
「死んだ旦那を思い出すよ。親切な色男でねぇ、それはよくモテた」
「そっくりですね」
リーシャは頷いたが、老婆はくわっと目を見開いた。
「ひどい浮気者だったけどね」
恨みのこもった声だった。
返答に困ってリーシャは商品に興味がある振りをした。木彫りの人形や、刺繍がされた布の袋などが並んでいる。
構わず老婆は話し続けた。積年の恨みが溜まっているようだ。
「みんなにいい顔する、ろくでなしだった。騙されちゃいけないよ」
「ええと、はい。騙されようもないというか……友人なので」
問題ないとリーシャは言いたかったが、「甘い」と老婆は一蹴した。
「モテすぎて普通の女に飽きた男は、自分に興味のない相手に手を出したくなるんだよ」
「……」
先日、とち狂ったような求婚された身としては突き刺さる忠告だった。
黙り込んだリーシャに、老婆は一つ商品を握らせた。紐のついた木彫りの小さな笛だった。子供用の玩具で、表面には鳥の絵付けがされている。
「手を出されそうになったら吹くんだよ。あんたは大きい声を出すのが苦手そうだから」
戸惑いながらリーシャは礼を言った。
「ありがとうございます……」
「8パラだが、5パラにまけてあげるよ」
しっかりしている。リーシャはポケットから銅貨の入ったガマ口の財布を取り出した。
「お待たせ、姫。なんとか追加のオレンジは阻止したよ。……何か欲しいものあった?」
弾むような足取りで、ラインハルトはリーシャに合流した。
「その笛が気に入ったみたいだよ」
老婆はにこにことラインハルトに説明した。浮気性の旦那を思い出すとラインハルトに批判的だったことなどおくびにも出さないのは、さすがの年の功である。
リーシャの手の中の笛を見て、ラインハルトは破顔した。
「可愛いね。気に入ったなら買ってあげるよ。いくら?」
「いえあの、自分で買いますから」
あなたを警戒しての笛だとは言えず、リーシャは辞退したが、「デートなんだから今日は貢ぐよ」とラインハルトは譲らなかった。
「10パラだよ」
ちゃっかり老婆は値上げしている。疑うことなくラインハルトは10パラを払った。
「ありがとうございます……」
礼を言いながらも、リーシャは複雑な気分だった。
並んで歩きながら、ラインハルトは笛を指さしてリーシャに提案した。
「吹いてみたら?」
笛を買って吹かないのもおかしいので、リーシャはラインハルトに言われるまま笛を吹いた。どうにも気分が乗らず、「……ピョ」とかすかな音が鳴るだけだった。
「姫……それじゃ瀕死のヒヨコだよ」
もう一度吹いたら「ピョー」と切ない音色が上がった。
「失恋して泣き叫んでるヒヨコ?」
「ヒヨコは失恋しません」
メスのために鳴くのはニワトリになってからだ。
「頑張ってきれいに鳴かないと求愛を受け入れてもらえないよ」
「求愛する予定はないのでいいんです」
リーシャは笛を首から下げると、服の中にしまいこんだ。何かあったときの笛なのに、吹いたら求愛行動だと思われたら困る。
「なら仕方ないね」
ラインハルトはリーシャの手を握った。
「……友人と手を繋ぐ趣味が?」
「小さな友人とはつなぐよ。迷子になったら困るだろう?」
「幼児じゃありません」
「俺が迷子になるの」
こう言えば文句はないだろうとばかりにラインハルトは笑っている。リーシャは諦めて前を向き、迷子になりやすい友人に言い聞かせた。
「危ないから飛び出しちゃダメですよ」
「はい、姫」
「きれいな女性がいても、ついて行かないでくださいね」
「うん。一番きれいな人と一緒にいるから大丈夫」
「……仕方ないから私をお母様と呼んでもいいですよ」
「それは嫌だ」
あまりの衝撃にラインハルトは立ち尽くした。心底嫌そうな顔をするので、リーシャは吹き出してしまった。
「すみません。私ではライネさんのお母様の代わりにはなれませんね」
「ならなくていいよ。姫が母みたいになったら困る」
顔をしかめてラインハルトは言った。リーシャが目を向けると、困った様子で説明する。
「美人で歌は上手いけど、トラブルも多い人でね。皇帝に見初められて後宮に入ったけど、そこでの暮らしは彼女の理想通りとはいかなかったみたいだ。退屈すぎたのか、息子に英才教育を施すことを思いついたらしい」
「英才教育?」
「俺が赤ん坊の頃から、自分が求婚者たちに言われた古今東西の口説き文句を教えこんでいたそうだ。ウソか本当か知らないが、言葉を覚えたての俺が最初に言ったのは『あなたは花のように美しい』だったとか」
リーシャは笑ってしまった。
「お母様に向かって?」
「そう。母の反応は──『私の美しさが花程度なんて心外だわ』」
「手厳しいですね」
「喜んではいたみたいだ。後々その時のことを話しては、『あんな平凡な口説き文句でも一番嬉しかった』と言っていたから」
母親のことを語るラインハルトは穏やかな様子だった。懐かしそうに思い出を語るのは、彼女のことを愛していたからだろう。
「朝の褒め言葉が気に入らないとベッドから起きてこないし、化粧の支度を手伝って髪を編むこともあった。夜会のあとは飲みすぎてソファに寝転んだ母から靴やらドレスやら脱がせて、足も揉まされたりしたな。母の新しいお茶会相手を探して、外で令嬢を見繕ってナンパしたり……母の身分の低さや教養のなさで兄弟にはずいぶん陰口を叩かれたが、気にならなかった。美しい母が誇りだったし、辛く当たられる母には俺しか味方がいなかった。なんでもしてあげたいと思っていたんだ。いつか俺が……地位を手に入れたら、もう誰にも傷つけさせずに守ってあげられると信じてた」
リーシャはラインハルトを見上げ、無意識のうちに彼の手を握っていた。
そんなにも大事に思っていた肉親を、彼は最悪の形で失った。何もかも奪われてしまったのだ。その残酷さにリーシャは何も言えなかった。
ラインハルトはリーシャの手を握り返して、明るく言った。
「守られるだけの人ではなかったけどね。叔母に嫌味を言われれば、お詫びに歌うから聞いてくれと押しかけて、頭に響く高音の曲を何時間も歌い続ける程度のことはしょっちゅうやっていたし。叔母は数日は耳がいかれて、逆に陰口を叩かれ放題になっていた」
「強いお母様ですね」
「どっちかというと音響兵器じゃないか? 声で簡単にグラスを割れる人だった。それが酔うとストレス解消に夜中でも歌い出すから、俺は安眠の地を求めて国立図書館の鍵を開ける方法を見つけ出した」
眠れないと図書館で寝ていたのか。そんなことがあったのをリーシャは思い出した。
「新年に国立図書館で寝てらっしゃいましたよね」
「むしゃくしゃして飲みまくって、部屋まで帰るのが面倒だったんだ。昔の方法でまだ開くか試したら壊れたから、ちょうどいいと思って。昔と同じように静かでよく眠れた」
「おかしいと思いました。鍵は開いてるのに係の人が誰もいませんでしたから」
まさか皇子に鍵を壊されたとも思わず、担当者は慌てたことだろう。高価な本も多いのだから。
「寝てたら子供が入ってきて、外国語の新聞や専門書を次々に読み漁るから寝ぼけて夢でも見てるのかと思ったよ。きっと知恵の妖精なんだろうと思ったら、飛べないのかイスに上るし、落ちそうになるし、夢にしては妙だなと」
「その節は助けていただいてありがとうございました」
「善行は積むものだよね。妖精を助けたら命を救ってもらえた」
ラインハルトが言っているのは婚約式の夜に毒で死にかけた件のことだ。
命を救ってもらったと思っている彼に、リーシャは小言を言わずにはいられなかった。
「助かったのは運がよかったんですよ。過信しないでくださいね。危ないことは控えてください」
「妖精の警告か。無視すると、ひどい目にあうパターンだね」
「茶化さないでちゃんと聞いて下さい」
リーシャがたしなめても、ラインハルトは楽しそうに笑うばかりだった。
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